2019年2月18日月曜日

霜の朝

今朝は青空が広がり霜も降りていました。
今までの方が寒かったのですが
霜が見られなかったのは、風が吹いていたからだと思います。
2月16日の記事
後白河天皇が崇徳天皇の怨霊に怯えたことを引用しましたが
崇徳天皇と後白河天皇について
『朝日 日本歴史人物事典』より転記すると
崇徳天皇(すとくてんのう)
元永2.5.28(1119.7.7)~長寛2.8.26(1164.9.14)
 平安後期の天皇。諱(いみな)は顕仁。鳥羽天皇の第1皇子。
母は待賢門院璋子。
保安4(1123)年父鳥羽天皇の譲りを受けて5歳で践祚(せんそ)
この即位は当時院政主であった曾祖父白河法皇の意によるものであるが、
崇徳天皇は実は白河法皇が自分の猶子(ゆうし)である璋子に生ませた子で、
鳥羽上皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んでいた、
との巷説(こうせつ)もある(『古事談』)。
初め法皇の執政下でその庇護のもとにあったが、
大治4(1129)年法皇が崩じて
鳥羽上皇の院政が始まると情勢は一変して厳しくなり、
保延6(1140)年源雅定左大将着任をめぐって上皇と対立。
翌永治1(1141)年鳥羽上皇の意思により
寵妃美福門院所生の異母弟
体人(なりひと)親王(近衛天皇)に皇位を譲らざるを得なくなった。
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
  譲位後は新院と呼ばれ本院鳥羽との対立が激化、
そのようななかで近衛天皇が久寿2(1155)年に17歳で急逝すると、
崇徳上皇はわが子重仁親王の即位に望みをかけた。
が、結局同母弟の雅仁親王(後白河天皇)が即位し、
その子守仁親王が立太子するにおよんでその願いも空しく破れた。
次いで翌保元1(1156)年鳥羽法皇の死去を機に、
当時摂関家で政界から疎外されていた左大臣藤原頼長と共に
源為義、平忠正らを召集して挙兵するに至った(保元の乱)。
しかし天皇側に敗れ、配所讃岐国にて失意のうちに崩じた。
ために世に讃岐院と呼ばれ、
また天皇の火葬所が山稜とされた(白峯陵)。
崇徳上皇の配所での生活は様々な説話集にみえるが、
『吉記』にも「五部大乗経」を血書した由が記されている。
死後怨霊として世人に恐れられ、為政者はその慰撫に努めた。
すなわち治承1(1177)年崇徳院の諡号(しごう)を贈り、
さらに保元の戦場跡には粟田宮を建立した。
和歌に秀で、『詞花和歌集』編纂を命じており、
もとより風雅を愛する繊細な人物であったように思われる。
   (木村真美子)
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
後白河天皇(ごしらかわてんのう)
大治2.9.11(1127.10.18)~建久3.3.13(1192.4.26)
 平安末期の天皇。
鳥羽天皇と待賢門院との間に第4皇子として生まれ、
保延5(1139)年に元服したが、
皇位継承の可能性はなく、今様に明け暮れ始める。
著作『梁塵秘抄口伝集』は
「十余歳の時より今に至る迄、今様を好みて怠る事なし」と記す。
「国々の上手はいはず、今様をうたふ者」と広く今様を通じて交流した。
そのなかで皇位継承を考えたのが
「和漢の間に比類なき暗主なり」と評した乳父の藤原信西である。
近衛天皇が亡くなると、「即位の器量にはあらず」という評判をはねのけ、
久寿2(1155)年7月に位につけた。
翌年7月に鳥羽法皇が亡くなると、
保元の乱により崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り、
その立場は不動のものとなった。
乱後、意欲的な政策が展開されたが、
これらに直接にかかわった形跡はなく、
信西が宣旨(せんじ)、綸旨(りんじ)を利用して思うがままの政治を行った。
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
 保元3(1158)年に退位して、子の二条天皇に譲位。
上皇として院政を開始するが、
のちに院近臣(きんしん)の藤原信頼を寵愛したことから近臣間の争いが生じ、
平治の乱が起きて信西を失い、
平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められた。
多年の宿願であった観音一千一体の蓮華王院の造営が清盛の尽力でなり、
清盛の義妹(建春門院)を寵愛するなか、
平氏と結んで政界は安定した。
嘉応1(1169)年出家して法皇となる。
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
だが建春門院が安元2(1176)年に亡くなると、
政治的な安定は終わって、
近臣と平氏の争いが激化し、
治承1(1177)年には鹿ヶ谷(ししがだに)の事件が起き、
3年には清盛のクーデタが起きている。
しかし清盛が後白河を鳥羽殿に押し込め、
安徳天皇の即位を強行したことは平氏の大きな失敗となった。
出家前から袈裟を着て、護摩たくなど、仏法に帰依していた法皇を
退けたことは平氏を仏敵となしてしまい、
安徳天皇の即位は他の皇統に繋がる人々の反発を買った。
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
4年5月の以仁王(もちひとおう)の反乱はそのふたつを根拠として起こされた。
この失敗に気づいた平氏は、
高倉上皇が亡くなった5年1月に後白河院政の復活を望み、
法皇を正面に押し立てて諸国の反乱に対処するよに至った。
同じくその存在に着目した源頼朝も、
以仁王に代わる朝威をもたらす存在として接近を図った。
後白河自身に政治的な統合の意思があったわけではないが、
様々な勢力が接近を求めてきてそこに新たな時代が生まれた。
   (五味文彦)
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
                  新院御製(崇徳院)

①瀬の流れが早いので。
②岩にせき止められる。
③激流のように。上句は下句の序。
④⑤別れても、最後には逢いたいと思う。
(『王朝秀歌選』樋口芳麻呂校注 岩波文庫 1983年)
尋ねつる花の辺りになりにけり にほふにしるしの春の山風
                        崇徳院

近衛殿から帰られた日、遠くの山の花を尋ねるという題で詠んだ歌。
④⑤春の山風が花の香でにおうのではっきり知られる。
(『王朝秀歌選』樋口芳麻呂校注 岩波文庫 1983年)
父は、カワセミを写せたので喜んでいました。
その写真もプリントしてあげたのですが、
僕的には馴れ馴れしく近づいてきたヒヨドリの写真を見ると
舌が見えているのが気に入りました(^_-)