2021年9月23日木曜日

秋分の日

今日は「秋分の日」で「彼岸の中日」。

四天王寺のお彼岸 夕日の向こうの極楽浄土」(NHK みちしる)

父の時代は「秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)」。
民間では、春分の日に「ぼた餅」、秋分の日は「おはぎ」が供えられます。
ぼた餅、お萩(はぎ)についてこんな諺(ことわざ)があるそうです。
開いた口へお萩  ぼた餅に二面あり

 ものを食べようと口を開(あ)けたら、なんとうまい具合にぼた餅が差し出されたという場面を描写したことわざだ。
お萩(=ぼた餅)のほかに、ただの餅や団子が登場することもある。
次々頁の下図(省略)は、河鍋暁斎(かわなべきょうさい 1831-89年)が描いた『狂斎百図(きょうさいひゃくず)』の中の一つ。
 この絵の情景は、脇息(ひじ掛け)に両ひじを置いて大口を開けている女に小娘がぼた餅を口に差し出してやっている。
小娘は母親が幼児に食べさせる時にするように、食べない自分の口も開けて相手を促す仕種(しぐさ)をしている。
この大口を開けている女はまわりの様子や着物の着方から、どうやら遊女のようだ。
(ふすま)の後ろに布団らしきものが敷かれているところから、いまは客を待っているところなのだろう。
暇にまかせてか、これからの商売のための腹ごしらえなのか、下働きの小娘に給仕をさせているのかもしれない。
(『絵で楽しむ江戸のことわざ』時田昌瑞 角川ソフィア文庫 2019年)

(「暁斎百図. [3] 18/28」 右頁上図 国立国会図書館)
 「開いた口へお萩」は開いた口へお萩が差し出されるものだが、古くはただの餅が用いられ場合のほうが多かった。
特にぼた餅は江戸時代にあっては御馳走だった。
そのためか、ことわざにもしばしば用いられることがある。
「棚からぼた餅」といえば、努力せずに良い思いをする意だ。
これに似た「棚から落ちたぼた餅」というものもある。
こちらは「棚からぼた餅」と同じ意味をもつものと、まったく別の意味合いがある。
 ぼた餅が棚から落ちれば、やわらかいぼた餅はつぶれてしまう。
ここから、つぶれたような醜い顔だちの譬(たと)えとなっていた。
確かに、現代のように美味(うま)いものが豊富にある時代でなかった当時、ぼた餅は美味の代表格であったものの、食べるには美味くても外観的には華やかさや派手さはなかった。
そんなぼた餅がつぶれたとあっては醜さは梅香する。
なお、こちらの絵は北斎による黄表紙『児童文殊稚教訓(ちごもんじゅおさなきょくん)』にある一場面のものだ(次頁上図 省略)。

(「児童文殊稚教訓 3巻 4/18」右頁 国立国会図書館)
 片方でプラスの評価をもち、他方でマイナスの評価となる二面性をもつことわざはいくつかあり、「開いた口へお萩」のことわざもその一つに連なりそうだ。
それにしても、同じぼた餅でも状況により、対極的ともいえる意味合いとしてしまうのだから、ことわざの不思議さというか、奥深さというか、「いい加減さ」が感じられて可笑(おか)しい。
(『絵で楽しむ江戸のことわざ』時田昌瑞 角川ソフィア文庫 2019年)
 サヘルローズさんのTwitterに

世界じゅうの
 女の子のための日


生まれた場所で
こんなにも人生は異なる

地球なのに
生まれた星は。

一気に読みました。

一人の少女の名前が母と同じ
『フローラ』で、
なんだか、ドキドキした。

学校にもおいて欲しい一冊。

世界じゅうの女の子のための日 国際ガールズ・デーの本』(大月書店)
(「烏瓜の花と蛾」つづき)

