2021年9月7日火曜日

白露

 

昨日よりも雲が空を覆っていましたが、時折り吹く風が気持よかったです。
もう初冠雪の便りが届いている…

富士山で初冠雪 平年より25日早く 去年より21日早い」(NHK)

昨夜のEテレ2355はリクエストにおこたえ週間
リクエストが「ポカヨケ」

新郷重夫(1909~1990 生産管理技術者)によって発表された。
ポカヨケとは、道具を工夫して、人間のポカミスを防ぐこと。
「ポカミス」+「防ぐ」=ポカヨケ

番組では、「部品置き場」編を紹介していました。

トビーが教えてくれたのが

先ほどの、「ポカヨケ」という言葉。
英語でも、そのまま
「 poka-yoke 」と、使われている。

sushi
tempura
poka-yoke。
今日は、「白露(はくろ)



 学問的にはもっとむずかしい定義になるが、結露の始まる温度を、露点とか露点温度という。
つまり空気塊を、気圧、水蒸気量を不変のまま冷却し、水蒸気が飽和に達するときの温度が露点である。
温度が高く空気が湿っていると、気温がすこし下がっただけでも水蒸気は凝結する。
すなわち露点温度が高い。
逆に温度が低く乾いていると、よほど気温が下がらない限り、露は結ばない。
つまり露点温度は低いのである。
仏像の肌が濡れるとか、マリア像が泣く、などといわれる場合の多くは、像の温度が、周囲の空気に対して露点温度となっているときである。
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
 白露(9月8日)、秋分(9月23日)、寒露(10月9日)というように、二十四節気では、秋は露によって代表されている。
俳句歳時記でも、露は秋の季語である。
なぜ、露は秋を代表するのであろうか。
その理由は、大陸の気候表を見ると、よくわかる。
昔の唐の長安の都、現在の西安の月別の平均露日数は、春も多いが、秋がぐんと多いのである。
 露は大気中の水蒸気が凝結して水滴となって地物に付着したものである。
冷蔵庫から取り出したビールびんの外側が濡れるのと同じである。
秋に大陸で露が多くなるのは、大気はまだ夏の水蒸気を残している一方、大地は急速に冷えていくためであろう。
  日本の気候表には、露日数の統計はない。
露への関心は、薄いのである。
文献をさかのぼっていたら、昭和9年4月から翌年3月にかけて、東北大名誉教授の山本義一博士が、福岡気象台で1年間にわたって、自ら考案した露量計で観測した結果がみつかった。
この露量計は、ガラス皿に付着した露の目方を計るものであったが、露量そのものは、雨量換算でミリで表現されている。
それによると、春 2.84ミリ、夏 2.30ミリ、秋 3.52ミリ、冬 2.20ミリで、やはり秋が多い。
それにしても1年間の露量の合計が10.86ミリだから、わずかなものである。
ちなみに福岡の年間降水量の平均値は1705ミリである。
  日本の気候表に露の統計がないのは、その実用性が少ないためであろう。
しかし砂漠やステップなど乾燥地帯では露の水分が農業にたいへん役に立っており、イスラエルには露研究所があるという。
    (倉島 厚)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
大正十二年九月一日の大震災に際して

 四 東京人


 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでいる僕はいまだかつて愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。
また同情を感じないことを得意としていたのも確かである。
(『芥川龍之介全集 第七巻』伊藤整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)
 元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介(やっかい)にもならない限り、言わば無用の長物である。
東京を愛するのもこの例に洩(も)れない。
とかく東京東京とありがたそうに騒ぎまわるのはまだ東京の珍しい田舎者(いなかもの)に限ったことである。
――そう僕は確信していた。
 すると大(だい)地震のあった翌日、大彦(だいひこ)の野口君に遇(あ)った時である。
僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。
一本のサイダアを中になどと言うと、あるいは気楽そうに聞えるかも知れない。
しかし東京の大火の煙は田端の空さえ濁(にご)らせている。
野口君もきょうは元禄袖(げんろくそで)の紗(しゃ)の羽織などは着用していない。
何だか火事頭巾(ずきん)のごときものに雲竜(うんりゅう)(さし)っ子(こ)という出立(いでた)ちである。
僕はその時話の次手(ついで)にもう続々(ぞくぞく)罹災民(りさいみん)は東京を去っているという話をした。
「そりゃあなた、お国者(くにもの)はみんな帰ってしまうでしょう。――」
 野口君は言下(ごんか)にこう言った。
「その代りに江戸(えど)っ児(こ)だけは残りますよ」
 僕はこの言葉を聞いた時に、ちょいとある心強さを感じた。
それは君の服装のためか、空を濁らせた煙のためか、あるいはまた僕自身も大地震に悸(おび)えていたためか、その辺の消息(しょうそく)ははっきりしない。
しかしとにかくその瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。
やはり僕の心の底にはいくぶんか僕の軽蔑していた江戸っ児の感情が残っているらしい。
ホシホウジャクの幼虫?、「へクソカズラで大発見」小学校3年)

