2021年9月17日金曜日

台風が接近してきている…

歩いているとしだいに雨粒が大きくなってきました。
台風14号、数日前までは温帯低気圧になるとの予報でしたが、
勢力を増して大阪に近づいている。
再発達した原因に地球の温暖化があるようです。

台風14号 あす西日本上陸へ なぜ予報は大幅に変わったのか…?」(NHK 9月16日)

15日の海面水温の状況を見ると、台風が停滞していた東シナ海付近は28度から29度ほどで平年より1度前後高くなっています。
Ⅱ 明治の東京歳時記
 野 分


 秋の台風のことを野分(のわき)という。
野分といえば『源氏物語』の一巻にもその名があり、邸の前栽の乱れたのを仕える女たちに直させている義母紫の上を、柏木が垣根の透間からのぞき見る印象的なシーンがある。
 明治二十四年九月三十日、「朝より空のけいきたゞならず。十時頃より強風大雨、誠の野分に成にけり」。
 その悪天候のさなか、一族の恥、広瀬ぶんのことで、伯父七重郎がさんざん苦労して奔走した末、最後の報告をすませて山梨に帰っていく。
ぶんは父則義の従妹に当たるが、六、七人も夫を替えたあげく、ついに美人局(つつもたせ<男が情婦に交情させて相手を恐喝すること>)まがいの事件で有罪となっていた。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
 「一時頃より風力次第に減じて二時に鎮静す」。
 差配人が大丈夫かと飛んでくるのは明治である。
江戸時代、家主は店子(たなこ)に対して無限責任を負っていた。
道路、崖、水道、建物、すべてを整え直すのは家主の当然の義務であった。
そして嫁いで近くに住んでいた久保木の姉ふじも見舞いに来る。
 「近来稀(まれ)なる大風成き。されでも吾家は山後(やまうしろ)の低所なれば、さまでつよからず。破損の場所もあらざりし」。
 本郷菊坂崖下の家にもときに長所はある。
裏山が風を防いでくれた。
女三人が肩を寄せあって暮らすにはふさわしかろう。
屋根がとび、塀がくずれ、所によっては丸つぶれの家もあったらしい。
束石(つかいし)の上に軽やかに乗っている木と紙でできた家なのだった。
 本郷や小石川の台地を一葉は「山」と書く。
低地は田圃であって、台地上の武家屋敷のあとには桑畑茶畑、樹も多かった。
「にごりえ」で、銘酒屋の並ぶ新開の町はずれに住む源七の女房お初は、一人息子太吉の帰りが遅いのを「お寺の山へでも行(ゆき)はしないか」と心配する。
菊の井のお力と源七が心中する前に「お寺の山で二人で立ばなしをして居た」とも出てくる。
東京はまだまだ町というより里山のある村の風景を残していた。
 台風一過の空はよく晴れておだやか、この日は興奮さめやらず、夜中まで歌の勉強をした。
 翌早朝、一葉は安藤坂の師中島歌子のところへ野分見舞いに行く。
「路次の樹木塀垣などの仆(たお)れたるいとおびたゞし」。
師の家では植え替えたばかりの木が二、三本たおれたくらいであった。
 翌十月二日、暴風雨が農作物に与えた被害により、野菜がひどく値上がっている、との記事を書きとめている。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
9月16日の岩波書店のTwitterに

今日は大杉栄と伊藤野枝の命日(1923年)。
甘粕事件で、甘粕正彦
らによって扼殺されました。
瀬戸内寂聴さんが、パートナーとして深く結びついた二人の生と闘いの軌跡、そして、彼らをめぐる人々のその後を描いた評伝。


瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』
今月の100分de名著は、「群衆心理 ル・ボン」。
何故、アメリカで群衆が暴徒化したのかを考えるのに、1895年に初版が出たこの本が解く鍵を与えてくれている。

これまで、関東大震災について芥川龍之介、寺田寅彦の随筆を転記しました。
関東大震災では朝鮮人が暴徒化しているとの流言・蜚語が流布されて多くの人々が虐殺されました。
その時、朝鮮人だけでなく地方出身も方言の訛によって殺されたこともあるようです。
そして時の権力者たちにとって都合の悪い、大杉栄、伊藤野枝もこの混乱に乗じて甘粕正彦(あまかすまさひこ)らによって扼殺(やくさつ)されました(甘粕事件)。
芥川龍之介の「大震災に際して」の中で菊池寛は「(まゆ)を挙げながら、『嘘だよ、君』と一喝し」ています。
そして寺田寅彦は「震災日記より」で「自分はその説は信ぜられなかった」と断言しています。

今回は、寺田寅彦の「流言蜚語(りゅうげんひご)」を紹介したいと思います。
 流言蜚語(りゅうげんひご)

 長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播(でんぱ)していく、伝播の速度が急激に増加し、ついにいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行していく。
これはよく知られた事である。
(『銀座アルプス』寺田寅彦 角川文庫 2020年)
 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。
もっとも火花のすぐそばで、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。
  流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事はもちろんであるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。
したがっていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
 それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少くも半分は市民自身が負わなければならない。
事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。
なんとならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到るところに発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。
そうしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。
もしもその町内の親爺株(おやじかぶ)の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう。
これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。
それは、このような明白な事実を確実に知っている人がいかに少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。
その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。
そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。
そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。
この問題に的確に答えるためには、もちろんまず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。
しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それがいかに多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。
いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。
そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。
何百人、あるいは何千人の暴徒にいちいち部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。
これがなかなか時間を要する仕事である。
さてそれができたとする。
そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所(ありか)を捜して歩かなければならない。
井戸を見つけて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。
しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。
そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。
考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
 こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまではいかなくとも、少くもめいめいの自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
 爆弾の話にしても同様である。
市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少くも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 もっとも、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。
それはそうかもしれない。
そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、何も、天王星(てんのうせい)の距離を暗記していたり、ヴィタミンのいろいろな種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。
もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 もちろん、常識の判断はあてにならない事が多い。
科学的常識はなおさらである。
しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察(せいさつ)の機会と余裕」を与える。
そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱めなければならない。
たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としてのはなはだしい恥辱を曝(さら)す事なく済みはしないかと思われるのである。
   (大正13年9月『東京日日新聞』)
(『銀座アルプス』寺田寅彦 角川文庫 2020年)
 今朝の父の一枚です(^_^)v
サクラが咲いているのを発見しました。
よくこの時期に咲くのを「狂い咲き」なんて失礼な言い方をしますが、
サクラは春にさくものと決めているのは日本だけかも…

1章 サクラの来た道 サクラは本来秋に咲いた
 九 仮説・秋に咲くサクラの品種は先祖返りか

……前略……
 日本のサクラは間違いなく春に咲くものです。
しかし、遠い昔、秋に咲いていた先祖の性質が花の時期を間違えたかのように、突然ある枝の一部に、秋咲きの性の遺伝子が表に現われたものと思われます。
サクラはもともとネパールやブータン地方を原点として、北上進化する過程で少しずつ変化し、とくに四季の変化のはっきりした日本列島では、いろんなサクラに分化した。
つまり秋に咲く性質を「休眠」と云う性質に変えて、適応し生きのびて来たものと考えられます。
……後略……
(『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜―』染郷正孝 信山社 2000年)

発病前、奈良を歩いていて甘樫丘ヒマラヤザクラに出会いました。
ヒマラヤでも桜が咲くんだとビックリしましたが、桜の故郷だった。