2022年7月7日木曜日

小暑、七夕

 朝から気温がグングン上がっていました(-_-;)
今日は「小暑(しょうしょ)」なんだけど「小」でなく、すでに「猛」のレベルになっている…
 コシアキトンボ♀が死んでいるなぁと思っていたら動いた…
近づいて見るとアリが一匹だけで引っ張っている…
虫の力

…前略…
 蟻が数匹よって自分たちの身体の何十倍もあろうかと思われる獲物を引っ張っているところはよく見うけるが、カブトムシなども子供たちにつかまって重いものを牽(ひ)かせられている。
これらは昆虫の牽引力(けんいんりょく)をを示すよい例であるが、一体自分の重さよりどのくらい思いものを牽く力があるのであろう。
これは少年諸君など実際に実験してみらるのがよいと思うが、従来の実験では、最も力の弱いものでも自分の重さの5倍らい、蜜蜂で20倍、トラハナムグリで40倍、平均20倍ぐらいのものを牽く力のあることがわかっている。
もしまた車でもつけて抵抗を少なくしてやると2、3百倍から5百倍ぐらいの重さのものを牽くことができるようである。
 これはまことに驚くべきことで、人や馬の場合と比較してみると、これらが自己の重量とほぼ同じぐらいのものしか牽く力がないのに比して、雲泥(うんでい)の相違がある。
絶対量ではともかくも、体重との比例においては虫の足下にも及ばないである。
…後略…
(『日本昆虫記』大町文衛 角川ソフィア文庫 昭和34年)
浮世絵EDO-LIFE「街に巨大な竹林が!広重“市中繁栄七夕祭”
江戸時代の七夕の様子がわかります、派手ですよ(*^^*)

 七夕の竹飾り

 室町時代に将軍が七夕歌を梶の葉に書いたことは、江戸時代には庶民へと広がっていた。
京都の年中行事を記した延宝(えんぽう)4年(1676)の序をもつ『日次紀事』には、七月七日の七夕には武家・庶民とも素麵(そうめん)を食べ、さらにこれを贈答しあう。
そして夜には歌会があって、短冊やヒサギ、梶の葉に詩歌を書いたものと素麵やナス・瓜を牽牛・織女の二星に供えたことが見えている。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年)

(「日次紀事. 6-8月」国立国会図書館)
 こうして江戸時代前期に京都で庶民化した七夕飾りが、寺子屋や手習い師匠を通じて広まったのが現在の竹飾りである。
江戸時代後期、19世紀初めの「諸国風俗問状」の答えでは、現在の秋田県や福島県では竹飾りは稀(まれ)だが、西日本では広く行われている。
たとえば阿波国(あわのくに)高河原村(現・徳島県石井町)では、7月6日に、七夕の詩歌を書いた五色紙の短冊を付けた小笹と五色の糸を掛けた棹(さお)を庭に飾り、ここに6日にはマクワウリとナスなど、7日朝には団子を供えた。
寺子屋では、六日に「二星祭(にせいさい)」といって牽牛・織女の像を掛け、鏡餅(かがみもち)・五色の糸・瓜の類(たぐい)、素麵、神酒(みき)、お香、花などを供え、子どもたちは歌を書いた五色の短冊をつけた小笹を持ち寄って供えた。
そして、7日早朝にこの小笹を川に流した。
最初にあげた童謡「たなばたさま」に歌われる七夕の竹飾りは、江戸時代後期に各地に広まり、全国化したのはその後のことだった。
「諸国風俗問所」の答えには、竹飾りに五色の短冊や糸を使うことが随所に出て来る。
五色の色合いは陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)の五色である。
陰陽道(おんみょうどう)は江戸時代には庶民生活に根をおろしているが、冷泉家の乞巧奠(きっこうでん)に飾る糸や布の五色や竹飾りの五色も陰陽道から影響といえる。
こうして七夕に陰陽五行説が取り込まれたことで、竹飾り自体に呪力(じゅりょく)があると考えられ、今も見られる竹飾りを田畑に立てて害虫除(よ)けとする民俗が生まれた。
神奈川県大磯町西小磯(にしこいそ)では、七夕の竹飾りを子供たちが持って地区を回り、井戸や橋のたもとで、地面を叩(たた)くように振ってお祓(はら)いを行うが、これも竹飾りの呪力になる。

