今朝見ると河津桜の花が開いていました♪
「河津桜(カワヅザクラ)」(桜図鑑 日本花の会) 島津有里子さんの投稿(2月9日)
2010年12月、ニューヨークでの復活コンサートを取材させて頂きました。
小澤さんの到着を外で待っている私達に「寒いでしょう、大丈夫?」と声をかけて、気遣って下さる方でした。
小澤さんの渾身の指揮で奏でられた、ブラームスの交響曲第1番は今でも忘れません。
ご冥福をお祈りします。
小澤征爾さんの話ではありませんが
ある方の投稿を見て、二日続けて転記したくなりました。
渡米と二千曲記念ショー
…前略…
昭和26年11月15日から28日までの2週間、『服部良一作曲二千曲記念ショー』が日劇で催された。
ぼくの作曲帳に記されている作品第一号は、出雲屋少年音楽時代に書いた『いづもダンス』で、安来節をベースにしたフォックストロットである。
大正13年8月18日、17歳のときの作曲だ。
以後、27年の歳月が流れ、作品の数も二千曲に達したわけである。
ぼくは44歳になっていた。
(『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)
所属のコロムビアとビクターの全面的な応援で、第1週はコロムビア勢で藤山一郎、二葉あき子、笠置シヅ子、奈良光枝、岡本敦郎、池真理子、リズム・シスターズ。ある方の投稿を見て、二日続けて転記したくなりました。
渡米と二千曲記念ショー
…前略…
昭和26年11月15日から28日までの2週間、『服部良一作曲二千曲記念ショー』が日劇で催された。
ぼくの作曲帳に記されている作品第一号は、出雲屋少年音楽時代に書いた『いづもダンス』で、安来節をベースにしたフォックストロットである。
大正13年8月18日、17歳のときの作曲だ。
以後、27年の歳月が流れ、作品の数も二千曲に達したわけである。
ぼくは44歳になっていた。
(『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)
第2週はビクター勢で市丸、灰田勝彦、淡谷のり子、渡辺はま子、服部富子、そのほか胡美芳と黄清石が加わった・
演出は山本紫朗、指揮はかつてぼくから和声学のレッスンをうけた佐野鋤、服部逸郎(レイモンド)、原六朗、小川寛興で、『ヒット・パレード』三部二十六景の各景を分担して、颯爽と棒を振ってくれた。 第十三景が、ぼくのためにもうけられた登場のシーンで、燕尾服のぼくが美女の包まれて華やかにセリ上がってくる。
そして、フロント・マイクで聴衆にあいさつするわけだが、ある日、どうしたことか舌がもつれて、
「本日は、ぼくの二千曲記念の……」
というべきを、
「本日は、ぼくの紀元二千……」
といってしまった。 戦時中、紀元二千六百年の式典が大々的に挙行され、国民から公募歌謡『紀元二千六百年』がいたるところで歌われた。
紀元二千六百年は、ぼくらの世代の頭にこびりついている言葉であった。
言いまちがいに気づいたが、さあ、どうにもあとがつづかない。
お客はクスクス笑い出すし、何を言ってもへどもどになって、立ち往生したことがある。
それからは注意して、ゆっくりしゃべったが、二度ばかり同じ誤りをくりかえした。 千秋楽の最後のステージでは、歌舞伎の向こうを張って、流行歌界で初めてのソソリをやった。
灰田勝彦が女装で『セコハン娘』を歌えば、渡辺はま子は野球選手の男装で『東京の屋根の下』を歌う。
市丸姐さんがハイヒールにイブニングドレスの洋装で淡谷ばりに腕を組んで『別れのブルース』を歌えば、淡谷のり子は日本髪のカツラで着物を着てツマを取り市丸ばりの『三味線ブギ』で応酬する。
笠置シヅ子は中国服で『バイバイ上海』を歌い、妹の富子はゲタばきかっぽう着で『買い物ブギ』を歌った。
当夜の「玄人(くろうと)のど自慢」には、東海林太郎、ディック・ミネ、堺駿二、南里文雄が飛び入りでぼくの曲を歌い、バンマス・クラスのかつての仲間、後藤博(トランペット)、杉原泰蔵(ピアノ)、飯山茂雄(ドラムス)がトリオで特別出演、『牡丹の曲』を歌ってくれた。 『湖畔の宿』の高峰三枝子が撮影の都合で来られなくなったので、木暮実千代さんがフィナーレのステージに花束を持って現われた。
ぼくは彼女のファンの一人であっただけに、思いがけない贈り物に胸がドキドキした。
木暮さんとは『花の素顔』の映画で知り合い、よく西荻窪まで省線でいっしょに帰ったことがある。
