2019年2月22日金曜日

歩いているうちに…

 今朝も曇り空で青空が見たいなと思っていると
歩いているうちに晴れてくれました(^。^)
露出をうまく合わせられなかったのですが
シジュウカラの朝ごはんはカメムシのようです。
絶版になっている本ですが
分かりやすくて面白かったので転記したいと思いますφ(..)
   平清盛と後白河法皇

 思いがけない事情から一人の親王(しんのう)が即位した。
当時29歳の後白河(ごしらかわ)天皇である。
(みかど)の器(うつわ)にあらず、と言われ、
(ひ)の当たらぬ場所にいた男には望外(ぼうがい)のことであった。
しかし気ままな生活を送っていた貴公子は、
相変わらず遊芸と仏事に明け暮れ、遊び仲間を重用して、
側近の切れ者信西(しんぜい)に「比類なき暗主」とそしられる有様であった。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 一方、平清盛はこのとき38歳。
12歳で任官以来、比較的平穏な前半生を過ごし、
このままいけば院政(いんせい)の盾(たて)として、
一介の武士の棟梁(とうりょう)で生涯を終えたであろう。
しかし、さまざまな対立関係から起こった保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱は、
清盛の前に思わぬ活躍の舞台を与えることになった。
 かくして平安末期の社会は、武家の実力者清盛と、
しだいに老獪(ろうかい)な政治家に変身する後白河の二人を軸として転回していく。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
平治合戦図」(東京国立博物館)

平治合戦図
 狩野友信(かのうとものぶ)筆。
保元の乱につづいて起こった平治の乱は、
清盛の政治勢力を飛躍的に増大させた。
もはや武士の力を頼ってしか己の運命を開きえなくなった貴族たちが、
逃げまどいつつ炎の中で見たものは何であったろうか。
それは貴族社会の終末の姿と、
きたるべき社会への不安の幻影ではなかったか。
(東京国立博物館蔵)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
●後白河天皇の即位
 後白河(ごしらかわ)天皇の即位は、偶然のことから実現された。
すなわち、久寿(きゅじゅ)2年(1155)7月、
近衛(このえ)天皇が崩御(ほうぎょ)したと異母兄の前帝崇徳上皇は
当然わが子(重仁 しげひと 親王)を皇位につかせようとした。
だが、鳥羽上皇は、寵妃(ちょうひ)美福門院(びふくもんいん)
関白藤原忠通(ただみち)の推す
孫の守仁(もりひと)親王(のちの二条天皇)を次の天皇にと考えていた。
崇徳は表向き鳥羽の第一皇子となっていたが、その実、
祖父白河院が鳥羽帝の中宮待賢門院(たいけんもんいん)
産ませた子であるとのうわさがあったから、
鳥羽が崇徳とその子を嫌うのは当然であった。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 しかし、問題は思わぬ方向に展開した。
守仁親王を皇位に立てるなら、
その前に父親の雅仁(まさひと)親王を一時的にせよ立てるべきだとの論が、
雅仁の乳母(めのと)およびその夫の信西から出たからである。
かくして雅仁親王が即位した。
すなわち後白河天皇である。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
対談
大原富枝
(おおはらとみえ)
 後白河院についてはいろいろの評判があるわけですけれども、
先生ご自身は、どんなふうにお考えでいらっしゃいますか。

竹内理三(たけうちりぞう)
 この後白河というのは一番むずかしい人物ですね。
日本史の上でいろいろな有名な人物がおりますが、
一番まだ研究の行き届かないのが後白河院ですね。
非常におもしろい人物だと思います。

大原 そう、私も思います。

竹内
 院すなわち上皇になる前は天皇ですが、
ご本人にとっても思いもよらぬ出来事らしかったのですね。
後白河のお父さんが鳥羽上皇だったわけです。
おやじさんからあいつは天皇になる資格はないんだと
いうふうに言われていた人が天皇になったわけですが、
さてどうなんでしょうかね。
後白河院というのはその当時の評判は、
あんまりかんばしくないですね。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 帝位がまわって来たというのは、
後白河の子供を帝位につけるために、
まずその父親を天皇にしなければということなんでしょうか。

