家を出たときは小雨だったけど
歩いているうちに本降りになり、風も出てきたので早めに帰りました。
「関東甲信 6日朝にかけて大雪 東京23区含む平地も積雪の見込み」(NHK)朝ドラ「ブギウギ」の村山愛助のモデルになっている
吉本穎右(えいすけ)は昭和22(1947)年5月19日に亡くなりました(享年24歳)。
娘ヱイ子が生れたのが6月1日です。
「泣き笑い日記抄」に
五月二十日 昨夜は行く末過ぎし方のあれこれを思い、夜明けまで眠れなかった。
櫻井先生も今夜はこれを飲みなさいとカルモチン(鎮静睡眠薬)を枕元に置いて行かれた。
子供に障ってはと、白々明ける頃にカルモチンを飲む。
五時間ぐらい眠ったであろうか。
茂木さんの声に眼覚める。
午前十時だそうだ。
びっしりと寝汗を掻いている。
エイスケさんがラッパを吹いて、私が何か歌っている夢を見たが、あれは帝劇だろうか、国際劇場の舞台だろうか。
とにかく「ラッパと娘」らしかった。
(『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』宝島社 2023年)
同じ年の1月10日に穎右と同じように喀血で亡くなったのが同時代の証言
織田作之助について 林芙美子(はやしふみこ)
織田作之助と云ふ作家を想ひ出すたびに、私は、眼の底に熱いものがこみあげて来るやうな哀愁を感じる。
死の前の数年と云ふものは、まっしぐらに作品がきらめき渡り、これほど大阪を描き、大阪の庶民の生活を愛情こめて描いた作家はないと思ふ。
文学と云ふものを酒にたとへるならば、これほど、文学の酒に泥酔しきって身をほろぼしてしまった作家はまれであろう。
この泥酔のなかにのみ、彼は生甲斐を感じ、家を持たずに最後も亦旅空でこの泥酔の為に酔ひ死にしてしまった感じである。
――昭和二十一年の暮に、読売新聞に土曜夫人を書き、その中ばで織田作之助が上京して来た。
私は或夜織田夫妻の来訪を受けて、始めて織田作之助と云ふ人間に接した。
思ひやりの深い、心づかひのこまやかなひとで、その夜の話は初対面ではあったが案外はずんだ。
(『織田作之助 昭和を駆け抜けた伝説の文士“オダサク”』オダサク倶楽部編 河出書房新社 2013年) 二度目は銀座裏の旅館で血を吐いて静かに寝てゐる織田作之助であり、三度目は、病院のベッドであり、四度目は織田作之助の死顔との対面であった。
あまりに呆気ない交友ではあったけれども、死の迫ったのを聞いて、カンフルや、サンソ吸入を探しまはる役目を、まだ一度も織田作之助に会った事もない私の良人が引きうけるまはりあはせになった事も因縁と云ふにはあまりに不思議である。
その頃は、終戦間もなくて、薬さへも不自由な時代であった。
だが、織田作之助にはもう生きる力がなかった。
生命までも空転して逝ってしまった。
私は地だんだを踏んで惜しい作家を亡くしてしまったと思った。
ロマンを、新しいロマンを口走ってゐたと云ふ彼の忘念(もうねん)がぐるぐるとそこいらに舞ってゐるやうな息苦しいものを、私は彼の作品に接する度に思ひ出すのである。 土曜夫人は新聞小説のスタイルとしてはユニイクなものであるけれど、惜しい事には中途でそのユニイクさの完結を見る事が出来なかったのが残念である。
京都と云ふ古風な場所を舞台に選び、敗戦後のデカダンスが如実に表現されてゐるところが、当時の読むものの心をとらへたのであらう。
その前に大阪の新聞に、夜光虫と云ふ作品を書いてゐたのを私は読んだ事があったけれども、モチーフはよく似たものであつたが、この土曜夫人の方が私には戦ひをいどんでゐるやうで好きな作品であった。
只、私流に難を云ふならば、あまりに偶然の可能性と云ふ馬にむちを打ち過ぎて走り過ぎて行った思ひがないでもない。偶然の可能のなかにたゞよふ社会と云ふものを、作者はぢいっとペンを握ったまゝみつめてゐたやうな、そんな、森閑としたものを感じる。
グッドモーニングの銀ちやんも章三も、春隆も、木崎三郎も京吉もみんな作者の分身であるに違ひないのだ。