『青い山脈』では、芸者梅太郎に扮し、匂うような美しさをまきちらした。 彼女は歌は得意ではないが、たった一曲、歌いたい好きな曲があるという。
「先生の曲ですよ」
と、妖艶な流し目だ。
「なんでしょう」
「昭和十五年か六年だったかしら、松竹に入って、主役がとれるようになったころ、先生の『誕生日の午後』というレコードをよく聞いていました。淡谷さんが歌っていましたけど。あの曲すてきだわ」
『誕生日の午後』は彼女の記憶通り、15年の10月に藤浦洸作詞、淡谷のり子の歌でレコードが出ている。
ぼくは、さっそく、『誕生日の午後』を木暮さんの音域(キー)に合わせて、ぼく自身で念入りに譜面を作り、彼女にお届けしたという涙ぐましい思い出がある。
大阪でも『服部良一作曲二千曲記念ショー』を、日劇と同じ形で、大劇の舞台にのせた。
千秋楽の日の最終回で、ぼくは華やかに美女に囲まれて登場した。
指揮は、まな弟子の小川寛興。
いつものファンファーレとちがって童謡の『桃太郎』が聞こえる。
曲に合わして階段を降りて行ったが、ぼくのアダ名を「燻製(くんせい)の桃太郎」(サトウハチロー命名)と知ってのイタズラだ。 ここで毎回、OSKのラインダンスが出場する。
「おや?」
ぼくは目をこらした。
今宵のラインダンスは、OSKガールスにしてはどうも足が大根のように太い。
足のあげかたも、もたつき加減だ。
衣裳はそろいの紫色の超ミニだが、フト先頭を見て驚いた。
妹の富子ではないか。
つづいて、笠置シヅ子、小川静江、渡辺はま子、淡谷のり子、山本照子、山本和子……と、女性歌手総出演のラインダンスである。 黄色い掛声をあげながら一生懸命、太めの足をあげて踊っているトップ・シンガーたちを見ているうちに、ぼくの全身が熱くなり、目の前がぼーっと涙でかすんでいったのを覚えている。
彼女たちは、ぼくをアッといわせようと、二、三日前から極秘の猛練習を重ね、衣裳も自分のサイズに合わせて縫い直し、胸をわくわくさせて本番にのぞんだということだ。
東京公演でのソソリといい、玄人のど自慢といい、大阪公演での桃太郎行進曲といい、ぼくの音楽にゆかりの深いスターたちのラインダンスといい、生涯忘れることのできない記念ショーの演出であり、何よりのプレゼントだと感謝にたえない。
(『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)今日は、blogを休むつもりでしたが、毬谷友子さんの投稿(2月9日)
戦後、満州から身一つで引きあげて来た母は、服部良一先生に可愛がって頂いた。
双子の姉と共に「服部良一リズムシスターズ」というのに入れて頂き、笠置シヅ子さんのバックコーラスをしていた。
これは超お宝写真だと思う。🎉
左から2人目が私の母 右から2人目は #笠置シヅ子さん かな?#ブギウギ
「超お宝写真」の画像は、自伝に載っていてコピーができないなぁと思っていた写真です。
昭和26年、『二千曲記念ショー』フィナーレ(右より、服部富子、笠置シヅ子、小川静江、渡辺はま子、淡谷のり子、山本照子、山本和子)
服部良一 明治40(1907)年10月1日生れ
淡谷のり子 明治40(1907)年8月12日生れ
昭和26年は、お二人とも44歳です。
今朝の父の一枚です(^^)/私もこのカワラヒワを見ていたのですが、300mmレンズでは遠すぎたので諦めていました。
カワラヒワ 大好物のヒマワリの種子
種子を割る
カワラヒワは、その名のように河原などの開けた場所を好んで生息している。
樹木と耕地が混じっているような環境に多く、田畑や果樹園、公園、あるいは住宅地などでもよく見かける。
冬季には、群れ生活をしており、餌台(えさだい)にもよくやってくる。
10羽から数十羽の群をなすこともある。
アワやヒエといった粒餌(つぶえ)などを食べ、特にヒマワリの種子が大好物だ。
太い嘴でヒマワリの種をくわえたまま、種子を回転させたり、くわえ直したりして、堅い種皮を割って上手に食べてしまう。
冬季、エサが不足してくると、餌台のうえで争いが絶えなくなる。
互いに向い合ってつつきあい、そのまま空中に飛び上がり、もつれあいながら落下することもある。
餌台のヒマワリの、近くの屋根の上に運んでから割って食べたりもする。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)