2019年2月7日木曜日

霧の朝

今朝は、少し霧がかかっていました。
昨日は、循環器科の受診でした。
先週受けた血液検査の結果はよくないけど
現状維持だということで薬は増えませんでした(^-^;

父がトンカツを食べたいというので
いつもの外食はトンカツ屋さんにしました(^。^)
妹と今年は亥年なのに猪や豚が気の毒だなと話していました。
豚コレラ対応に追われる長野県宮田村 愛知県の対応を批判
グレーな状態で出荷されてはたまらないですね…
日曜日の番組で「京都浪漫 悠久の物語」を録画してみています。
民放の番組には珍しく奇をてらうことなく
リポーターが食通を装ってグルメを紹介することもあまりなく
じっくりと京都の良さを伝えてくれていると思います。
(入院中にテレビを見なかったのは、絶食中なのに
旅番組といえば美味しいものの紹介ばかりだったから…)

前回は「癒やしの大原へ~三千院と平家物語ゆかりの寺院~
父と妹と一緒に見ながら母とよく言ったねと思い出話などをしていました。
番組の中で平家物語の「灌頂巻(かんじゅのまき)」が紹介されていました。
建礼門院徳子のことが書かれた巻です。
民放にしては珍しく再放送があります。
灌頂巻を数回に分けて転記してみたいと思います。
目で読むだけでは、書かれている内容が頭になかなか入ってこないので
一文字一文字、打ち込むことでなんとか頭に入ってきます。
すぐに忘れてしまうのですが…

いつものことですが転記ミスや表記を変えていますので
本を手に取って読んでみてください。
なお、古文まで転記するとかなりの分量になるので現代語訳を転記します。
  平家物語 灌頂巻
  女院出家(にょいんしゅっけ)

 建礼門院(けんれんもんいん)は、東山の麓(ふもと)
吉田の辺の所におはいりになった。
中納言法印慶恵(きょうえ)と申した奈良法師の僧坊であった。
住み荒らして長い年月がたっていたので、
庭には草が深く茂り、軒にはしのぶ草が茂っている。
(すだれ)が破れてなくなり、寝屋がまる見えで、雨風も防げそうにもない。
花はさまざまの色に咲いているが、主人と頼みにする人もなく、
月は毎夜さしこむけれども、眺めて夜を明かす家の主もいない。
昔は立派な玉の御殿に住み、錦(にしき)の帳(とばり)の中で、
明かし暮らしておられたのに、今は平氏一族のあらゆる人はみんな別れてしまい、
ひどくみすぼらしい朽ちた僧坊におはいりになった建礼門院の御心のうちは、
推量されて哀れである。
魚が陸にあがったようなものであり、鳥が巣を離れたのと同様である。
そういう生活をするにつけては、あのつらかった海上の生活、船中のお住まいも、
今となっては恋しく思いになる。
はてしもなく続く青海原に漂った、西海の遠い雲に思いを寄せて悲しみ、
(こけ)むした茅葺(かやぶ)きのあばら屋で、
東山の麓の庭に照りわたる月を見て、涙をこぼすのであった。
悲しいともなんともいいようがない。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 こうして女院は、文治元(1185)年五月一日、ご剃髪(ていはつ)になった。
戒を授かられる御戒(おんかい)の師には、
長楽寺(ちょうらくじ)の阿証坊(あしょうぼう)の上人印西(いんせい)が当たったということであった。
お布施としては、先帝の御直衣(おんなおし)を出された。
先帝が最期の時までお召しになっていたので、先帝の御移り香もまだ消えていない。
御形見として御覧になろうといって、西国からはるばる都までご持参になったので、
どんな世になろうといつまでも御身から離すまいとお思いなっておられたが、
お布施になりそうな物がないうえに、一つには先帝のご成仏のためというので、
泣く泣く取り出されたのであった。
上人はこれを頂戴して、何と申し上げようもなくて、
墨染の袖を涙でぬらしながら、泣く泣く退出された。
この御衣を幡(はた)に縫って、長楽寺の仏前にかけられたという事であった。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 女院は十五で女御(にょうご)の宣旨(せんじ)をいただき、
十六で后妃(こうひ)の位につき、君王の傍におられて、
朝は朝政(あさまつりごと)をなさるように勧め、
夜は夜の寵をもっぱらに独占なさっていた。
二十二で皇子をご誕生になり、その皇子が皇太子に立ち、
即位なさったので、院号をお受けになって、建礼門院と申した。
入道相国清盛(にゅうどう しょうこく きよもり)の御娘であるうえに、
天下の国母でいらっしゃったので、世間で重んじ申し上げる事、ひととおりでない。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
今年は二十九におなりになる。
桃・李(すもも)のようなご容姿は相変わらず美しく、
蓮の花のようなご容貌はまだ衰えてはいられないが、
翡翠(ひすい)の美しい御簪(おんかんざし)をつけて飾っても、
今更何のしかたもないことでいらっしゃるので、とうとうお姿をかえて尼になられた。
この世をいとい、仏の道におはいりになったが、お嘆きはいっこうになくならない。
平家の人々が、今はこれまでと海に沈んだありさま、先帝・二位殿の御面影など、
いついつまでも忘れられぬことにお思いになるにつけて、
露のようにはかない女院のお命が、なんで今まで生きながらえて、
こんな悲しい目を見ることだろうと思いつづけられて、
御涙をとめることがおできにならない。
五月の短い夜だが、その短い夜を明かしかねておられ、
時たまうとうととなさることもないので、昔の事は夢にさえも御覧にならない。
壁沿い置いて室を照らす燈火の、明けがたかすかに残る光も弱くかすかで、
夜通し暗い窓を打つ雨の音がさびしく聞こえるのであった。
上陽人(しょうようじん)が上陽宮(しょうようきゅう)に閉じこめられたという悲しみも、
今の建礼門院の場合以上ではあるまいと思われた。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
昔をしのぶよすがとなれと思ってだろうか、
もとの主(あるじ)が移し植えておいた花橘(はなたちばな)が、
軒近くに咲き風に吹かれてなつかしい香を放っている時に、
山郭公(やまほととぎす)が二声、三声鳴いて通ったので、
女院は古歌だが思い出されて、
御硯(おんすずり)の蓋(ふた)に次のようにお詠みになった。

