2019年2月27日水曜日

日差しがないと…

今朝は曇り空で寒かったです…
それでも歩いているうちに温まってきました(^^)v
ベイリーとゆいちゃん」を録画できましたか?
今回は速報が入らなかったのでよかったです(^^)v
復習用にこんな記事があります。
犬が子どもたちを変える  ―全国にたった2頭、医療現場ではたらくファシリティドッグ―

テレビ朝日「テレメンタリー」で2012年2月27日に放送されていた番組がありました。
ベイリーが活動を始めて間もなくの頃を紹介していました。
最初は静岡県立こども病院に勤務していました。
ベイリー、大好き』に当時のことが紹介されています。
大嘗祭について転記しますφ(..)
近世の大嘗祭復興
 1615(元和元)年の武家諸法度・禁中並公家諸法度を経て
3代将軍徳川家光までの武断政治にとってかわって、
5代綱吉政権以降は文治政治へと転換する。
いわば「弓馬の道」よりも平和の時代になり、
「忠孝・礼儀」が重んじられ、
学問や宗教そして朝廷が尊重されるようになり、
朝幕一体となった協調体制が成立する。
綱吉の時代には元禄の山稜修補が始まり、
79(延宝7)年には石清水放生会が214年ぶりに、
94(元禄7)年には賀茂社の葵祭も192年ぶりに再興される。
こうした一連の朝儀復興のなかで221年ぶりの87(貞享4)年に大嘗祭が復興される。
古代・中世の大嘗祭とは断絶した、新たな近世の大嘗祭の登場である。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
朝廷の側からみれば、大嘗祭復興への霊元(れいげん)上皇の働きかけがあったし、
賀茂祭復興には賀茂社の社家の運動もあった。
また綱吉政権においては、東大寺の大仏殿が再興され、
服忌令(ぶっきれい)の制定(1684、1736年)により貴族社会にあった死穢が、
戦国期にはそれを厭わなかった江戸城の武家社会にも入ってくる。
また8代吉宗の1738(元文3)年には、
一代途絶えた大嘗祭を再び桜町(さくらまち)天皇のときに再興する。
ここには朝儀を復興させて、将軍権力を補強しようとする意図が見てとれる。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 近世の即位式・大嘗祭の特色の第1は、即位灌頂、即位式、
そして冬祭としての大嘗祭、
春祭としての後七日御修法(ごしちにちのみずほう)
代始めの大(太)元帥法(だいげんほう)といった一連の儀式の流れが、
全体として神仏習合的な儀式であった点にある。
そして即位式における即位灌頂は
1847(弘化4)年の孝明(こうめい)天皇の代まで行われる。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 第2は、山県大弐(やまがただいに)が、
「禁裏行幸もこれ無く囚れ同前」と評したように
天皇は1626(寛永3)年の二条城行幸以来、
1863(文久3)年の孝明天皇の賀茂社行幸まで、
禁裏の火災を除いて行幸が禁止された。
したがって、賀茂川への禊行幸は禁止された。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
第3は、卜定(ぼくじょう)により決められる悠紀・主基国は、
1687~1848(貞享4~嘉永元)年を通じて、
常に丹波国と近江国とに固定されていた。
両国はもっとも近い畿外の国であり、
斎田(さいでん)は京都御所から約30km以内の
禁裏御料・仙洞御料・公家領あるいは京都代官所支配の村々に限られていた。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
第4は、幕府の強い統制下に置かれていた点である。
第5は、近世朝廷のあり方とかかわって、
畿内の朝廷の所領から即位式・大嘗祭に必要な品々が献納され、
労働力が提供された点である。
たとえば1848年の大嘗祭では、
禁裏御料山科(やましな)郷からはさまざまな寸法の竹が7406本・松174本など、
宇治田原郷からは杉1200本余が献納された。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
五条坂にある「若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)」に
 「孝明天皇御胞衣埋納所(こうめいてんのうおんえなまいのうしょ)」があります。
2015年7月23日の記事
今朝の父の一枚です(^^)v
父はシジュウカラの他にジョウビタキやコゲラにも会っていました。