だが、私は或る意味で織田作之助の文学の本領としては、この土曜夫人は織田作之助がもし生きてゐて、数年を越えて読み返したならば、彼にとっては不服なものになるかもしれないと思ふのである。
あまりに可能性をのみ追ひすぎ、新聞小説の面白さのコツを心得すぎた作品になりすぎてゐるところが私には感じられる。
裏返して云ふならば、日本の新聞小説のスタイルは或る意味で作家の筆をすさませるものであるかも知れない。土曜夫人は独自なスタイルであり、独自な小説ではある。
荒い息づかひで一日一日の読み物として、これほど力いっぱいに取り組んでゐる作品も新聞小説としてはまれであらう。
此作品は、前半はカメラ的効果も考へられてゐたに違ひないが、後半に到っては、そんな事はどうでもよくなり、多くの登場人物をそれぞれにデッサンする事が面白くなり、作者の小説のうまさが油つこく描かれてゐるやうに見える。
なかでも、三十五歳の章三のデッサンが私には面白い。 いはば、土曜夫人のあとに来る作品の中に、土曜夫人の後半に示された力量が盛りあがって来る伏線のやうなものを私は感じるのである。
今読み返してみると、この土曜夫人は、才あまって通俗におちた作品と私は断じる。
彼が生きてゐたならば一言あるべきところであらうが、死んでしまってゐてはどうにもならない。
だが、私は織田文学に対する熱烈なる愛読者である。
憂愁の思ひのなかに降る雨を見て、この雨の淋しさはいった何だらう、雨が降ると云ふ事には何の意味もないぢやないかと、夜の構図だかに書いてゐた彼のニヒリスチックな本質には私は共感を持つのだ。私は何時だったか、大阪の作家の小説のうまさに就いて講演をした事があったけれども、西鶴を始めとして、近代では宇野浩二、武田麟太郎、織田作之助を生んだ大阪の土地と云ふものにもこの作家を生む丈けの何かがあるのではないかと思ふのである。
そのほかにも関西の作家では、川端、横光、藤沢、丹羽、井上と、みんな小説のうまい作家が出てゐるのは妙である。
その中でも、最も大阪を愛し、大阪から一歩も出ないで大阪を書いた作家が織田作之助であらうか。
六白金星、世相、夫婦善哉と云つた。
一連の短篇は大阪の庶民を描いて見事なものである。
いま四五年も生きてゐたならばと私は思ふ。
死生の間を息せき切つてゐた織田作之助文学の絶筆としては、この土曜夫人の作品は彼らしい泥酔のしかたであり、何とも心のこりなものを読者の琴線にふれさせ、フレキシブルなものが感じとられる。 織田作之助は三十五歳で亡くなった。
それにしても、若くして逝った彼の文学は逞しいものだと私は思ふ。
惜しい。
惜しくてたまらない。
昭和二十四年二月 下落合にて
作家
新潮文庫『土曜夫人』解説、昭和24年、のち河原義夫『織田作之助研究』昭和46年、六月書房所収
(『織田作之助 昭和を駆け抜けた伝説の文士“オダサク”』オダサク倶楽部編 河出書房新社 2013年)
「大阪を愛した作家 織田作之助」(大阪府立図書館)今朝の父の一枚です(^^)/
ウメにメジロが来ていました。
「二章 ヒマラヤザクラを求めネパールへ 19 サクラの来た道の仮説」つづき
おだやかなネパール地方の風土で、ヒマラヤザクラのように確実に秋に咲く性質のサクラが、寒さや乾燥に満ちた環境に適応しようとする時、その条件を克服する手だてとして、深い休眠という性質を獲得し活用するという仮説が成立します。
寒い冬期には成長を止め、葉を落し、かたく芽を閉じて、暖かい気温の上昇を感じてその休眠は破られ、落葉前に形成済みの花芽はめでたく開花するといった具合で、サクラの春の開花と休眠とはきわめて密接な因果関係があることを異種間のつぎ木で確認することができたということです。
その枝条に偶然のように発現した秋咲きの品種は、「われわれサクラの祖先は秋に咲いていた」と訴えているように思われるのです。
…後略…
(『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜―』染郷正孝 信山社 2000年)