  ほととぎす花たちばなの香(か)をとめてなくはむかしのひとや恋しき
(ほととぎすよ、お前が橘の花の香を求めて鳴くのは、昔親しかった人が恋しいのか)
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
女院に仕えていた女房たちは、それほど気強く、
二位殿や越前の三位の北の方のように、水底に身投げもなさらないので、
荒々しい武士に捕らえられて、故郷の京都に帰り、若い者も年とった者も、
尼姿になり、みすぼらしいさまになって、生きがいもないみじめなありさまで、
前にも思いもしなかった谷の底や岩の間で日を過ごしておられた。
住んでいた家は、みな戦火のために焼けてしまったので、
何もない家跡だけが残って、草深い野辺になり、見なれた人が訪ねて来ることもない。
後漢の劉(りゅう)・阮(げん)が神仙の住まいから帰って、
七世後の孫に逢ったというのもこんなであろうかと思われて感慨が深い。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 そうしているうちに、七月九日の大地震のために、築地(ついじ)もくずれ、
荒れた御所もやぶれ傾いて、ますますお住まいになるたのみもなくなった。
門番で宮門(きゅうもん)を守る者さえもない。
思うままに生い茂り、荒れはてた生垣(いけがき)は、草深い野辺よりも露っぽく、
時と場所を知り顔に、はやくも虫の声々が訴えるように鳴くのも哀れである。
夜もしだいに長くなると、女院はよりいっそうお寝ざめがちで、
夜を明かしかねていらっしゃった。
尽きることのない御物思いのうえに、秋の哀れさまでも加わって、
悲しみをこらえられぬようにお思いなった。
何事も変わってしまったこの世なので、
時たま親切に女院をお慰め申すような縁故のある人もみんななくなってしまって、
どなたがお世話申し上げるともお見えにならなかった。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
「七月九日の大地震」については後日、記事にしたいと思います。