2021年9月5日日曜日

祝歳参り

一年ぶりになります。
石清水八幡宮参道ケーブルに乗りました。
父の誕生日(数えで91歳)にお参りしようとしていたのですが(祝歳参り祈願)、
平日は、石清水八幡宮駅までの間、通勤や通学の乗客が多いので日曜日にお参りしました。
隠居生活をしているので通勤通学の電車に乗ることを避けることができるけど
現役の人たちは毎日、不安を抱えながら乗っていると思う。
地蔵菩薩ご真言

おん かかか びさんまえい そわか
なま さんまんだなん かかか すたんぬ そわか
なま さんまんだなん かかか びさんまえい そわか
明くればすなわち放生会(ほうじょうえ)
  生けるを放す所の法
   恩に着ずとも勝手にお行きやれ

    浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)
     ――八幡里引窓(やわたのさとひきまど)の段――より
意味
 人助けの際に行き掛かりから二人の侍に手を掛けてしまい、お尋ね者となった力士の濡髪長五郎(ぬれがみちょうごろう)は、実母に別れを告げるため八幡(やわた)の里の南与兵衛(なんよへえ)の宅を訪ねる(この母は幼かった長五郎を養子に出した後、南家に後妻として入り、今は与兵衛の継母となっていた)。
父の跡を継いで郷代官となった与兵衛には長五郎捕縛の役目があったが、引窓(ひきまど<屋根に設けた明かり窓。下から綱を引いて開閉する>)の綱を切り、開いた窓から差し込む月の光を朝日と見なし「夜が明けたから今日は八幡宮の放生会、この日は捕われた生類(しょうるい)をみな放してやるのが当地の定め、だから恩に着なくてよい、勝手にどこへともお行きなされ」と言って長五郎を逃がしてやる与兵衛であった。
出典】『浄瑠璃集』――新編日本古典文学全集77(小学館)――より
作品解説
 遊郭の身請け騒動を中心に、力士・濡髪長五郎と放駒長吉(はなれごまちょうきち)を始め多彩な登場人物が織り成す人間模様を描いた人形浄瑠璃(文楽)作品。
竹田出雲(二代)・三好松洛・並木千柳による合作で、寛延2年(1749)初演。
主役の一人・濡髪長五郎は、実在した八幡出身の同名の相撲取がモデルという。
放生は生類に恩を着せるためではなく、自らの「罪滅ぼし」のために行うものであり、「恩に着ずとも~」の詞には放生の意義が的確に表されているとも言えよう。

(「双蝶蝶曲輪日記~引窓」歌舞伎演目案内)

「引窓 南邸の碑」が石清水八幡宮駅のバスターミナルにあります(2018年6月3日の記事)。
電車の中で読んでいた本より転記しますφ(..)

序章 神仏が共存していた時代
 †八幡信仰――石清水と鎌倉


 神仏が習合するなかで、神に仏教の菩薩号が与えられるようになったが、その代表的なものが八幡神に与えられた「八幡大菩薩」である。
(『廃仏毀釈――寺院・仏像破壊の真実』畑中章宏 ちくま新書 2021年)
  京都の石清水八幡宮は八幡大菩薩を奉じ、「石清水八幡宮護国寺」として神仏習合の宮寺として信仰された。
貞観元年(859)、大安寺(だいあんじ)の僧である行教(ぎょうきょう)は宇佐神宮で「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を受け、翌貞観2年、清和天皇が男山に社殿を造営した。
八幡宮が創建されると、もともとこの地にあり薬師如来を本尊としていた石清水寺は神宮寺となり、名称をその後、護国寺と改めたといわれる。
(鬼門封じ)

