2023年5月9日火曜日

爽やかな風がふいて

昨日は、風が冷たくて季節が逆戻りしたみたいな寒さでした。
吹く風が、ミカンの花や若葉の香りなどを運んでくれていました。
今日のような風を「薫風」というのかな?
 薫風(くんぷう)

初夏のころ新緑の上を吹きわたってくる爽やかな南風。
気象学的にはこの風は、何高北低の気圧配置のとき、つまり日本列島を中心としてみた場合、南に高気圧、北に低気圧がある夏型と呼ばれる気圧配置のときに吹く。
「この型が現われると、四季をとわず、日本国中に南風が吹き、気温が上がる」と(『お天気歳時記』大野義輝、平塚和夫 雪華社 1983年)。
『呂氏春秋』有始覧に「東南を熏風(くんぷう)と曰う」とあり、「熏」は「薫」に通じて初夏の風を指す。
唐・文宗皇帝の起句を受けて柳公権が「薫風南より来り、殿閣(でんかく)微涼を生ず」と詠じたように、もともと<薫風>は漢詩趣味のことばだと山本健吉は言う
「南薫(なんくん)」とも。夏の季語。

 薫風や素足かがやく女かな 日野草城
(『風と雲のことば辞典』倉島厚監修 2016年 講談社学術文庫)
 わらんべの洟もわかばを映しけり 室生犀星

 わらべはワラハベの約、転じたのが<わらんべ>である。
子供らの意。
いつのころからか鼻汁をたらした子供を見かけなくなったが、昔は洟(はな)たれ小僧が多くいた。
緑をおびた鼻汁は見るに堪えない不衛生なものだが、その色は若葉を映したものだと断定する。
まさかと虚を衝(つ)かれる思いだが、美しい若葉と汚い鼻汁との取り合わせにこそ俳諧(はいかい)的なおもしろさがある。
犀星の詩的自覚は俳句によるというのも納得がいく。
 俳句は15歳のとき旧派の宗匠に学び、のち北声会に参加。
上京後は俳句を中絶し詩作に没頭し、また小説を書き注目されていった。
俳句にも造詣(ぞうけい)の深い芥川龍之介と知り合うことで、再び俳句を作りはじめ、芭蕉や凡兆、丈草の句を愛誦(あいしょう)した。
古風な美を追求し、「ゆきふるといひしばかりのひとしづか」などの句がある。
  1889~1962 石川県金沢市生まれ。詩人・小説家。
  別号、魚眠洞。句集『魚眠洞発句集』『犀星発句集』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
 4月29日の記事で中井久夫さんと原武史さんの対談で昭和天皇が皇太子時代に訪欧の途中、
沖縄に上陸したことを転記しました。
そのことを父に話すと昭和2年に奄美大島に行幸されたと教えてくれました。

聖上陛下奄美大島行幸記念写真帖 : 昭和二年八月」(国立国会図書館)
第3章 天皇としての出発
 地方視察と生物学研究


 さらに重要な特徴がある。
昭和初期の天皇の地方視察には、御用邸滞在と同様、生物学研究の一環としての意味合いがあったのである。
 27年に訪れた小笠原諸島と奄美大島や、29年に訪れた八丈島と伊豆大島では、天皇は背広服に着替え、海産生物や植物を採集した。
また同じ29年には、和歌山県田辺湾に浮かぶ神島(かみしま)で南方熊楠に初めて会い、熊楠とともに変形菌を採集した。
後に熊楠は、変形菌の標本をキャラメル箱に入れて天皇に献上した。
歌人の岡野弘彦はこう述べている。
「専門雑誌でそのすぐれた研究を知っていられた天皇が、世に奇人と言われている南方と二人だけで無人島の標本採集を実行されたのは、研究者としての思い切った情熱からであったに違いないが、それが実現するためには、当時の世間にもまだ学問の真実を尊ぶ心があったからだと思われる」(『昭和天皇御製 四季の歌』同朋舎メディアプラン、2006年)。
(『昭和天皇』原武史 岩波新書 2008年)
 30年5月から6月にかけて、天皇は静岡県を視察した。
その途上、6月1日に訪れた浜名湖で、天皇は知事の白根竹介(しらねたけすけ)と次のような会話を交わしている。