竹内
 ええ、そういうことになっているようですね。
鳥羽上皇がほんとうに帝位につけたかったのは、二条天皇ですね。
二条天皇は若くてなくなられたんだけれども、
やっぱり鳥羽上皇が眼(め)をつけるだけあって、
一種の才物と言いますか、
まあ二条天皇を悪くいう人はあまりいないですね。

大原
 そうですね、若くてなくなったせいもあるでしょうが。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 しかし、とにかく後白河というのは、
二条天皇が早くなくなったせいもあるかもしれませんが、
院政を34年もやっていますね。
しかもその院政をやっている最中、まずは平清盛、
その次は木曽義仲(きそよしなか)、その次は源頼朝、
この歴史上の大人物を相手にして一応知恵を張り合ったという、
あの力量はすごいですね。
 また、後白河は若い時分から、
当時の流行歌に当たる今様(いまよう)
徹夜して声が出なくなるほど一生懸命やっていますが、
とにかく不思議な人物だと思いますね。
先生のほうからはいかがでしょうか。

大原 そうでございますね。
この人は、ああいうふうに帝位につくとか、
院政を執(と)り行うというような立場にならなければ、
今様(いまよう)の研究家、あるいは作詞家などになって、
のんびりと、大層思いのままの生涯を送れたのではないかと思います。

竹内 そうかもしれませんね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 それがめぐりあわせで、大人物たちを相手にすることになりましたね。
だから定見(ていけん)というふうなものはあまりないのですけれども、
ともかく宮廷の勢力を自分で維持していくために、
その場その場でうまく切り抜けて来ておりますね。
そういうところが、やはり今様を作る人の人生の送り方を似通っている、
そこに共通点があるのではないかと思います。

竹内
 なるほど、そういうことになりますね。
まあ後白河は政治面方面はともかく、非常に芸人ですね。
舞楽(ぶがく)にも造詣(ぞうけい)が深く、絵巻物も作らせています。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 そういう方面にかけては、なかなか創造力のある人ですね。
それを精一杯、政治にも使ってみた、
というふうにみえるのですけれども、
おもしろいことは、ほんとうにおもしろい人だと思います。

竹内
 清盛とか頼朝はいろいろ研究がありますけど、
後白河はあまりないですね、
先生あたり、ひとつ小説でどうでしょうか。(笑い)

大原
 いえいえ、井上靖(やすし)先生が『後白河院』をお書きになりましたね。
ほんとうに井上先生もあのときにご苦労をなさったらしくて、
雑誌連載のあと単行本になさる前に、
ずいぶんお直しになったようです。

竹内 そうですか。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 それで前よりもずうっとよくなったと、
山本健吉氏もどこかで書いていらしたと思いますが、
しかし、後白河を真正面からみるのではなくて、
いろいろな脇からの人物をとおしてみた後白河を描いて、
そしてそこに一つの人間像が浮かび上がって来るのを、
おのずから待つというふうな書き方をなさっていますね。
ですから、読む人によってどういうイメージをそこに結び上げてもいい、
結び上げることが可能だというような形でお出しになった。
そういうことは大変適切なやり方であるかもしれないけれども、
ある意味では、
いかに後白河という人物がつかみにくい人物であるかということの証拠であると思うのです。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 しかしああいう転換期に、後白河のような人が、
いわゆる天皇方のトップにいたということは、
結局はよかったのでしょうね。
鎌倉時代の後鳥羽院みたいな宮廷復興の夢をもった切れ者が、
あの時期におったら、これはまた日本、
どんな変わり方をしているか、ちょっとわかりませんね。
まあ日本はともかく、われわれ人民どもがどういうふうになっているか、
わからないと思いますね。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
今朝の父の一枚です。
今日は、野鳥に会えても写す前に飛んで行ったり
ヒヨドリも来てくれなかったと残念がっていました。
父は子どもたちの姿をよく撮影しています(^。^)
 二冊購入しました(^^)/
ベイリーとさっちゃん』と『ベイリー、大好き
先日紹介した番組「ベイリーとゆいちゃん」を見て調べると
ベイリーの本が数冊出ていました。
来週、2月27日(水)午前0時40分~(26日火曜日深夜)
に再放送があります。
認定NPO法人シャイン・オン・キッズのTwitterに
ファシリティドッグ予習集」がアップされています。
Twitterを見ることができない人はYouTubeで見ることができます。
ファシリティドッグ・プログラムについて - 神奈川県立こども医療センター編 」等