2019年2月21日木曜日

空が暗いけど…

ここ二日お休みしていたのは
火曜日が雨で、昨日は父の歯科への送迎でした。
雨の日は、図書館へ資料集めに行っていましたが
インフルエンザの流行がおさまっていなので人込みを避けています。
インフルエンザ流行レベルマップ」(国立感染症研究所)
歴史秘話ヒストリア「プロが選ぶ!日本を変えた室町三大事件
を見ていると最近、室町時代の本が人気なんだそうです(^_-)
番組に出演されていた呉座勇一氏の著書より保元の乱について
崇徳と頼長に謀反の意思はなかった

(…略…)

 実のところ、崇徳にはあわてて挙兵する動機がない。
王家の嫡流であった崇徳と異なり、
崇徳の弟である後白河は皇位継承者と周囲からみなされていなかった。
後白河本人もそのことを自覚していたようで、
当時流行していた俗謡である「今様(いまよう)」に熱中して、
鳥羽法皇や公家たちを呆(あき)れさせた。
和歌に優れた崇徳とは対照的と言える。
美福門院(びふくもんいん)・信西(しんぜい)らの後白河擁立は相当に強引なものだった。
教養が乏しく中継ぎの天皇にすぎない後白河に王者の威厳はなく、
公家たちは先行きを不安視した。
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)
 美福門院も中級貴族出身の身分の低い女性であり、
近衛・鳥羽が亡くなった今となっては、その権威に翳(かげ)りが生じていた。
藤原忠通にしても、鳥羽の後援で関白の地位を保っていただけで、
摂関家の財力と武力は弟の頼長に握られていた。
鳥羽の威光を笠(かさ)に権勢をふるった側近たちについては言わずもがなである。
鳥羽の死によって、後白河―美福門院―藤原忠通ら朝廷の主流派は
一転して窮地に陥ったのである。
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)
 豊臣秀吉死後、石田三成ら五奉行が次第に権力を失ったことからも分かるように、
鳥羽という後ろ盾を失った後白河らの権力が漸次衰えていくのは明白であり、
崇徳や頼長が事を急ぐ必要はない。
後白河の失政を待って返り咲けば良いのである。
元木泰雄(もときやすお)氏が指摘したように、
正統な皇位継承者である守仁(もりひと)親王に万一のことがあれば、
重仁(しげひと)親王が即位し、
重仁の父である崇徳上皇による院政が開始されることもあり得たのである。
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)

・元木泰雄『保元・平治の乱』角川ソフィア文庫、2012年
 したがって、政変を仕掛ける動機は崇徳側よりも、むしろ後白河側にある。
橋本義彦(はしもとよしひこ)氏は、
後白河陣営が武士たちを動員した上で崇徳・頼長に謀反の嫌疑をかけ、
彼らを挙兵へと追い込んだと論じた。
現在の学界では、基本的には橋本説に沿って保元の乱を把握している。
要するに、保元の乱を起こしたのは崇徳側ではなく、
国家権力を掌握していた後白河側であると考えられているのだ。
(…略…)
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)

