2024年2月23日金曜日

天皇誕生日

今朝も天気が悪く曇り時々雨で気温も低い。
明日は、来週、循環器科の診察があるので事前の検査。
火曜日が歯科、水曜日に循環器科を受診。
受診する日には少しは晴れ間があるみたい(^_^;
今日は、「天皇誕生日」(「国民の祝日」について

今上天皇ではなく、上皇さまのことですが

補章 象徴天皇の平和・平成
 平和を祈念する象徴天皇


 戦後60年の節目にあった年、戦後が還暦を迎えた2005年(平成17)、今上天皇は次のような御製を詠んだ。
 
 戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出づ かの難(かた)き日を生きし人々

「かの難き日を生きし人々」とはシベリア抑留帰還者であったり、沖縄戦を生きのびた人々であったり、空襲被害者であったり、そこに含まれる人々はさまざまであろう。
だが、いずれにしても共通していたのは「さきの大戦のために筆舌に尽くしがたい苦難の日々を生きた人々」だったろう。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
 先の大戦の終結から70年がたった2015年(平成27)8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で読み上げた「おことば」は、例年に比べ、戦後復興を支えた国民の位置づけに、より高い意味が付与されていた。
全体で三連からなる「おことば」の第二連は、次のような言葉からなっていた(傍点は引用者<ゴシック体に改めています>)。

  終戦以来既に七〇年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。
 これまで踏襲されてきた第二連は、今日の日本の平和と繁栄を築いてきたのは、国民のたゆみない努力の結果だとの認識で書かれてきた。
だが、15年の版は、平和と繁栄を築いた背景にあったものとして、「平和の存続を切望する国民の意識」があった、との位置づけが新たに書き加えられたものだった。
平和を切望する国民意識に支えられて、今日の平和と繁栄が築かれたとの、天皇の認識が示されていたといえよう。
また、第三連においても、過去を顧みることの大切さを語る言葉、また、戦争の惨禍を再び繰り返さないとの決意の言葉の間に、「さきの大戦に対する深い反省と共に」という言葉が付け加えられていた。
 国家の象徴として、また国民統合の象徴として存在する者が象徴天皇だとすれば、国家と国民を結び付け、国民と国民を結び付けうる、共通の記憶や感情が安定的に存続しうるか否かという点に、象徴天皇の存続の安定性もかかってくると思われる。
象徴天皇として初めて即位した今上天皇が、過去の歴史を学ぶ意義を強調してやまない深い理由もこのようなところにあるのだろう。
国家と国民の歴史を紡いでゆく際、象徴天皇が示したこの認識は、深い問いかけをともないつつ国民に迫ってくる。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)

前首相は、加藤陽子さんたちのことが気に入らなかったようです
説明する必要などないというのは、中国やロシアとかわりがないです。

学術会議 任命されなかった大学教授ら 文書開示など求め提訴」(NHK 2月20日)
第7回 境涯俳句 
 夏みかん


   夏みかん酸つぱしいまさら純潔など

 もう二十年近くも前のこと、私は鈴木しづ子の『指環』の写真のするどい視線に追い立てられるように各務原通いを始めました。
作品の背景を深く知りたいと思ったからです。
市役所で戦後の様子を知る職員から話を聞くことを皮切りに、かつて基地周辺で風俗営業をしていたという人をあちこち探し歩き、ついに鈴木しづ子が暮らしていたという家のおばさんを探しあてました。
キャバレーを経営していたというおばさんは素朴な感じの人で、鈴木しづ子の写真を一目見ただけで「ああ、シーチャン」と声をあげてすり寄り、鈴木しづ子が各務原に来た理由、暮らしていた部屋の調度の様子など、記憶のかぎりを思い出して話してくれました。
残念ながら、鈴木しづ子が俳句をつくっていたのだということはまったく関心がなく、なぜシーチャンの写真が本になっているのかが理解できない様子でした。
ところが、そのおばさんは、こんな話をしてくれたのです。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)
   ほかの女の子は、買い物に出たり、映画館にいったりするのに、シーチャンは毎日毎日手紙ばっかり書いて、郵便局へ行くだけだった。よくあれほど毎日手紙を書けるものだとあきれて、一度、外の空気を吸ってこいと家を追い出したことがある。ところが、しばらくするとどういうわけだか別人のようにひらけた顔つきで戻ってきて、不思議だと思ったことがあった。どこへ行ったというのでもなく、あそこの夏みかんの土手へ行っただけなのに――。
「ああまで顔が変わるものかと不思議でしたよ。あのときの顔、いまでも覚えています」とシーチャンの様子を話してくれたのです。
私の耳に「ひらけた顔つき」という独特の表現が強く残りました。
その土手を教えてもらい、行ってみました。
傾斜のきつい川土手に夏みかんの木が七、八本並んでいる牧歌的な感じのするところでした。
鈴木しづ子の代表句となったこの「夏みかん」の句は、もしかしたらそのときにここでできた句だったのではないか、そんな気がしたのです。
 どうせ自分は米兵相手の基地の女だと、その境遇を諾(うべな)いながらも、心身のどこかで「純潔」という観念にとらわれていたのでしょう。
だからこそ<堕ちてはいけない朽ち葉ばかりの鳳仙花>という句をつくっていたのだと思うのです。
それを「何をいまさら」と思い切ったのです。
おばさんの記憶にある「ひらけた顔つき」という表現がそんなことを思わせました。
 おばさんが「シーチャンは毎日毎日、手紙を書いて、郵便局へ行っていた」とみたのは、実は投句だったのです。
おばさんの記憶は、鈴木しづ子が所属していた俳誌「樹海」の編集者の「毎日毎日、どさっと句稿が届いた」という証言と符合します。
句稿の内容はまさに玉石混淆だったとのこと、いい句にして出そうとか、もっと推敲しようとかの意思にかまっているゆとりはなかったのだと思われます。
その日のこと、その日の気持ち、とにかくこれを書付けて投句するという状態だったのです。
  消息不明

