2019年2月23日土曜日

ころころ変わる天気に…

今朝は昨日と違って青空だと思っていると
急に黒い雲が空を覆い今にも雨が降り出しそう…
途中で父からの電話
というのも布団などを干してから出てきたからです(^-^;
途中でまた青空が見えたと思ったら黒い雲…
ころころ変わる天気なので早めに帰ることにしました。
昨日の続き、大原 富枝さんと竹内理三さんの対談などを転記しますφ(..)
平清盛の登場
 保元(ほうげん)元年(1156)7月、鳥羽上皇が崩御すると、
先の皇位継承(けいしょう)問題で恨(うら)みをのんだ崇徳上皇と、
後白河天皇との対立は一挙に表面化した。
天皇側では、関白藤原忠通(ただみち)と美福門院(びふくもんいん)を中心に
平清盛、源義朝(よしとも)の軍勢を集めて乱に備え、
一方、上皇側では、兄忠通と争っていた藤原頼長(よりなが)を中心に
源為義(ためよし)・為朝(ためとも)父子、
平家弘(いえひろ)、平忠正(ただまさ)らが集結した。
両軍の衝突は同月11日の夜明けに始まり、
わずか半日で清盛の味方する後白河天皇方の勝利に終わった(保元の乱)。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 さらに平治元年(1159)12月9日には、
実力者として抬頭(たいとう)してきた後白河の近臣の信西(しんぜい)に対して、
これに恨みをもつ同じ近臣の藤原信頼(のぶより)が源義朝を語らってクーデターを決行した。
信西は首を打ち取られたが、熊野詣(くまのもうで)の途中で京を留守にしていた清盛が、
ただちに引き返して信頼方を討った(平治の乱)。
 清盛、このとき42歳。
二度の争乱を収めた褒賞(ほうしょう)は大きかった。
翌年6月には正三位(しょうさんみ)に叙せられ、
8月には参議(さんぎ)にのぼって公卿(くぎょう)に列した。
これを機に、清盛は権力者への道を歩みはじめるのである。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内理三
 後白河は一種の才人であったような人だけれども、
才人といえばこの時代に活躍した藤原頼長(ふじわらのよりなが)といい、
信西(しんぜい)といい、あるいは藤原忠通(ただみち)といい、やはり才人ですね。
書のほうにも、歌のほうにもなかなか才人が揃っており、
その上に後白河がいたということは、
朝廷側にとっては、結果としてはよかったような気がしますね。
保元・平治という二つの乱は起こったが、
いずれも、大動乱にはならなかった。

大原富枝 そうですね。
後白河のように、ぬらりくらりやっているところが、
案外よかったのかもしれませんね。

竹内 ほんとうにのらりくらりだ。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 こうした態度が案外この時代の方向を、
ある意味では融通性のあるものとしていたと言えるのだろうと思います。
だからわたくしあんまりこの人、嫌いではございません。
清盛にいくと、もうちょっと好きということが言えると思います。

竹内
 清盛という人、非常に好人物ではないかと思いますね。
孫の安徳(あんとく)天皇をあやして、
安徳天皇が障子につばをつけて穴をあけたら大変喜んで、
「この障子は倉の中にしまっておけ」
なんて言いつけたなどというのは、
ほんとうに好々爺(こうこうや)そのものですね。
清盛という人は、人のいい人じゃあなかったかと思いますね。

大原 そうだと思います。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 だから平治(へいじ)の乱後にも頼朝を殺さないで助け、
それで結局えらい目にあってしまうなんていうことになるんですね。

大原 清盛には、わたくしの好きな男性像があるのですね。

竹内 どういう点ですか。

大原 それは、妙な意味でめめしいものがないんですね。
やはり女の好む男ですよ。

竹内 じゃあ、ぼくも少し清盛を見習おうかな。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 やはり男にあってはいやだ、
というようなものがあまりないひとではないかというふうに思うのです。
たとえば信西なんかも才人で、
忠通なんていう人もやはりなかなか切れ者で、
やり手でもあったでしょうけれども、
一方では何かいやなものがあったのではないかと思います。
清盛は、そういう点なにかスカッとして、
わたくしは『平家物語』でほめられている長男の重盛なんかよりもはるかに好きです。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
後白河法皇像
 するどい眼光、高い頬骨。
数珠を手にした法体(ほったい)像ではあるが、
平清盛、木曾義仲、源頼朝など武士の大立者(おおだてもの)
相手にして生き抜いてきた君主後白河の、老獪(ろうかい)さがしのばれよう。
この像は秘仏とされ、毎年4月13日の法皇忌(き)にのみ公開される。
(長講堂 ちょうこうどう 蔵)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)

画像は以下の記事などを参照してください。
後白河法皇像 底部に墨書 運慶の子孫記す? 京都・長講堂
  (朝日新聞2012年10月24日)
後白河法皇の奉納経
 紺紙(こんし)に金字でかかれた一切経(いっさいきょう)で、
神護寺(じんごじ)経とよばれている。
鳥羽天皇の勅願(ちょくがん)により、後白河法皇が寄進したもので、
経帙(きょうちつ)には久安5年(1149)4月の銘がある。(神護寺蔵)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)

画像は以下のサイトなどを参照してください。
大般若経 巻第三百四十五(神護寺経)」(奈良国立博物館)
今朝の父の一枚です。
ジョウビタキが階段を上がっていくみたいですね(^。^)

明日、早朝ですがEテレ午前5時から
こころの時代~宗教・人生~「命の輝きをうつす」
映像作家の保山耕一さんが出演されます。
再放送は3月2日(土)午後1時から
Facebookで保山さんの作品を見ることができなす。
YouTubeでも「奈良、時の雫」を見ることができます。