 天皇 すつぽん、うなぎは何日でかへるか。うなぎ一貫目は幾何(いくばく)か。
 知事
 すつぽんは六十日でかへります。うなぎ一貫目はたゞ今の相場で四十二円であります。
 天皇 (うなづかせ給ひ)四十二円ではまうからぬだらう。この頃は上海からうなぎの子を取り寄せて養殖してゐるといふがどうか。
  (『東京朝日新聞』1930年6月2日。句読点を補った)

 こうしたやりとりが新聞に掲載されるのは、非常に珍しかった。
この日、沼津御用邸に到着した天皇は、蒲原(かんばら)町(現・静岡市)に住む中澤深海生物研究所所長の中澤毅一から、駿河湾の深海生物に関する進講を受けている。
 翌日、天皇は沼津御用邸を発ち、伊豆半島の天城(あまぎ)山中にある大正池を目指した。
途中で変形菌の採集に熱中するあまり、予定より二時間近くも遅れ、沼津御用邸に戻ったときには午後7時40分になっていた。
たとえ1分であろうと遅れることがあってはならない当時の行幸の常識からは、およそ考えられないことであった。
 徳富蘇峰は、敗戦直後の45年9月、この行幸に関連して次のような回想を残している。

 ある時熊本県同人の会に、最近静岡の行幸に陪(ばい)した際、主上(しゅじょう)が伊豆天城の某所で、粘菌を御採訪あり、親しく木に御攀(はん)じ遊ばされて、これを御採集遊ばされたなどと、恰(あた)かもそれを御聖徳として、我等に吹聴していたから、予はその談話の済むや否や、直ちに起(た)って、只今安達君の御話を承れば、誠に感銘に堪えぬ至りであるが、但(た)だ予自身としては、内務大臣たる安達君は、主上が親しく人民の疾苦(しっく)を知ろし召され、地方の民情を御採訪遊ばさるる事についての、話を承らんと期待したるに、粘菌御採訪の話では、全く驚き入るの外はない。内務大臣として御啓沃(けいよく)申上ぐる事は、別に重大なるものがあるべき筈だ、といったところ、座中の文学博士宇野哲人(てつと)氏が、一人手を叩いて、予の意見に賛成した。
  (『徳富蘇峰 終戦後日記』講談社、2006年)
 蘇峰の抱いた違和感は、前述した倉富勇三郎の危惧に通じるものがある、
このような天皇の態度に、軍部が不満を募らせてゆくのも想像に難くない。
元侍従の岡本愛祐(あいすけ)によれば、「即位前後から、とくに陸軍が宮中のなかに口を挟んでくるようになった。たとえば、陛下は一週間か二週間にいちど生物学のご研究所へお訪ねになる。それがお楽しみでもあったんです。それを陸軍がいかんといいだしたのです」という(保阪正康『昭和天皇』中央公論新社、2005年)。

 しかし他方、天皇の生物学研究は、宮中祭祀のあり方を変えるきっかけにもなった。
天皇は29年から宮城内の水田で自ら田植えや稲刈りを始めたが、30年11月の新嘗祭からは、自ら刈った新米を毎年供えるようになるからである。
天皇に稲作を勧めた河井弥八はこの日、日記に「陛下御親裁の新穀を以て天神地祇(てんじんちぎ)を祭らせ給ふ。蓋(けだ)し万古未曾有のことなり」(『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』4巻 岩波書店)と記している。
天皇の研究が、西園寺公望の言う「哲学的の理論」にまで達したかどうかは不明だが、天皇が新嘗祭に生物学研究と祭祀の接点を見いだしたのは間違いない。
(『昭和天皇』原武史 岩波新書 2008年)
今朝の父の一枚です(^^)/

ブラシノキ フトモモ科ブラシノキ属
Callistemon speciosus
別名/カリステモン〔常緑低木~高木〕
日本には明治中期に渡来し、暖地に栽培される。
高さ2~3メートル、時に12メートルになる。
葉は細長く、かたい革質で長さ8~10センチ。
5~6月、本年枝の先に長さ5~10センチの穂状花序をだす。
花弁や萼は開花後すぐに落ち、多数の雄しべが残り、ブラシのように見える。
花糸は赤色、葯は黄色。
花のあと本年枝はさらにのび、多数の果実が枝をとり巻いてつく。
果実は2~3年残る。
●用途 庭木、鉢植え、花材
◎分布 オーストラリア原産。
(『日本の樹木(旧版)』林 弥栄編 山と渓谷社 1985年)

明日から12日(金)まで更新を休みます。
三日間も休むとどこかに旅行しているのでは?と思われるかもしれませんが
私と父の病院通いです(^^ゞ