昨日、キョウチクトウが咲いていたのを見て
暑い夏がやってきたなぁと思ったけど
夜に雨が降ったおかげで、歩いているときは涼しかったです。
父が、火事などで燃えると猛毒の煙が発生するので
キョウチクトウを庭に植えるのは危険だと話していました。
「枝を箸の替わりに利用して死亡した例もあるほどである」(熊本大学薬学部 薬草園)池から離れている所なんだけどアカミミガメが移動していました。
2016年6月19日にクサガメの産卵の準備?をしていたのを見たことがあります。
「2023年6月1日よりアカミミガメ・アメリカザリガニの規制が始まります!」(環境省)三、崇神(すじん)天皇
美和の大物主
―三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神(みわ)氏、鴨氏等の祖先の物語。―
この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど尽きようとしました。
ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寝(やす)みになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顕れて仰せになるには、「かように病気がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに国も平和になるだろう」と仰せられました。
そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の国のミノの村でその人を探し出して奉りました。
(『古事記』武田祐吉訳註 角川文庫 昭和31年)そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスエツミミの命(みこと)の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。
そこで天皇が非常にお歓(よろこ)びになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が栄えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主(かんぬし)としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を沢山作り、天地の神々の社をお定め申しました。
また宇陀(うだ)の墨坂(すみさか)の神に赤い色の楯矛(たてほこ)を献り、大坂の神に墨の色の楯矛を献り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く残るところなく幣帛(へいはく)を献りました。
これによつて疫病(えきびょう)が止んで国家が平安になりました。 このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。
ところが形姿威儀並(かたちいぎなら)びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。
そこで互いに愛(め)でて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠(にんしん)したことを怪しんで、その女に、「お前は自然(しぜん)に妊娠した。夫が無いのにどうして妊娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。
そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針に貫いてその着物(きもの)の裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴(かぎあな)から貫け通つて、残つた麻はただ三輪だけでした。
そこで鉤穴から出たことを知つて糸をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。
そこで神の御子であると知つたのです。
その麻の三輪残つたのによつて其処を三輪と言うのです。
このオホタタネコの命は、神(みわ)の君、鴨の君の祖先です。
(『古事記』武田祐吉訳註 角川文庫 昭和31年)高知県の昔話に…
蛇の聟どの ――高知県土佐郡――
昔、あるところにだいじな一人娘がありました。
ところがその娘のところへ、まい晩きれいな若い衆(しゅう)が遊びに来るようになりました。
雨の夜も風の夜も、まい晩かかさずにやって来ました。
娘の母親も若い衆があんまりきれいじゃきに、初めのうちは喜んでいましたが、大雷(おおかみなり)の夜でもおじずにやって来るので、少しおかしいと思うて、処(ところ)と名前とを聞いてみましたが、ちょっともいうてくれない。
(『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』関敬吾編 岩波文庫 1957年) それで、あやしいと思うようになりました。
ある晩、枠(わく)の糸を針(はり)に通しておいて寝ている枕(まくら)もとへ行って、若い衆の髪へ刺(さ)したところが、髪へさしたと思ったのに、若い衆は「いたい、いたい」と叫びながら、どんどん走って帰って行きました。
それにつれて枠の糸ががらがらと減(へ)って行ったので、あくる朝、枠の糸をたよりにつけていったところが、大きな淵(ふち)のなかまでつづいていて、淵のなかから話声(はなしごえ)が聞えて来ました。 きき耳を立てて聞いてみると、「お前は黒鉄(くろがね)を頭へ立てられちょるきに、もう生きておれん。かわいそうじゃが仕方(しかた)がない。何ぞ言いのこしちょくことはないか」と、蛇(へび)の母親が伜(せがれ)の蛇にいいきかせているところであった。
すると「わしは死んでも、あの娘に子供をはらませちょるきに、それが仇(かたき)をとってくれるろう」と、蛇の子がいいました。
「たいてい、あの娘は三月の節供(せっく)の桃酒(ももざけ)と、五月の節供の菖蒲酒(しょうぶざけ)と、九月の節供の菊酒(きくざけ)を知るまい。これをやられたら腹の子もどむならん」と、蛇の母親がいっておりました。 娘の母親は、これをきいていそいでもどって来て、三月の節供の桃酒と、五月の節供の菖蒲酒と、九月の節供の菊酒をのませて、お腹のなかの蛇の子をとかしたそうです。
それだから、女はどうしても三月と五月と九月の節供の酒をのまにゃいかんそうな。
(『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』関敬吾編 岩波文庫 1957年)今朝の父の一枚です(^^)/
ヤマボウシを写していました。
なんか僧兵が大挙して山を降りてくるみたい
ヤマボウシ 山法師 ミズキ科ヤマボウシ属
裹頭(かとう)
この白く目立つ、花びらのような総苞片は僧兵が頭を包む頭巾(ずきん)「裹頭」に似ています。
そのため「山法師」と名付けられた、という説が有力です。
裹頭は元々は頭巾ではなく白い五条袈裟(ごじょうげさ)で、それを頭に巻き付けて覆面のようにしたものです。
源義経の家来・弁慶のイメージで考えるとわかりやすいでしょう。
「裹」は「つつむ」という字で「裏(うら)」ではありません。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)
「裹頭をつけた僧兵」(日本服飾史)