2022年7月16日土曜日

うるさくなってきたなぁ…

公園に入るとクマゼミの大合唱…
耳鳴りなのかセミの合唱なのか区別ができない(-_-;)
安倍元首相「国葬」方針 野党各党は賛否両論〟(NHK)

吉田茂氏についで2例目だそうです。
2019年に亡くなった中曽根康弘氏の時は、内閣・自民党合同葬儀だった。
安倍氏の方が、中曽根氏よりも格が上なんだ。

秋に国葬をするということだけど各国から来賓が来られる。
すごい経費だろうなぁ…
(三度の食事がまともにできない人が、コロナ禍でどれだけおられるのか)

安倍氏の襲撃で日本の警察に対する評価は低くなっているので
警備体制もこれまで以上に厳重になるはず。
当日のテレビは国葬一色になるとおもう…

岸田首相は、国葬で安倍氏の遺志を継ぐと挨拶するだろう。
つまり憲法を改正(改悪)することが安倍氏の遺志を継ぐということなるのだろなぁ

岸田首相会見【詳細】安倍元首相の国葬 4回目接種などについて〟(NHK 7月14日)
 斎藤隆夫――天下国家のために何事かを為さん

 孤立を恐れないというのは、前述の三ヵ条にもうひとつつけ加えていい条件かもしれません。
その例としてもう一人あげるとすれば、昭和十年代にもっとも勇敢に軍部と闘った斎藤隆夫になるでしょう。
斎藤のなかには、確かに政治家にとって必要な原形質が宿っていました。
斎藤は、犬養や尾崎とは少々異なった理論派のタイプですが、やはり近代日本史のなかでは語っておかなければならない政治家です。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)
 斎藤隆夫は明治3年8月18日に、現在の兵庫県豊岡市出石(いずし)で生まれています。
東京専門学校(現在の早稲田大学)で学んだあとに弁護士の資格を獲得して、アメリカのイェール大学に留学しています。
明治34年から37年までの間です。
このアメリカ留学で公法(憲法など)や政治学を学んだといいます。
この点が重要なのですが、法律は所詮社会的に限界があるから、やはり「天下国家に為に何事かを為(な)す」と政治家になるのが自分の人生の目標になったと自伝に書いています。
自らの国をどのような国にすべきか、自分にできることは何かを問うて政治の道にはいったというのです。
 斎藤は日本に帰って、政治家になってからもその立場をより明確にしていきます。
政治とは理性の産物であり、単純に天皇とか詔勅といった語で語ってしまうと、そこに理性的な判断ができにくくなるとの不満があったのです。
こういう形の思想や理念をもつことは、日本の政治家にとってきわめて珍しいことといわなければなりません。
 政治家の道を歩むと決意したときに、斎藤はまず自分がどのような考えをもっているか、それを一冊の書として著して有権者に示しています。
比較国会論』がそれなのですが、そこで重要なことは「立憲政治とは何か」を明らかにしていることでした。
そこでは単に国会をつくればいい、参政権を獲得すればいいというわけではなく、「立憲政治の究極の目的は、国民の共同意識を以て政治の原動力と為すに在りて、憲法及び国会は此目的を達するの器械たるに過ぎず」と断言しています。
国民の共同意識というのは具体的に、国民の大半が納得している価値観や政治観であり、それが世論という形であらわれるといっている点が注目されるのです。
 斎藤がこの『比較国会論』を著したのは、明治39年で、36歳のときでした。
そして明治45年に立憲国民党から衆議院の総選挙に立候補して初当選しています。
それから13回連続して当選しています。
とくに昭和に入ってからは、一部の代議士がファシズム化していき、やがて大勢になるなかで、常に理性的なタイプの政治家という立場を崩さなかったのは、むろん特筆されることでした。
政治屋とは一線を引いていたのです。
 この斎藤が近代日本の年表に、理想的な政治家として名が刻まれるのは、昭和11年の二・二六事件後に衆議院本会議場で行った演説(いわゆる粛軍演説)と昭和15年2月に行った演説(「支那事変処理に関する質問演説」、いわゆる反軍演説)のふたつが、歴史上もっとも重要だからです。
他の議員は軍部の威光を恐れて、とうてい質問を行う余裕もないのですが、斎藤はそのような圧力をまったく恐れませんでした。
むしろ堂々と議会で胸を張って演説したのです。
 昭和15年2月の演説は、いわば斎藤の思想や理念が盛られた密度の濃い内容です。
その主要な一節は次のようなものです。
「唯徒(ただいたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際主義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯(かく)の如き雲を摑むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るやうなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」(松本健一『評伝 斎藤隆夫』)。
 演説のこの部分では野次も多く、議長がなんども議場にむかって「静粛に」と呼びかけています。
斎藤のこの演説は、日中戦争を聖戦と唱える軍部をそれこそ真っ向から批判したことになったからです。
 結局、議会内にふえていた親軍派の議員から、斎藤の除名の決議がだされるのですが、447議席のうち除名に賛成が296票、反対7票、棄権が144票となりました。
棄権のうち、登院しながら本会議には出席しなかった議員が121人、病気その他の理由で不登院が23人でした。
 このときに反対した7人の名前を、斎藤は自らの日記の中に書きのこしています。
斎藤の心中には、この7人に対する畏敬の念があったといえます。
 つけ加えておきますと、斎藤の質問演説のうちの三分の二は議事録より落とされています。
議会側の、軍部により添っての処置といっていいでしょう。
 447人のうちわずか7人、この人たちだけが日本の議会政治の自殺を防いだということになるわけです。
議会がひとたび骨抜きにされるといかに脆(もろ)いものか、私たちはそれを改めて知らされます。
しかしこの7人の存在が、議会政治を守る良心だった、つまり真の政治家だったと讃えて、私たちは記憶しておくべきだとも思うのです。
それに続いて欠席の121人の心中に思いを馳せる必要があるように思います。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)

国会の委員会や議会で野次を飛ばしていた首相がいます。
アメリカ議会では、トランプ元大統領を批判した共和党の議員が、トランプ氏の支持者から攻撃されています。
日本もアメリカも議会政治の危機にあるといえます。