2021年9月12日日曜日

日曜日だけど…

歩き始めは曇り空だったけど、次第に傘にあたる雨の音が聞こえるほどでした。
今日は、日曜日で来園者が多いかなと思ったけど静かな公園でした。
台風14号の動きはゆくりで被害を大きくする台風になりそうですね…

台風14号 非常に強い勢力で午後には先島諸島に接近 警戒を」(NHK)
アフガニスタン 国民の93%が「十分に食事をとれない事態」に〟(NHK)

昨日、中村哲さんと半藤一利さんの対談の一部転記しました。
今日は、『アフガニスタンの診療所から』から「文庫版あとがき」を転記したいと思います。
この本は1993年2月に刊行され2005年に文庫本になりました。
刊行された当時は「文庫版 あとがき」にあるようにソ連軍(現・ロシア)が侵攻(1979年12月27日)、そして10年後(1989年2月15日)に撤退しています。
その後、2001年からのアメリカ軍の侵攻も今年無残にも失敗しました。
20年間に失われたアメリカ青年の死が無駄になっています。
今、中国が「一帯一路」をアフガニスタンにまで伸ばそうとしているようですが
アフリカなどで行っているように中国企業が利益を独占するようだと、テロ攻撃の標的になると思うのですが?
国情を知るには、中村さんが現地で人々との交流で得た言葉に耳を傾けるべきだと思います。
もし、ご存命だったらどのような言葉を私たちに届けてくれたのだろう…

アフガニスタン復興に尽力 中村哲さん銃撃死亡」(NHKアーカイブス 2019年)
  文庫版あとがき

 拙著が上梓されたのは、1993年であった。
それが10年の間版を重ね、今回文庫版で刊行されることは嬉しいことである。
 93年と言えば、ソ連軍9万名の撤退によってアフガン戦争(1979-89年)が終結し、湾岸戦争とソ連崩壊(1991年)、東欧共産圏ブロックの混乱など、冷戦下の矛盾が一挙に噴出し始めた時期に相当する。
私が84年にペシャワールに赴任してから10年、国内診療所建設にこぎつけ本格的な活動をアフガニスタンで開始した頃でもある。
(『アフガニスタンの診療所から』中村哲 ちくま文庫 2005年)
 「自由主義対共産主義」という、第二次大戦後の世界を動かしてきた国際秩序が崩れ、米国の一極世界支配、国際大資本のボーダレスな膨張が世界を席巻し始めていた。
国内政治では「保守対革新」という図式も意味を失い、根拠のない不安に支配されつつあった。
アフガニスタンのできごとは、ほとんど世界に伝わらなかったが、そこでは「東西対立の消滅と混乱」では割り切れぬ様々な矛盾が、目に見える形で現れ始めていた。
欧米列強による植民地政策の後遺症――都市化によるアジア的伝統社会の崩壊、欧米型国家モデルの矛盾、貧富の差の拡大、イスラム世界の再編、そしてこれらによる膨大な民衆の犠牲である。
アフガン人の誰もが、それまでの戦乱と犠牲の意味を疑い始めていた。
  私たちは、その後も活動を続け、更に10年を経て現在に至っているが、本書に記された基本的状況は少しも変化していない。
その後の詳しい政情についてはここで触れないが、2001年の米国の同時多発テロ事件(9.11)は、思わぬ形でアフガニスタンの記憶を再び呼び覚ました。
9.11直後のアフガン空爆、続く「アフガン民主化」と称する「復興」の大義名分と諸政策が、かつてソ連がアフガン侵攻時に掲げたものと、ほとんど変わりなかったのは皮肉である。
 しかし、アフガン民衆を苦しめたのは、決して国際政治ばかりではなかったことを強調しておきたい。
その元凶は、世紀の大旱魃(かんばつ)であった。
元来アフガニスタンの8割が農民、1割が遊牧民といわれる。
乾燥した中央アジアに位置する同国で、2000万人もの生存を可能にしてきたのは同国の大部分を占める険峻(けんしゅん)な大山脈、ヒンズークッシュの白雪で、夏にとけ出すことで川沿いに沃野(よくや)を提供してきた。
「カネはなくとも食ってゆけるが、雪がなくては生きてゆけない」という現地のことわざが、端的にそれを示している。
 ところが、温暖化によって年々この雪が減少、全土で砂漠化が進みつつあった。
果して2000年5月、WHO(世界保健機関)の警告は恐るべきもので、「1200万人が被災、400万人が飢餓線上にあり、100万人が餓死の危険に直面」というものであった。
 だが、実情を知る人々の必死の呼びかけにもかかわらず、本格的な国際支援はついに発動されなかった。
実際、私たちの診療所周辺でも、村々が消滅し始め、農民たちが続々と流民化していた。
人々は大都市の親族を頼って移動し、多少ゆとりのあるものは周辺諸国、とくにパキスタンとイランに難を避けた。
これがアフガン戦争以降に起きた難民化の真の理由であった。
 しかし、国際社会の関心は、政治問題に終始した。
旱魃(かんばつ)のアフガニスタンにやって来たのは、2001年1月、国際救援ではなく国連制裁であった。
100万人が餓死に直面する中、国連制裁発動の初期、「食糧制裁」まで含まれたのは忘れがたい。
これによって、タリバーン政権内の急進派の主張が勢いを持ち、2月のバーミヤン石仏破壊が強行された(元タリバーン政府外相の証言)。
 同年「9.11テロ」がニューヨークで起きると、「アフガン空爆」が直ちに主張され、同年10月7日、飢えた人々の頭上に爆弾の雨が降り注ぎ、ニューヨーク以上に多数の犠牲者を出した。
ほとんど罪のない一般市民・農民であったことは知られてよい。
その後行われた「国際社会」による「アフガン復興支援」については、多くを述べないが、本書に記されているソビエト軍撤退時のものと大差はない。
現地のニーズを重んずるよりも、「国際社会」と称する先進国の国民を満足させるプロジェクトに終始したと言える。
メディアによって流された現地情報は、アフガニスタンでは別世界ともいえる首都カブールでの復興や「民主化」に関するものが大半で、人口の大部分を占める農村部の実情は知らされないままだった。
ようやく200年5月になり、WFP(世界食糧計画)が、「過去数年の旱魃で最悪の状態が予測される」と訴えたのみである。
  この10年、現地では途上国の抱えるあらゆる悩みが集中し、人々を苦しめる要因に変わりはない。
しかし、現地活動の20年を振り返るとき、「遅れて貧しい」現地と豊かな筈のわが国を比べ、現地の人々が必ずしも惨(みじ)めだとは思えなくなってきた。
不況や病に怯え、鬱々と暮らす者は、むしろ「自由で豊かな」先進国に多いという逆説を目撃する。
 今、内外を見渡すと、信ずべき既成の「正義」や「進歩」に対する信頼が失われ、出口のない閉塞(へいそく)感や絶望に覆われているように思える。
10年前、漠然と予感していた「世界的破局の始まり」が現実のものとして感ぜられ、一つの時代の終焉(しゅうえん)の時を、私たちは生きているように思えてならない。
 強調したかったのは、人が人である限り、失ってはならぬものを守る限り、破局を恐れて「不安の運動」に惑わされる必要はないということである。
人が守らねばならぬものは、そう多くはない。
そして、人間の希望は観念の中で捏造(ねつぞう)できるものではない。
本書が少しでもこの事実を伝えうるなら、幸いである。
 2004年10月            中村 哲
(『アフガニスタンの診療所から』中村哲 ちくま文庫 2005年)