2022年7月8日金曜日

曇っていたけど…

今朝は曇っていて気温も8時前で26度位でしたが、蒸し暑かったです(-_-;)
それでも時折吹く風が救いになりました。
帰るときは、青空が見えたので気温が上がりそう…
6日にEテレで放送された小雪と発酵おばあちゃん「青森 ごど」
シリーズ化されるといいなぁ

前橋健二東京農業大学教授が
味噌の進化系、甘酒・塩麹(しおこうじ)の進化系」とまで話していた「ごど」。

小雪さんが、としさん(84歳)にごどの作り方を二日間教えてもらっていました。
としさんの笑顔がとっても素敵で、方言のもつぬくもりが伝わってきました。
見逃した方は見逃し配信が7月13日まで見られますし
再放送がEテレで7月12日(水)午後3時からあります。
先日、平家物語の時代の女性には、生き残って託された使命があると書きました。

 第四章 建礼門院――尼の行方
  建礼門院と寂光院


…前略…

 しかし、中世人の世界観では、ここで建礼門院には、平家一門とともに自殺する以外に、女性として生き残って果たす役割があったのである。
『平家物語』灌頂巻の「六道之沙汰」の段で、建礼門院は後白河法皇に対し、自分のたどってきた生涯を、生きながら平家の栄華から滅亡までの六道輪廻(天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道)の世界を見たと語る中で、壇ノ浦の戦いの敗北に際して、二位尼時子は、建礼門院に次のように申しおいたと述べている。
 すなわち、男の生き残ることは千万の一つもあることはむずかしい、たといまた、遠い縁者が万一生き残ったとしても、我らの後世を弔うことも期待できない、昔から女性は殺さない習いなので、あなたが何としても生き長らえて安徳の後世も弔い、自分たちの後生も助けてほしい、と。
(『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』細川涼一 吉川弘文館 2017年)
 この時子の言葉によるならば、建礼門院が生き残って尼寺寂光院に入ったのは、彼女が生き残ることで、安徳や平家一門の後世を弔い、一門の亡魂を浄土に導く、という役割があったのである。
建礼門院が壇ノ浦で入水しようとした時、時子が「女人をば昔より殺す事なし。構えて残り留まりて、いかなるさまにても後の世を弔(とぶら)ひ給べし。親子のする弔ひは、必ず叶ふ事也。誰かは今生の後世をも、我後世をも弔はん」と建礼門院に生き残るように説得したことは、『閑居友』にも見出せる。
 建礼門院は、自分は生きながらえ六道輪廻の相を見た、と後白河法皇に語り、これに対して法皇は、建礼門院がこれほど目の前に六道を見たことは珍しい、と述べているが、平安浄土教(顕密主義的浄土教)の死生観では、六道輪廻の世界は苦に満ちた世界とされ、臨終に際しては六道に生まれ変わる輪廻転生の輪(業の輪廻)を断ち切って離脱し、極楽浄土に往生すること(後世善処)が理想とされたのであり、葬式・法要の仏事はそのためになされたのである。
 ちなみに、後白河法皇は、『地獄草紙』『餓鬼草子』『病草紙』などの六道絵を自らパトロンとなって製作し(『病草紙』は人間界の苦相である病を描いた六道絵の一つと考えられている)、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収蔵するなど、六道世界に異様な興味を抱いていた。
その後白河が、生きながら六道輪廻の世界を目のあたりにした建礼門院から、直接話を聞こうとしたことは充分にあり得ることであろう。
 この葬式・法要の仏事について、建礼門院の女房(女官)であった建礼門院右京大夫の『建礼門院右京大夫集』の事例をあげておくと、右京大夫は、愛人の平資盛(重盛の次男)が元暦2年(1185)3月24日、他の平家一門とともに壇ノ浦で入水したことを知り、平家の都落ちの際、資盛が別れぎわに自分が死んだら後世を弔って下さいと言っていたことを思い出した。
そこで、彼女は資盛のため仏果を得ようと、資盛の古い手紙を漉(す)いて写経し、また、そのまま打ちのばして、資盛の書いた字が見えるのは痛々しいので、裏に別の紙を当てて地蔵菩薩の像を六体墨書きし、これを東山長楽寺の阿証房印西(印誓。『平家物語』の伝える建礼門院の出家の戒師と同じ)のもとに送って資盛の追善供養をしている。
その際に右京大夫は「すくふなる誓ひたのみて写しおくをかならず六の道しるべせよ」(衆生を救う地蔵の誓願を頼んで地蔵の姿を六体写したので、資盛が六道輪廻の苦しみから逃れる道しるべとなって下さい)との歌を詠んでいる。

