2021年9月3日金曜日

本降りになった…

今朝も雨が降っている…
歩き始めは小雨でしたが、次第に本降りになってきたので途中できりあげました。

大気不安定 西~東日本で局地的に激しい雨 土砂災害など警戒を」(NHK)
 渡邉英徳さんのTwitterに

77年前の今日。
1944年9月3日、アンネ・フランクがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。
写真は1941年、アムステルダムの自宅でポーズを取るアンネ。


ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正

こちらが元の白黒写真

この写真は初めて見ます!
9月3日 
 昭和20年(1945) イギリス人記者バーチェット、「広島における大惨状」を打電し、初めて被爆地の状況を報道。

 昭和30年(1955) 沖縄で米兵による幼女暴行殺害事件起こる(由美子ちゃん事件)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

検証 ヒロシマ 1945~95<1>報道」(中國新聞 ヒロシマ平和メディアセンター)

由美子ちゃん事件(1955/石川市)-少女暴行殺害-」(読谷バーチャル平和資料館)
大正十二年九月一日の大震災に際して
 一 大震災雑記

   六


 僕は丸の内の焼け跡を通った。
此処(ここ)を通るのは二度目である。
この前来た時には馬場先(ばばさき)の濠(ほり)に何人も泳いでいる人があった。
きょうは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。
濠の向うには薬研(やげん)なりに石垣の崩れた処がある。
崩れた土は丹(に)のように赤い。
崩れぬ土手(どて)は青芝の上に相変らず松をうねらせている。
そこにきょうも三四人、裸の人々が動いていた。
何もそういう人々は酔興(すいきょう)に泳いでいる訣(わけ)ではあるまい。
しかし行人(こうじん)たる僕の目にはこの前も丁度(ちょうど)西洋人の描いた水浴の油画か何かのように見えた、今日(きょう)もそれは同じである。
いや、この前はこちらの岸に小便をしている土工があった。
きょうはそんなものを見かけぬだけ、一層(いっそう)平和に見えたくらいである。
(『芥川龍之介全集 第七巻』伊藤整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)
 僕はこういう景色を見ながら、やはり歩みをつづけていた。
すると突然濠の上から、思いもよらぬ歌の声が起った。
歌は「懐(なつか)しのケンタッキイ」である。
歌っているのは水の上に頭ばかり出した少年である。
僕は妙な興奮を感じた。
僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。
少年は無心に歌っているのであろう。
けれども歌は一瞬の間(あいだ)にいつか僕を捉(とら)えていた否定の精神を打ち破ったのである。
 芸術は生活の過剰(かじょう)だそうである。
なるほどそうも思われぬことはない。
しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。
僕らは人間たる尊厳のために生活の過剰を作らなければならぬ。
さらにまた巧(たく)みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。
生活の過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
  僕は丸の内の焼け跡を通った。
けれども僕の目に触れたのは猛火もまた焼き難い何ものかだった。

薬研なり 薬研堀ににた形。すなわちV字形。
   二 大震目録

 八月二十五日。
 一游亭(いちゆうてい)と鎌倉より帰る。
久米、田中(すが)、成瀬(なるせ)武川(むかわ)など停車場へ見送りに来(きた)る。
一時ごろ新橋着。
直ちに一游亭とタクシイを駆(か)り、聖路加病院に入院中の遠藤古原草(えんどうこげんそう)を見舞う。
古原草は病ほとんど癒(い)え、油画具など弄(もてあそ)びいたり。
風間直得(かざまなおえ)と落ち合う。
聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等、清楚(せいそ)はなはだ愛すべきものあり。
一時間の後(のち)、ふたたびタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやっと田端へ帰る。
  八月二十九日。
 暑気はなはだし。
ふたたび鎌倉に遊ばんかなどとも思う。
薄暮(はくぼ)より悪寒(おかん)
検温器を用うれば八度六分の熱あり。
下島(しもじま)先生の来診(らいしん)を乞う。
流行性感冒のよし。
母、伯母、妻、児ら、皆多少風邪(ふうじゃ)の気味あり。
  八月三十一日、
 病いささか快(こころよ)きを覚ゆ。
床上「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」を読む。
かつて小説「芋粥(いもがゆ)」を艸(そう)せし時、「ほとんど全く」なる語を用い、久米に笑われたる記憶あり。
今「抽斎」を読めば、鷗外(おうがい)先生もまた「ほとんど全く」の語を用う。
一笑を禁ずる能(あた)わず。
田中 田中純。

  菅忠雄。菅虎雄の子。

武川 武川重太郎。小説家

聖路加病院 中央区明石町にある総合病院。明治34年米国聖公会により設立。

遠藤古原草 遠藤清平(1893~1930)。河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)門下の俳人。

風間直得 (1897~)。新傾向の俳人。大正5年河東碧梧桐に師事。

下島先生 下島勲。田端の開業医。芥川とは深い交際があった。

渋江抽斎 森鷗外の歴史小説。大正5年作。
(『芥川龍之介全集 第七巻』伊藤整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v

雨のこと、風のこと
……
 九月一日は大正12(1923)年に関東大震災が首都東京を襲ったことから、現在では「防災の日」とされていますが、大型台風が来るのもこの前後です。

  移り行く二百二十日の群烏(むれがらす)  高浜虚子(たかはまきょし)

 烏が群れをなして移動する、これも大雨大風の予兆でしょうか。
蜂が巣を低いとこにつくる年の厄日には注意、そんなことをまことしやかに信じていましたが、一理あるかもしれません。
 木造家屋の多かった昭和、台風が来そうだと、窓や入口に板を打ちつけて難を防ぎました。
鶏小屋を筵(むしろ)でかこったり、大事なものを薦(こも)で巻いたりしたものです。
……
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)