 鈴木しづ子がしとやかで知的だったこともあって、「しづこ、しづこ」とやってくる米兵も知的な感じの人が多かったとのこと。
恋人だった黒人兵士もとてもハンサムなもの静かな好青年で、戦争がおわったら郷里で本屋を開きたいという夢を抱いていたそうです。

  朝鮮へ書く梅雨の降り激(た)ぎちけり

 朝鮮半島を二分した朝鮮戦争は、昭和25年6月から28年7月までの間、米・ソの対立を背景にして勃発した戦争でした。
 鈴木しづ子の恋人がこの戦争で戦死したのです。
前後関係からみて、昭和26年の出来事でした。
鈴木しづ子は許嫁を先の戦争で失い、またしても恋人を戦争で失ったのです。
翌年の1月、句集『指環』を出し、これの出版記念のために上京、どうやこの際に親しい人との別れを済ませたようです。
8月から9月半ばにかけて、のちに「しづ子自殺」と推断されるかなりの数の作品を東京の松村巨湫に届け、その後の消息を絶っています。
その作品の中に<雪はげし共に死すべく誓ひしこと>という句があるところから、恋人の兵士とそのようなことを話したことがあったのかもしれません。
しかし自殺とする確証はなく、消息不明としかいいようがないのです。
   ひつそりと死なむコスモス地を匍(はらば)
   秋の雲おもふは鈴木しづ子の墓
   薊(あざみ)吹き死期が近づく筆の冴え
   よそながらまみゆることや薊の葉

 最後の句が最終句となっています。
鈴木しづ子が寄宿先のおばさんに世話になった礼を告げて出ていったのも突然だったそうです。
私が、どこへ行くと言っておられませんでしたかとたずねると、おばさんは「ここでは、出ていく人にどこへ行くのかとたずねないのが情なんですよ」と言ったのです。
暗に、ななたももうシーチャンのことを追うのはお止しなさい、とたしなめられたように思いました。

 その後、いくつかの信憑性のある情報がもたらされましたが、私はおばさんの家の戸口を出たのを機に、今後、鈴木しづ子に関して知ったことは一切聞かなかったこと、読まなかったことにしようと決めました。
 性愛俳句、特異な俳人、こう呼ばれることの多い鈴木しづ子にとって、俳句は境涯の独白を入れる入れ物であり、思いのたけを語り合う相手だったのです。
鈴木しづ子もまた、戦争の犠牲者であったのです。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)
今朝の父の一枚です(^^)/
天気が悪くて野鳥を写すのに条件が悪いです。

第1章 ビル街の鳥―ヒヨドリ
 大都会に適応した林の鳥
 都会進出の歴史


 ヒヨドリといえば、かつては秋から冬に都市にやってきて冬を越す鳥であった。
ピィーヨ、ピィーヨと甲高い声で鳴き、大群をなして木の実などを食べ、春になると再び山野に戻って繁殖をしたものである。
 ところが、今日では、ヒヨドリは一年中都会で見られ、ビル街で子育てもするようになった。
季節を問わずに都会で生活し、すっかり都市鳥の一員として定着してしまった。
 東京でのヒヨドリの都市進出は、1968年ころから始まり、1973年にはほぼ都内全域で繁殖するようになったという(川内・藤本、1974)。
もともと山野で繁殖していた鳥が都会に進出してくるだけでも興味深いのに、ヒヨドリの場合には、さらに奇妙な現象が見られた。
山野の鳥が都心部に進出する場合には、皇居や明治神宮といった緑の豊かな大緑地で繁殖してもよさそうである。
ところが、こうした大緑地を避け、こともあろうにビル街の街路樹や人家の庭先などで子育てを始めたのである。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)