…中略…
 以上のことを考えるならば、建礼門院が壇ノ浦で生き残って尼寺寂光院に入り、平家一門の後世を弔ったことは、必ずしも永井路子氏・山本藤枝氏の述べるような建礼門院の人間としての「鈍さ」といったような否定的性格にのみ帰せられるべきではなく、中世人の意識では、彼女は平家一門の亡魂を六道輪廻の輪から脱出させ、極楽浄土への往生に導く聖職者としての役割を担ったといえるのである。
 後白河院は平家の怨霊を宥(なだ)めるために文治2年に高野山に大塔を建立し、その仏事を行うための供料所(くりょうしょ)として、平氏旧領であった備後国大田荘を高野山に寄進している(『吾妻鏡』文治2年7月24日条)。
後白河院は、後白河院制を否定して自らの外孫安徳を即位させた清盛に対して激しい憎悪を抱き、清盛死後も源氏に命じて平家追討を強行した。
そのことも手伝ってのことであろう、後白河院も平家の怨霊に怯(おび)え、その怨霊を宥める仏事を高野山で行わせたことがわかるから、建礼門院が平家一門の菩提を弔うことで清盛の悪業を浄化し、平家の亡魂を往生に導くことは、治天の君である後白河にとっても望ましいことであった。
 そして、それとともに、女性は殺さぬ習いとされたこの時代にあって、建礼門院とその女房(阿波内侍・大納言典侍<だいなごんのすけ>=平重衡の妻)たちが尼寺寂光院に入寺したのは、戦乱の中で敗者の側として零落して生き残った女性が、その後の人生を委ねる場としての意味も持っていたのである。
…後略…
(『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』細川涼一 吉川弘文館 2017年)
  七夕の空心細く
  
  大方の身のやうも、つく方なきにそへて、心の中(うち)もいつとなく物のみかなしくてながめし頃、秋にもややなりぬ。風の音(おと)はさらぬだに身にしむに、たとへむかたなくながめられて、星合(ほしあひ)の空見るも、物のみあはれなり。

167 つくづくと ながめすぐして 星あひの 空をかはらず ながめつるかな

現代語訳
  おおよその身のふり方も定まらない心細さに加えて、心の中も常に悲しいばかりで、物思いに沈みがちなころのこと、いくらか秋めいた季節になりました。風の音はそうでなくてさえ身にしむ上に、今までよりいっそうぼんやりと見つめてしまって、牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の出会う七夕の空を見ても、しみじみと感慨深いのです。

167 つくづくと 物思いに沈んだ日々を過ごして 七夕の二星の相会う今宵も いつに変わらず 夜空を眺めてしまうのです
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
 <語意
星合(ほしあひ)の空 牽牛・織女の二星が相(あい)会う七夕の夜の空。
167歌〇ながめすぐして 底本の「ながめすぐして」は、「おもひすぐして」の異文もあるが、「ながめ」の語が二度用いられているのは、作者の特色である繰り返し畳みかけ表現と思われる。

 <解説
 この歌は「星夜讃美の女性歌人」(新村出<しんむらいづる>氏は作者をこう賞讃している。巻末解題参照)の集にはじめて見える星の歌である。
272以下の七夕の歌で作者資盛(すけもり)と自身を七夕の二星にたとえているが、ここも資盛が意中にあったかもしれない。
 このあたりの作者の動静は、隆信(たかのぶ)がどっちつかず状態のため誠意を確かめようと転居の決心(163)をするが、資盛も音沙汰なく(164)、小宰相(こざいしょう)がうらやましい(165・166)、母の死はこの頃らしく「身のやうも、つく方なき」(167)ことから、どこにも行きようがなくて、結局西山の兄の許(もと)へ行くことになった(168)か。
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
ブログの準備をしていると
安倍元首相 銃で撃たれ心肺停止か 40代の男を逮捕【速報中】」(NHK)
犯人の動機などがわからないので軽々しいことは言えませんが、

アメリカと違って銃を所持するには、それなりの手続きが必要です。
銃砲所持許可について」(警視庁)
速報には「捜査関係者によりますと押収された銃は手製の銃」のようですが。

戦後、浅沼さんがテロの犠牲になった時は、刃物でした。
社会党浅沼委員長刺殺事件」(NHKアーカイブス 1960年)
心肺停止なので厳しいかもしれないけど回復を祈ります。
安倍氏が裁かれるのは、司法の場であって、テロではない。
今回のテロ事件で赤木さんのことは闇に葬られるのかな。