  八幡宮護国寺は都の鬼門(南西)を守護する王城鎮護の神として崇敬され、天皇・上皇・法皇がたびたび行幸啓し、伊勢神宮に次いで奉幣(ほうべい<天皇の命により供物を奉ること>)される「二所宗廟」の地位を得た。
また清和源氏の諸氏族からも氏神として崇敬された石清水の分霊は、各地の八幡宮に勧請されていく。
江戸時代までは「男山四十八坊」と呼ばれるほど多くの坊舎が男山の山内、山麓に軒を連ねたという。
 源頼朝が鎌倉に創建した鶴岡八幡宮も、石清水から神霊を勧請したものである。
この八幡宮も、近世まで「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる神仏習合の宮寺で、仁王門の額には「鶴岡山」、楼門の額には「八幡宮寺」と記されていた。
 楼門に続く回廊の東にあった「座不冷壇所(ざさまさずのだんしょ)」は「御正体(みしょうたい)」と呼ばれ、「鏡に弥陀の像を打付(うちつけ)たる物を厨子(ずし)に入(いれ)、鎖(じょう)をおろし」、厨子にはほかに十一面観音立像と金銅の薬師坐像を安置していた。
また運慶作の愛染明王を本尊とする愛染堂があり、護摩堂の五大尊も運慶が造ったものだとされる。
若宮の前には五智如来を安置する塔、塔の東には鐘楼、ほかに六角堂や輪蔵があった。
下宮の東に、薬師と十二神将の木造を納める薬師堂があり、史料によってはこの薬師堂のことを「神宮寺」と呼んでいる。
鶴岡八幡宮寺は鎌倉幕府の滅亡後も栄え、江戸幕末でも20を超える塔頭が軒を連ね、顕著に習合した姿で維新を迎えた。
(『廃仏毀釈――寺院・仏像破壊の真実』畑中章宏 ちくま新書 2021年)
  末社 竈神殿(そうじんでん)
御祭神 
迦具土神(かぐつちのかみ) 
彌都波能賣神(みづはのめのかみ) 
奥津日子神(おきつひこのかみ)
奥津比賣神(おきつひめのかみ)

御神徳 台所守護
弥都波能売(みつはのめ)の神

 名義は「出始めの水の女」。
「水(み)つ早(は)」の義と考える。
(中略)
伊耶那美(いざなみ)命が火神を生み、病臥して尿を出したときに化成した神。
火の暴威鎮圧のために水神が生まれたわけである。
むろん、水神は灌漑用水の神でもある。
(後略)
(『《新潮日本古典集成》古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
奥津日子(おきつひこ)の神 
名義は「燠(おき)の男性」。
炭火を灰の奥に活けて火種としたのが「燠(おき)」である。
奥津比売(おきつひめ)命とともに男女神となる。
「燠(おき)」は「奥(おき)」と同源。
須佐之男(すさのお)命の子の大年(おおとし)神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)との間に生まれた九神中の第一子。
母が太陽神で、それを火の根源として、燠火(おきび)の神が生まれた。

奥津比売(おきつひめ)の命 
名義は「燠の女性」。
「神」ではなく「命」とあるのは、人間生活に密着して親愛の情があったためか。
須佐之男命の子の大年神と天知迦流美豆比売との間に生まれた九神中の第二子。
ただし、奥津日子神と合わせて第一子と数える。
別名は「大戸比売の神」という。

大戸比売(おほへひめ)の神
名義は「偉大な、かまどの女性」。
「戸(へ)」は「竈(へ)つ霊(ひ)」の「へ」で、かまど。
「黄泉(よも)つ戸契(へぐひ)」の「戸(へ)」に同じ。
前項「奥津比売の命」の別名で、かまどの神である。
燠火(おきび)を貯える場所がかまどであった。
(『《新潮日本古典集成》古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    お父様のお誕生日おめでとうございます。

    ケーブルカーに乗られて、石清水八幡宮まで、
    お元気で卒寿のお参りは、とても嬉しいですね。

    晴れた日に、お父様とご一緒に祝祭のお参りできる。
    こんな言い方は、失礼に当たるかもしれませんが、
    お許しください。
    Kazeちのお父さまとKazeさん、素敵だなぁ~と思っています。

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    1. カイさんコメントありがとうございます。
      これまでに何度かいただいているのに表示できずに申し訳ありませんでした。

      昨日は天気を心配したのですが、青空がみえてよかったです。
      日曜日とあって行きの京阪電車とケーブルはすいていてホッとしました。
      帰りは10時を過ぎると乗客が多かったのですが、平日と比べるとすいていたと思います。
      9月で満90歳になる父がこうしてお参りできるのもありがたいなと思っています。
      小学1年の時に父親が亡くなり、お弁当を持っていけないほどの貧乏を味わいました。
      叔母は小学4年生で鹿児島に子守奉公に…
      そんな困窮な生活でなにくそうという根性が今の父を支えていると思います。

      父は、帰郷したいのですが、この感染拡大で自粛しています。
      来年、帰郷できるように公園を歩いている姿を見ていると
      私も頑張らねばと思います。

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