 動物や植物には百千年の未来の可能性に備える準備ができていたのであるが、途中から人間という不都合な物が飛出してきたために時々違算を生じる。
人間が灯火を発明したためにこれに化かされて蛾の生命が脅かされるようになった。
人間が脆弱(ぜいじゃく)な垣根などを作ったために烏瓜の安定も保証されなくなってしまった。
図に乗った人間は網や鉄砲やあらゆる機械を工夫しては鳥獣魚虫の種を絶やそうとしている。
因果はめぐって人間は人間を殺そうとするのである。
 戦争でなくても、汽車、自動車、飛行機はみんな殺人機械である。
(『科学歳時記』寺田寅彦 角川ソフィア文庫 2020年)
 このごろも毎日のように飛行機が墜落する。
不思議なことには外国から遠来の飛行機が霞ヶ浦(かすみがうら)へ着くという日にはきまって日本のどこかで飛行機が墜落することになっているような気がする。
遠来の客へのコンプリメントででもあるかのように。
 蜻蛉(とんぼ)や鴉(からす)が飛行中に機関の故障を起して墜落するという話は聞かない。
飛行機は故障を起しやすいようにできているから、それで故障を起すし、鳥や虫は決して故障の起らぬようにできているから故障が起らなくても何も不思議はないわけである。
むしろ、一番不思議なことは落ちるときに上の方へ落ちないで必ず下に落ちることである。
物理学者に聞けば、それは地球に引力によるという。
もっと詳しく聞くと、すぐに数式を持出して説明する。
そんならその引力はどうして起るかと聞くと事柄は一層むつかしくなって結局到底満足な返答は得られない。
じつは学者にも分からないのである。
 吾々が存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間が一番思い上がって吾々の主人であり父母であるところの天然のものを馬鹿にしているつもりで、本当は最も多く天然に馬鹿にされている時代かもしれないと思われる。
科学がほんの少しばかり成長してちょうど生意気盛(なまいきざか)りの年ごろになっているものと思われる。
天然の玄関をちらと覗(のぞ)いただけで、もうことごとく天然を征服した気持になっているようである。
科学者は落着いて自然を見もしないで長たらしい数式を並べ、画家はろくに自然を見もしないでいたずらに汚ならしい絵具を塗り、思想家は周囲の人間すらよく見ないで独りぎめのイデオロギーを展開し、そうして大衆は自分の皮膚の色も見ないでこれに雷同し、そうして横文字のお題目を唱えている。
しかしもう一歩科学が進めば事情はおそらく一変するであろう。
その時には吾々はもう少し謙遜(けんそん)な心持で自然と人間を熟視し、そうして本気で真面目に落着いて自然と人間から物を教わる気になるであろう。
そうなれば現在のいろいろなイズムの名によって呼ばれる盲目なるファナチシズムの嵐は収まって本当に科学的なユートピアの真如(しんにょ)の月を眺める宵が来るかもしれない。
 ソロモンの栄華も一輪の百合の花に及ばないという古い言葉が、今の自分には以前とは少しばかりちがった意味に聞き取られるのである。
  (昭和7年10月『中央公論』)
(『科学歳時記』寺田寅彦 角川ソフィア文庫 2020年)
昨日は、午前中から雨が降るとの天気予報でしたが、夕方近くに降り出しました。
予報が「はずれた」というより「ずれた」と思っています。
以前なら予報は午前、午後の予報ぐらいでした。
それが精度があがり、今は、1時間ごとの予報まで表示されます。
でも、自然を完全に予測することはできないと思う。
昨日もいつも定点観測のように上がっている展望台?から東の山を見た後、
西の空と山を見て、まだ降らないなと予測していました。
観天望気をする基準は西の空や雲の動きなどだと思っています。
東京電力 柏崎刈羽原発のテロ対策不備「意識の低さあった」〟(NHK 9月22日)
この体質が東日本大震災の時に福島原発事故を引き起こしたと思います。
「想定外」という都合のいいことを言っていましたが、東北地方では、何度も津波が襲ってきた。
経費削減で津波対策を甘くしていただけ。
汚染水の海への放出にしてもデーターを都合のいいように修正すると思ってしまう。
 平川克実さんのTwitterに

ペーパーなら、嵩張るとか言い訳できるかもしれないが、
デジタルデータを捨てるというのは、残っていたら都合が悪いということ以外に理由がないでしょ。
隠蔽ですよ。

音声データの廃棄、平井大臣の「脅し発言」報道後 デジタル庁説明〟(朝日新聞 9月22日)

この方も恫喝が得意?だそうですが、

対中非難決議、総裁候補3氏「採択すべき」 河野氏回答せず〟(産経新聞 9月22日)