2021年9月20日月曜日

敬老の日&彼岸の入り

今日から彼岸の入り
以前だったら休日にならないのだけど「敬老の日」と重なって来園者が多かったです。
昨日、従妹が来て墓参りに行ってきたと話していました。
まだ電車に乗るのは怖いから…
今年も四天王寺さんに墓参りをすることができないなと父や妹と話しています。
母の墓

 ゆきたしと思えど母の墓まいり  マスエ[少女] 1958

 かき抱(いだ)く墓石(ぼせき)の母よわが母よ家出(い)でしより逢へざりし母  林みち子 1967

 病(やまい)(い)えし子と遠く来しふるさとの母のみ墓に寄る波の音 城郁子 1976

 わが失明知らざりし母の墓拝む  氏原孝  1992

(『訴歌 あなたはきっと橋を渡って来てくれる』阿部正子編 皓星社 2021年)
敬老の日」ですが、もともとは

昭和26(1951)年より「としよりの日」として祝われていたのが、
昭和38年の老人福祉法の制定を機に、翌39年より「老人の日」として祝われていた。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)

そして、9月15日だったのが、2003年から9月の第3月曜日になりました。
連休にすることで国民の消費活動を促すことが目的だと思う。
そんなところに日本の老人に対する考えも出ていると思います。

養老先生、病院へ行く』に養老先生と中川先生、ヤマザキマリさんの鼎談があります。
その中からヤマザキマリさんの言葉を一部転記しますφ(..)
ヤマザキマリ
 ないですね。
それはたぶん、日本では老人たちがあまり尊敬されていないからだと思います。
イタリアの老人たちは尊敬されているんですよ。
歳をとるのは悪ではない。
決して楽ばかりとは言えない人生をよくぞここまで生きてきたという敬いがある。
(『養老先生、病院へ行く』養老孟子、中川恵一 エクスナレッジ 2021年)
うちの夫の祖母なんか、第1次大戦と第2次大戦を生き抜いて来たから、本当に尊ばれていました。
晩年は私のことを昔働いていたお手伝いさんか何かと勘違いして「ナターシャ」と呼ぶんですが(笑)、「はい、はい」とか言って、何でもお世話してました。
激しい戦火をくぐり抜けて長く生きてきた人たちは無条件で尊敬するものなのです。
 逆に日本は「姨捨て山」のメンタリティーがあるのか、老人になると若い人と接触したくなくなるじゃないですか。
家からなるべく出ないようにして、若者が行くようなところにも行こうとしなくなる。
昔の日本もそうだったのかもしれません。
私、コロナ禍で家にいる時間が長いから、昔の日本映画を無声映画の時代からずっと追っかけて観ているんですが、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)が、その過渡期なんだと思いました。
あの映画は、家族よりも世間体のほうが優位になっていく様を描いています。
あのへんの時代から、おじいちゃん、おばあちゃんが「ウザい」存在になってきたんだと思います。
(『養老先生、病院へ行く』養老孟子、中川恵一 エクスナレッジ 2021年)
(「烏瓜の花と蛾」続き)

 大きな蛾の複眼にある適当な角度で光を当ててみると気味の悪いように赤い、燐光(りんこう)に類した光を発するのがある。
なんとなく物凄(ものすご)い感じのするものである。
昔西洋の雑誌小説で蛾のお化けの出るのを読んだことがあるが、この眼玉の光りには実際多少の妖怪(ようかい)味といったようなものを帯びている。
つまり、なんとなく非現実的な色と光があるのである。
これは多少複眼の多数のレンズの作用でちょうど光り苔(ごけ)の場合と同じような反射をするせいと思われる。
(『科学歳時記』寺田寅彦 角川ソフィア文庫 2020年)
 蛾の襲撃で困った時には宅の猫を連れてくると、すぐに始末が着く。
二疋いるうち黄色い方の痩せっぽちの男猫が、他には何の能もない代りに蛾をつかまえることだけに妙を得ている。
飛上ったと思うと、もういっぺんにはたき落す。
それからさんざん玩具(おもちゃ)にした揚句に、空腹だとむしゃむしゃと喰(く)ってしまうのである。
猫の神経の働きの速さと狙いの正確さには吾々人間は到底叶(かな)わない。
猫が見たら人間のテニスやベースボールは定めて間だるっこくて滑稽(こっけい)なものだろうという気がするのである。
それで、仮りに猫の十分の一秒が人間の一秒に相当すると、猫の寿命が八年ならば人間にとっては八十年に相当する勘定になる。
どちらが長生きだかちょっと判らない。
 これは書物で読んだことだが、樫鳥(かしどり)や山鳩や山鴫(やましぎ)のような鳥類が目にも止まらぬような急速度で錯雑した樹枝の間を縫うて飛んでいくのに、決して一枚の木の葉にも翼を触れるような事はない。
これは鳥の眼の調節の速さと、その視覚に応じて反射的に行われる羽翼の筋肉の敏活を物語るものである。
もし吾々人間にこの半分の能力があれば、銀座の四つ角で自働車電車の行き違う間を、巡査やシグナルの助けを借りずとも自由自在に通過することができるにちがいない。
しかし人間にはシグナルがあり法律があり道徳があるために鳥獣の敏活さがなくても安心して生きていかれる。
そのために吾々はだんだんに鈍になり気永くなってしまったのであろう。
 しかし鳥獣を羨(うらや)んだ原始人の三つ子の心はいつまでも生き延びて現代の文明人の社会にも活動している。
蛾をはたき落す猫を羨み讃嘆(さんたん)する心がベースボールのホームランヒットに喝采(かっさい)を送る。
一片の麩(ふ)を争う池の鯉の跳躍への憧憬(どうけい)がラグビー戦の観客を吸寄せる原動力となるのであろう。
オリンピック競技では馬や羚羊(かもしか)や魚の妙技に肉薄しようという世界中の人間の努力の成果が展開されているのであろう。
 機械文明の発達は人間のこうした慾望の焔にガソリン油を注いだ。
そのガソリンは、モーターに超高速度を与えて、自動車を走らせ、飛行機を飛ばせる。
太平の夢はこれらのエンジンの騒音に攪乱(かくらん)されてしまったのである。
 交通規則や国際間の盟約が履行されている間はまだ安心であろうが、そういうものが頼みにならない日がいつ何時来るかもしれない。
その日が来るとこれらの機械的鳥獣の自由な活動が始まるであろう。
(『科学歳時記』寺田寅彦 角川ソフィア文庫 2020年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
ついこの間まで目立たなかったのにアキサンゴが鈴なりです。

サンシュユ<山茱萸> ミズキ属
別名/ハルコガネバナ・アキサンゴ 〔落葉小高木~高木〕
享保年間(1720年頃)に渡来した。高さ5~15メートルになる。
樹皮は帯褐色で鱗片状にはがれる。
葉は長さ3~10センチの卵状楕円形で、先は鋭くとがる。
裏面は有毛で、主脈の基部に褐色の毛のかたまりがある。
3月頃、葉に先立って枝一面に散形花序をつけ、黄色の小さな花を20~30個密に開く。
花序の基部に褐色の総苞片が4個ある。
花弁と雄しべは4個。
果実は長さ1.5センチの楕円形で赤く熟す。
用途:庭木、花材
分布:朝鮮・中国原産
(『日本の樹木(旧版)』林 弥栄編 山と渓谷社 1985年)