・橋本義彦『藤原頼長』吉川弘文館、1988年
2月16日の記事で後白河は崇徳上皇の怨霊に怯えたことを転記しました。
竹内理三氏の著書より崇徳上皇の怨霊について書かれていたのを転記しますφ(..)
崇徳上皇と頼長の怨霊
 頼長(よりなが)は瀕死の傷を負いながら戦場をのがれて奈良におもむき、
一足さきに逃避していた父忠実(ただざね)に会おうとしたが、
忠実は累のわが身におよぶことを恐れ、関知せずと称して拒絶した。
頼長はその夜は重傷に苦しみ明かして翌日没した。
かれの無念のほどが察せられる。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
 崇徳上皇のばあいは頼長以上のものであったことはいうまでもない。
『保元物語』に、上皇は五部大乗経(ごぶだいじょうきょう)を血書し、
「われ日本国の大魔王となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と誓ったといい、
1164年(長寛2)8月26日、上皇が崩ぜられて火葬したとき、
その烟(けむり)は都のほうへとなびいたという。
讃岐で崩ぜられたので讃岐院という。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
 崇徳上皇が讃岐の配所で崩ぜられたのち、ほどなく政情不安や貴人の死去がつづいた。
人々はこれを頼長や上皇の怨霊の祟(たた)りとして恐れはじめた。
ことに1177年(治承1)には、4月から延暦寺衆徒の強訴(ごうそ)がおこって半年以上も都をさわがし、
4月28日には宵の口の午後8時ごろ、富小路(とみのこおうじ)のある病人の家から出火し、
おりからの大風にあおられて火は大内裏におよび、都の三分の一を失った。
都はじまって以来の大火であった。
ときの高倉天皇は火をさけて権大納言藤原邦綱(くにつな)の正親町(おおぎまち)邸に幸した。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
 鴨長明は、そのときの恐ろしさを『方丈記』に生々しく書き残し、
右大臣藤原兼実(かねざね)は政治の担当者らしい感想をその日記『玉葉(ぎょくよう)』にもらした。
「五条より南におこった火が八省諸司におよんだことは、 未曽有(みぞう)のことだ。
 このように延焼するのはただごとではあるまい。
 火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことにこれ乱世のいたりだ。
 人力およぶところではない」
  5月には妖星(ようせい)があらわれた。
天文博士の調べによると、これは後漢の霊帝(れいてい)のときあらわれたもので、
そのとき天下大いに乱れ、ついに後漢は滅んだという。
これをきいた兼実は、
「世間のありさまは後漢の末によく似ている。
 このときにこの異変がある。たいへん興味あることだ」
とその日記に記している。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
 このような異変は上皇と頼長の怨霊によるものであるとした朝廷は、
7月29日、上皇に崇徳院の号を奉り、頼長には正一位太政大臣をおくった。
さらに保元の乱のときの上皇や頼長にかんする宣命(せんみょう)を焼き棄て、
ついに年号を治承(じしょう)元年とあらためた。
 そして1184年(寿永3)4月、上皇と頼長とを祭神とする霊社を
保元の乱の古戦場春日原(かすがはら)の御所跡に建てた。
この社は粟田宮(あわたのみや)とよばれ、朝野の崇敬をうけた。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
 崇徳上皇については、さらに京都市上京区今出川油小路に
白峰宮(しらみねのみや)が建立された。
この宮は1866年(慶応2)に孝明(こうめい)天皇が造営をくわだて、
明治天皇がその遺志をついで、即位の翌日、
勅使を讃岐の崇徳上皇陵に派遣して霊をうつしたものである。
そのおもてむきの理由は、『今鏡』に上皇が、
「絶えたるをつぎ、古き跡を興そうと思(おぼ)した」とあることから、
王政復古にさいして上皇への追慕を新たにすることであった。
しかし明治6年には廃帝淳仁(じゅんにん)天皇を合祀したところを見ると、
怨霊をしずめるためであることは明らかである。
わたくしは崇徳上皇の怨霊のあとをたずね、
明治の世にもなおこのようなことが行われていたことに驚きを禁じえなかった。
(『日本の歴史6 武士の登場(単行本)』
  竹内理三 中央公論社 昭和40年)
積善院準提堂(しゃくぜんじゅんていどう)の崇徳院地蔵は、
別名、人食い地蔵とも呼ばれています。
2014年8月31日の記事) 
安井金比羅宮の近くに「崇徳天皇御廟」があります。
2016年6月30日の記事
崇徳天皇は安井金比羅宮の祭神です。
今朝の父の一枚です。
先日、出会ったときに食べさせるものがなかったので
コーヒータイムのクッキーを残していました。
母と、座っていたベンチで待っているとやって来たそうです(^。^)