2021年9月18日土曜日

すこしのズレで…

 朝、台風の進路が少しずれてくれたおかげでこちらはそんなに雨が降っていませんでした。
台風は進行方向に反時計回りなので紀伊半島に雨雲などがぶつかっていたと思います。

台風14号東の海上に抜ける 引き続き土砂災害や強風に注意を」(関西NHK)
地震も少し場所が違うだけで被害の程度が大きく違う。
阪神淡路の震災の時も電車にのり川ひとつ越えるだけで状況が大きく違っていました。
森まゆみさんの『一葉の四季』は、2001年に刊行されています。
 Ⅱ 明治の東京歳時記
 地 震


 「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」という。
あの阪神淡路大震災からずいぶん時がたって、いまだに地震の後遺症に苦しむ方も多いのに、東京にいるとつい、心が緩み、そのことを忘れそうになる。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
  明治二十四年十月二十八日、「六時頃急なる地震あり。ことしは大地しんの三十七年とかやいひて、いとうあやふがる人も有るなり」。
 関東大震災六十九年周期説というのがあって、1992年にはずいぶん騒がれたが、一葉のころも、安政の大地震から三十七年目に当たるので危ないという風説が流れた。
 すでに七月二十一日、「其夜地震す。五分間斗(ばかり)にて止(や)む」といった記述がある。
 翌十月二十九日の新聞を見れば「東京の地こそ何事もあらざりけらし。各地の電報によれば愛知岐阜辺より伊勢路浜松辺など容易ならぬ災害成りといふ」。
これはかの濃尾大地震。
まだテレビもラジオもないころのこととて、一葉は翌日の新聞で知ったのである。
  全壊焼失十四万二千戸、死者七千二百人。
このとき初めて災害地向け救援品の無賃輸送が実施された。
「殊に岐阜は全市焼失、更に実情相知れず」(24.10.30)。
十一月二十三日、岐阜の市民数百人は震災救済を請願して県庁に押しかけ、翌日には市内で暴徒化して、警官が剣を抜いて鎮圧するという騒ぎになった。
 「横浜などにも家屋の崩れたるなどはなかりしものから、電灯会社の烟筒など倒れて点灯しがたしなどいふ」(24.10.29)。
 三十一日、朝、起きてみたら霜で外はまっしろである。
「初霜にこそなどいふ」。
萩の舎の稽古に行くと師の中島歌子が「小紋ちりめん三ツ紋付」をくれた。
歳暮にあげようと思ったけれど、新年の会に出るのに紋付がなくては困るでしょう。
そう思って早々に、と。
一葉はありがたく押しいただいた。
十一月六日には濃尾地震の義損金を出す話があったが、母たきにとどめられた。
  明治二十七年六月二十日、東京でも、「午後二時俄然(がぜん)大震あり」と日記にある。
 「我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなくそこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々などつとめを中止して戻り来たるもあり」。
 この時、貴族院、衆議院、大蔵省などで大破、死傷があり、三田小山町辺りでは地が裂け、泥水が噴き出した。
 この日記を読むと、我が屋の備えは万全か、家の中を見回したくなる。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)

濃尾地震」(国立科学博物館地震資料室)

明治東京地震」(国立科学博物館地震資料室)
帰り道、二車線の左車線を走っていると、
突然、追い越し車線から車が寄ってきて運転席側のドアミラーが吹っ飛んだ。
相手の人の話では、バックミラーに気を取られていて私の車に気がつくのが遅れたようです。
でも、進路変更が急でなかったのでドアミラーと前部に傷がついただけですみました。
相手の方は、年齢が一つ下の方。
自分もひとつのことに気を取られるとヒヤッとしたことが何度かあります。
お互いケガがなかったので警察に連絡。
警察に来てもらって事故調書をとってもらいました。
相手の車はたいした破損もなかったので、そのまま別れましたが、
私の方はドアミラーが吹っ飛んだので運転できません。
車を購入した販売店の担当の方に連絡。
担当の方から保険会社に連絡してもらってレッカー移動をしました。
そのあと、タクシーに乗るのはまだ躊躇したので、テクテク歩いて帰りました。
以前、国道を走っていた時に、前を行く自家用車にダンプが無理やり車線変更して巻き込み事故。
自家用車はタイヤから黒煙をあげて横向きになりましたが、左ハンドルだったので運転手にケガはなかった。
一寸したことで大事故になる。
夕方、販売店の担当の方に代車をもってきてもらいました。