2019年2月26日火曜日

風は冷たいけど…

日影を歩くと風が冷たいけど
日向を歩くと春がそこまで来ていることを感じます(^。^)
昭和11年の今日、二・二六事件。
日本文学振興会のつぶやき
吉川英治のが書き残したものが紹介されています。

六波羅という土地」の続きを転記しますφ(..)
 清盛の生母については不明の点が多く、
幾つかの伝承が残されているが、
その中で、祇園女御(ぎおんにょうご)説、
あるいは、その妹説が有名である。
 祇園女御説をとる『平家物語』によれば、
白河院(後白河の曽祖父)がある夜、女御のもとを訪れたおり、
鬼と見まがう人影を見かけたが、
平忠盛(ただもり 正盛の子)がこれを手取りにしたので、
その褒賞(ほうしょう)として最愛の女御を下された。
女御はこのとき白河院の胤(たね)を宿しており、
それが清盛であった、といのである。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 一方、祇園女御の妹説は、
滋賀県の胡宮(このみや)神社に伝わる
「仏舎利相承系図(ぶっしゃりそうしょうけいず)」によるものである。
ここでは、白河院の寵(ちょう)を受け、
忠盛に下されて清盛を産んだのは祇園女御の妹であるとされている。
いずれにしろ、清盛の異例とも思える昇進ぶりと考え合わせると、
清盛の白河院御落胤(ごらくいん)説は、捨てがたい力をもっている。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)

・「胡宮神社社務所庭園」(文化遺産オンライン)
竹内理三
 清盛の生母かどうかという問題がある
祇園女御(ぎおんのにょうご)の「祇園」についてですが、
祇園からはもう鳥辺野だったのですね。
あそこも鳥辺野の一郭(いっかく)なんです。
だから、祇園女御もしくはその妹は、
やっぱり、あの辺の美人だったと思うのです。

大原富枝 そうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 祇園女御が平家の正盛と白河上皇との仲立ちをしていますね。
だからやっぱり六波羅に屋敷を構えたということは、
祇園女御にも一種の共感を呼んで、
それで白河にしきりに推薦するというような関係があったのではないかと思いますね。

大原 そうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 清盛は白河の落胤(らくいん)かどうか、
なんていう話があるわけなんですが、
わたしは落胤だという説ねのですがね。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
八坂神社に「忠盛燈籠(ただもりとうろう)」があります。
2016年7月31日の記事

天皇陛下が4月30日に譲位されて
5月1日に皇太子さまが新天皇に即位されます。
退位の礼・即位の礼関係諸儀式」(宮内庁)
昨年、秋篠宮さまが誕生日を迎えるあたっての記者会見で
大嘗祭『国費で賄うことが適当かどうか』秋篠宮さま
                (2018年11月30日)
秋篠宮さまは現行憲法から当然のことを発言されたと思っています。
白河上皇との関連で大嘗祭について
岩波天皇・皇室辞典』より転記したいと思いますφ(..)
即位式(礼)と大嘗祭 
       ◆高木博志◆
 即位式は、剣璽(けんじ)を新帝へ渡す践祚(せんそ)の儀式のあとに、
皇位についたことを天照大神、天神地祇(てんじんちぎ)に奉告し、
天皇位についたことを内外に明らかにする儀式。
即位式はハレの儀式である、
天皇が高御座(たかみくら)にのぼり壮麗に演出される。
毎年、新嘉殿(しんかでん)で行われる新嘗祭(にいなめさい)に対し、
一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)では、
全国から卜定(ぼくじょう)した悠紀(ゆき)国・主基(すき)国でとれた
新穀を天照大神を初めとする神々に供え、
天皇は新穀・新酒を神々と共食する。
悠紀・主基の国と郡は、近世では鈴鹿家が、
ウミガメの甲羅を火にかざしそのひび割れによって占う。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
大嘗祭は、卯日(うのひ)の夜半から行われる
大嘗宮における神座の儀を祭儀の中核としており、
「秘儀」であるところに儀礼の象徴的意味がある。
神座は、草・わらでできた建物のなかにあり、
八重畳の上にフスマ・シトネという寝具が置かれ、
天皇と数人の女官が奉仕する。
1909(明治42)年の登極令(とうきょくれい)により、
それまで別の年に行われていた即位式と大嘗祭は、
先帝の諒闇(りょうあん 服喪期間)後の秋冬の間に連続して行われることになった。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 古代・中世の即位式と大嘗祭
 古代においては即位式がもっとも古く、
6~7世紀までさかのぼる大王就任儀式である。
大嘗祭は、それより遅れて7世紀後半の天武・持統朝における
天皇権や律令制お形成と連動して登場する。
『日本書紀』持統5(691)年条の「十一月の戊辰に大嘗す」が、初出の記事である。
689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定され、
690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)による個別人身支配がなされ、
悠紀・主基国の根拠となる国郡制が整うことによって、
初めて大嘗祭の施行が可能となる。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
悠紀・主基国の民が、数千人の行列で「標(ひょう)の山」を先頭に
朱雀大路を供物や宴会のための品々を運ぶ。
また隼人(はやと)の犬吠(けんばい)
吉野の国栖奏(くずそう)や諸国の語部(かたりべ)の古詞(ふるごと)の奏上、
あるいは国風(くにぶり)などの地方の芸能や隼人舞が行われることから、
大嘗祭の服属儀礼としての性格がうかがえる。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 中世になると、王権の主体が院となり、即位式や大嘗祭よりも、
天皇から院への譲位による皇位継承が恒常化する。
なお天皇と院という二元的な体制は、
1086(応徳3)年の白河上皇の創立から1
840(天保11)年の光格(こうかく)上皇の死去まで、断続的につづく。
そして王法仏法相依論など、中世王権のイデオロギー的基盤が仏教にあるため、
即位灌頂(そくいかんじょう)が重要となる。
即位灌頂とは、即位式で高御座にのぼる新天皇が、
その場で密教の真言を唱え、手に智拳印(ちけんいん)を結ぶものである。
ここに天皇は大日如来になぞらえられ、仏弟子となるのである。
また大嘗祭の財政的基盤としては、
一国平均役としての大嘗会米が荘園公領制に課せられる。
応仁の乱が始まる直前の1466(文正元)年から
1687(貞享4)年までの間は大嘗祭は中絶し、
安価に施行できる即位式のみが存続する。
このことは天皇権の衰微と軌を一にする。
(『岩波 天皇・皇室辞典
  原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
後日、近世以降について転記したいと思っています。