  五 廃都東京

 加藤武雄(かとうたけお)様。
東京を弔(とむら)うの文を作れという仰(おお)せは正に拝承しました。
またおひきうけしたことも事実であります。
しかしいざ書こうとすると、怱忙(そうぼう)の際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙でご免(めん)を蒙(こうむ)りたいと思います。
 応仁の乱か何かに遇(あ)った人の歌に、「汝(な)も知るや都は野べの夕雲雀(ゆふひばり)(あ)がるを見ても落つる涙は」というのがあります。
丸の内の焼け跡を歩いた時にはざっとああいう気がしました。
水木京太(みずききょうたろう)などは銀座を通ると、ぽろぽろ涙が出たそうであります。
(もっとも全然センティメンタルな気もちなしにという断<ことわ>り書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」という気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。
そのほか不謹慎の言葉かも知れませんが、ちょいともの珍しかったことも事実であります。
 「落つる涙は」という気のしたのは、もちろんこんなにならぬ前の東京を思い出したためであります。
しかし大いに東京を惜しんだという訣(わけ)じゃありません。
僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛借(あいじゃく)を持たずにいました。
と言っても僕を江戸趣味の徒(と)と速断(そくだん)してはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依々恋々(いいれんれん)とするためには余りに散文的にできているのですから。
僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。
銀座に柳の植(うわ)っていた、汁粉屋(しるこや)のカフエの殖(ふ)えない、もっと一体に落ち着いていた、――あなたもきっと知っているでしょう、言わば麦稈帽(むぎわらぼう)はかぶっていても、薄羽織を着ていた東京なのです。
その東京はもう消え失(う)せたのですから、同じ東京と言うものの、どこか折り合えない感じを与えられていました。
それが今は焦土(しょうど)に変ったのです。
僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思い出しました。
が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかったにしろ、今は惜しんでいるのかも知れません。
どうもその辺(へん)はぼんやりしています。
僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加えているような気がしますから。
つまり一番確かなのは「落つる涙は」という気のしたことです。
僕の東京を弔(とむら)う気もちもこの一語を出ないことになるのでしょう。
「落つる涙は」、――これだけではいけないでしょうか?
 何だかとりとめもないことばかり書きましたが、どうか悪(あ)しからずお赦(ゆる)し下さい。
僕はこの手紙を書いて了(しま)うと、僕の家に充満した焼け出されの親戚故旧(しんせきこきゅう)と玄米の夕飯(ゆうめし)を食うのです。
それから提灯(ちょうちん)に蠟燭(ろうそく)をともして、夜警(やけい)の詰所(つめしょ)へ出かけるのです。以上。

刺っ子 綿布をかさね合せて細く縫ったもので、堅牢。

お国者 郷里のある者。地方から出てきた者。 

加藤武雄 (1888~1956)。小説家。新潮社の「文学時代」編集。

汝も知るや都は…… 応仁記の巻三「洛中大焼亡の事」の中にある飯尾彦六左衛門尉の歌。

水木京太 (1894~1948)。戯曲家、劇評家。本名七尾嘉太郎。慶大講師。「三田文学」を編集。
(『芥川龍之介全集 第七巻』伊藤整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
センニンソウ(キンポウゲ科)が満開でした。
茎や葉の切断面から出る汁や濡れた花粉に触れると炎症を起す有毒植物です。

私には霊感はないと思っています(怖がりですが…)。
今日の夢に従妹(姉妹)が登場しました。
なんで従妹の夢を見たのかと不思議に思っていたら
散歩に出かける前に、叔母からおかずを作ったから散歩の帰りに取りに来てとの電話がありました。
このことだったかのか?
また、数日前に道端でばったり友達に会いました。
数日前からどうしているかなと思っていたら会えた!
コロナ禍でなかったら喫茶店でゆっくり話ができたのだけど…
二つともたまたまだったと思います。
他に願っていることがありますが、口に出したり書いたりすると
願い事は叶わないので黙っておきます(^_-)-☆