2022年7月18日月曜日

海の日

今朝も蒸し暑かったです。
風車の丘では、愛犬家の方々がヒマワリを背景にワンちゃんの写真を撮っておられました。
 新聞の川柳投稿欄についてSNSでいろいろ賑やかなんだけど
川柳を読んでなるほどなぁと賛同しました。
父に読んでどう思ったと聞いたら、うんうんと投稿者の川柳に共感していました。
父は自民党の支持者で、長年、自民党に投票している。

川柳欄の隣に「かたえくぼ」に

 『国葬』
  あれもこれも葬る場
       ――新解釈辞典


川柳を載せた新聞を攻撃しているのを見ると鶴彬(つるあきら)を思い出しました。
以前の記事で田辺聖子さんが鶴彬の川柳を紹介した『川柳でんでん太鼓』を転記したことがあります。
日本の世情は当時と一緒になってきているのではと思う。
中国やロシアのように政府を批判できない国になるのかの分岐点に立っていると思う。

鶴彬全川柳」(青空文庫)
 今日は「海の日
昭和16年に「海の記念日」が制定されました。
「海の日」が平成8年に制定されたときは、7月20日。
平成15年から7月第3月曜日に改正されました。
新しい権力のしくみ
 教導職・祝祭日制


 官僚制、戸籍および町村制、警察制、さらに徴兵常備兵制の樹立によって、天皇の名による日本の全国土・全国民にたいする専制支配機構の基幹がここにつくられた。
しかしどんな専制権力も、国民にたいする精神的支配なしには、真に強固ではない。
そのためには神道を事実上の国教とし、国民に対する天皇を神的権威として尊信させるさまざまの政策が元年以来とられてきたことは、これまでものべてきた。
神祇官が神祇省に格下げされ、管制上の祭政一致の体制はなくなったが、神道国教主義の「大教宣布」は、神祇省と宣教使により、ひきつづきさかんに行なわれた。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)
 明治5年3月、神祇官・宣教使とも廃して教部省を置き、そのなかで教導職をもうけ、神官・僧侶および儒学者をそれに任じた。
中央に大教院(芝の増上寺<ぞうじょうじ>に置く)、府県に中教院、その下には無数の小教院がもうけられ、大教正(だいきょうせい)以下訓導(くんどう)にいたる14等級の教導職が、全国いっせいに「敬神愛国の旨を体すべきこと」、「天地人道を明らかにすべきこと」、「皇上を奉戴し朝旨(ちょうし)を遵守(じゅんしゅ)せしむべきこと」の「三条の教憲」にのっとる説教をした。
明治7年の教導職の数は、神官4204人、僧侶3043人という。
 ところが明治7年、欧州の宗教界を視察して帰った本願寺(ほんがんじ)の僧島地黙雷(しまじもくらい)が、宗教と政治の混同に反対して、真宗各派の賛同をえて大教院解散運動をおこしたので、8年4月、政府は神仏の合同布教を禁止し、大教院を解散した。
一般国民もこうした押売り的な説教には反応を示さず、この事業はしだいに衰え、明治10年には教部省も解散された。
教導職はなお存続したが、これも明治18年には全廃される。
教部省廃止後は、政府による国民教化は学校や軍隊教育で行われるが、学校のことは後でのべる。
 政府は大教宣布のような神道思想による公然の説教のほかに、神道思想および天皇崇拝にもとづく祝祭日制度を通じて、知らず知らずのうちに国民心理に深く天皇崇拝をしみ通らせていた。
まず明治元年に天皇誕生日を祝う天長節が制定され、明治4年には4月3日を神武天皇祭として国家の祭日とし、5年11月15日には、神武天皇即位の日と『日本書紀』に書かれている「辛酉(しんゆう)年春正月朔日」を太陽暦で明治6年1月29日と換算して、「神武天皇御即位相当」の祝日と定めた。
ついで6年3月、神武天皇御即位の祝日は紀元節と称するとし、さらに同年10月14日、紀元節は2月11日と定めた。
『書紀』にいう神武即位の辛酉年1月1日を、太陽暦で1月29日または2月11日に「換算」することには、暦学上の根拠は全然ない。
これは換算を命じられた文部省天文局が、『書紀』に記載の干支(えと)により「簡法相立て」、と当局自身が明言しているとおり、便宜的にきめた日であった。
 天長節・紀元節・神武天皇祭・新嘗祭(にいなめさい)などの国家的祝祭日がつくられると同時に、人日(じんじつ<1月7日>)、上巳(じょうし<3月3日>)・端午(たんご<5月5日>)・七夕(たなばた<7月7日>)・重陽(ちょうよう<9月9日>)という民衆の伝統的な五節句(ごっせく)は廃止された。
民衆的祝日では新年元旦だけが、天皇の四方拝(しほうはい)の日として国家の祝日とされた。
このことにつき「明治七年紀元節の後二日」の序文をもつ『開化問答』は、旧平(旧弊を代表する)をしてつぎのように言わせている。
  「改暦(明治5年12月3日=6年1月1日)以来は五節句・盆(ぼん)などというたいせつなる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝うことでござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜のふたの明く日というのは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり<日章旗をさす>)や提灯(ちょうちん)をださするのは、なお聞こえぬ理窟でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡(りょうけん)が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を、しいて祝わしむるはもっとも無理なことと心得ます」
 この旧平にたいして、開次郎(文明開化を代表する)が、五節句はいわれもない迷信、天長節・紀元節は合理的な祝日だと説明すると、旧平も、なるほどよくわかりましたというのが『開化問答』のしくみである。
しかし現実の民衆には、なかなかわからなかった。
 明治13年ごろの東京でさえも、市民が天長節に自発的に国旗をかかげるものは少なく、巡査が戸ごとに強制して歩かなければならなかったことが、帝国大学雇教師、ドイツ人ベルツを悲しませている。
しかし警察の力によってでも、こういう祝祭日が20年、30年とつづけられるうちに、それはいつのまにか国民生活上の習慣となる。
また明治の日本人は、統治者としての天皇陛下にたいする政治的に自覚された尊敬をもつよりも、かなり急速に、神様の子孫である天子様にたいする宗教的畏敬をもつようになった。
三浦観樹(みうらかんじゅ)将軍はその回顧録で、かれが東京鎮台の司令官であった明治20年ごろのことについて、「兵隊に天皇陛下ということを教えるのも容易でなかった。天子様といえばすぐわかる」と語っている。
 このようにして、廃藩置県とそれにつづく統治制度の大改革により、天皇を唯一最高の権力者として、また神的権威としていただき、中央・地方を一貫する完全な中央集権の官僚制と、国民徴兵による常備兵制とをもって、全日本をすみからすみまで統一的に支配する新しい国家のしくみ、すなわち近代天皇制が確立された。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)

五節句など民衆の楽しみまで廃止されていたのだなぁ。
今朝の父の一枚です(^^)/
ヒマワリにタイワンタケクマバチがきていました。

 ひまわり顔  (1938.5)

姉御(あねご)の顔は
 ひまわり顔 
日が昇るとすぐ
 職場に行く。

ひまわり顔は
 あねごの顔
うつむき顔で
 帰ってくる。
          (1938推定)
(『尹東柱(ユンドンジュ)詩集 空と風と星と詩』金 時鐘編訳 岩波文庫 2012年)