(「御家人 33風俗問状答」 国立公文書館)
 七夕と水

 牽牛・織女の二星に供え物をし、短冊に詩歌を書いて祈りを捧(ささ)げる七夕は、星空を見上げての行事である。
しかし、こうした晴れた夜空への思いとは逆に、七夕に水にかかわる伝承が色濃く存在する。
この日にたとえ一粒でもいいから雨が降らないと疫病(えきびょう)が流行(はや)る、七回水浴びをして七回食事をする、油がついた鍋釜(なべかま)を洗うと汚れがよく落ちる、女性は髪の毛を洗うときれいになる、普段使っている硯(すずり)を洗う、井戸の水をすべて汲み出して掃除する、さらに川で水浴びをすると河童(かっぱ)の災難からのがれられるとか、牛を海に連れて行って洗ってやるなど、七夕の水の伝承は全国にある。
 七夕は、星空と雨や水が同時に求められる特異な行事だが、こうした水の伝承は、「ねぶり流し」の行事からわかるように七夕の祓えに基づいている。
「ねぶり流し」というのは、6日の夜に麻がらなどを枕の下に敷いて寝て、翌朝この麻がらを川に流す行事である。
ネムの木の小枝を流すところもあるのは、ネムと「眠い」のねむを掛けた洒落(しゃれ)で、こうして夏の疲れのあらわれである睡魔を祓った。
七夕も節供の一つで、祓えの行事内容をもつのである。
 豪華な大型の行灯(あんどん)を飾る秋田県能代(のしろ)市の「ねぶながし」は、「眠り流し」の意味だし、青森市や弘前(ひろさき)市などの「ねぶた」「ねぷた」も、その名の由来は「眠り流し」にある。
秋田市の竿燈(かんとう)も、もとは「眠り流し」という名であった。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年)
第5章 行事と儀礼にみる和菓子
 七夕と索餅

 
 索餅(さくべい)という菓子をご記憶でしょうか、奈良・平安時代に伝わった唐菓子のひとつです。
麦縄ともいい素麵の原形とも言われています。
七夕の日に素麵を食べる地方がありますが、これは索餅が七夕の日に使われたことに由来するも考えられます。
 七夕は、機織女(たなばたつめ)信仰と乞巧奠(きこうでん)が習合したものです。
「星の座」と呼ばれる祭壇には、牽牛と織女の二星のために梶の葉と糸をつるした緒を張り、机上には琴・琵琶などを置き食物を備えるのです。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)
 七夕の行事に索餅が使われていたことは平安時代から確認できます。
江戸時代でも虎屋から索餅が御所に納められていました。
その例をふたつほどご紹介いたしましょう。
『後陽成院御代より御用諸色書抜留』には次のような記述あります。

  例年七月六日納
一索餅 長サ弐寸  (図略)
  丸差渡七分計
     右折わけ中へ一筋入
     七筋ニ成ねじ

 小麦と水で細長く練った生地を折って作ったもので、上の写真(図略)はそれを復元したものです。
毎年、虎屋から御所へ索餅をお納めしており、右の記録は備忘のために残されたのでしょう。
 安政7年(1860)の『大内帳(おおうちちょう)』でも7月7日の条に四十の索餅を納めています。
ちなみに、同時に納められた水仙花扇という菓子は、七夕に近衛家から花扇と呼ばれる花束が御所に届けられ、牽牛と織女の手向けのために池に浮かべられた故事に由来します。
菓子とあまり関わりのないと思われている七夕でも、このように菓子が登場していることに驚かされます。
 また、現在では7月7日は素麵の日とされており、素麵で有名な三輪(奈良県)では麦縄という名の菓子を販売している素麵業者もあります。
 七夕と食についてもう少しお話ししておきましょう。
これまでにも何回か取り上げた『諸国風俗問状答』には、七夕の食べ物として柿、梨、栗、ささげ、芋、茄子、西瓜、瓜、小麦団子、餅などとともにうどんと索麵の名が見えます。
索麵は素麵のことで、七夕につきものの食べ物でした。
斎藤月岑(げっしん)『東都歳時記』(1836年)によれば江戸市中では、七夕には貴賤にかかわらず「冷やそうめんを食す」とあって、七夕につきものの食品で、人々は互いに素麵を贈答しあっています。
万延元年(1860)に参勤交代で江戸を訪れた紀州和歌山藩の下級藩士酒井半四郎は藩邸内の長屋で七夕に「八ツ時そうめん拵え喰う」と記していて、おやつがわりに素麵を自分でゆでて食べています。
この日は長屋に訪ねて来た友人にも素麵を振舞っていますが、それらは藩邸出入の商人や友人からの到来物で、七夕の前後九日間で14把の素麵をもらっています。

機織女信仰 水辺にしつらえた機織り機に神を祀り、穢れを祓う神事。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)/
サルビアの花が満開です!

小暑

 七夕は「しちせき」とも読む五節句の一つ。
「棚機(たなばた)」という日本の古い神事が変化したものともいわれ、今と違って昔は、梶(かじ)の葉に書いた和歌に願いを込めていたそうです。
 私にとって京都の七夕で身近なのは北野天満宮(きたのてんまんぐう)と白峯神宮(しらみねじんぐう)
天神さんでは、ご祭神の道真(みちざね)様が、七夕に歌をお詠みになったという伝えにちなんで神事とお祭りが、とり行われます。
また、球技や芸事上達の神様として有名な白峯神宮さんでは、精大明神(せいだいみょうじん)様に蹴鞠(けまり)と、西陣(にしじん)のかわいい小町さん達による「七夕小町をどり」が奉納されます。
(『京都のいちねん――私の暮らしの約束ごと』小林由枝 祥伝社 令和元年)