2019年2月13日水曜日

青空が見えてくると…

枯れ草の中にコロンと丸いものが…
初めワンちゃんのウンコかなと思ったけどオオカマキリの卵鞘(らんしょう)でした。
除草の時に剥がれたのかな?
踏まれるとかわいそうなので載せてあげました。
今朝は、歩き始め曇っていましたが、
次第に青空が見え始めると暖かいというより汗をかきそうになりました(^-^;

桜田五輪相『がっかり』発言を陳謝 撤回 衆院予算委
ゆっくり治療に専念できる環境を作ってあげてほしいです。
稀勢の里優勝 知られざる最後の3日間」(2017年4月3日)
本人の気持ちは大事だけど、まわりがどう対応するかで
その後の人生が決まってきますよね。
一方、三浦雄一郎さんは、ドクターや息子さんの意見を受け止めて登頂を断念されました。
豪太日記アコンカグア」(1月20日 21/32~)
こちらはカラスが藪の上に乗っていました。
何かの実(モモ?)を見つけたようでした。
『平家物語』より「六道之沙汰(ろくどうのさた)」を転記しますφ(..)
六道之沙汰(ろくどうのさた)

「出家の常です、そんな姿でも何のさしつかえがございましょう。
 さっさとご対面なさって、お帰りなさるようになさいませ」
と申したので、女院は御庵室におはいりになる。
「一度念仏を唱えては、浄土からお迎えの阿弥陀如来の光明が窓をさすのを期待し、
 十度念仏を唱えては、仏・菩薩のこのそまつな草庵への来迎を待っていたのに、
 思いがけなく法皇がおいでになったとはほんとうに意外です」
といって、泣く泣くお目にかかられた。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
  法皇はこの御ありさまを御覧申されて、
「非想天で八万劫(ごう)の寿命があるというが、
 それでもなお必ず死ぬという悲しみにあい、
 欲界の六天でも寿命長く楽しいが、
 それでもまだ五衰(ごすい)の悲しみをまぬかれない。
 帝釈天の宮殿善見城(ぜんけんじょう)の長寿・歓楽も
 中間禅(ちゅうげんぜん)の梵天王(ぼんてんおう)の高台の宮殿の楽しみも、
 また夢の中での幸福、幻の中の楽しみであって、
 全くいつ果てるともなく流転しているのです。
 天人にあるという五衰の悲しみは、人間界にもございましたよ」
と言われた。
「それにしても誰かここへお訪ね申していますか。
 何事につけてもさぞかし昔を思い出しておられるでしょう」
と言われると、
「どちらから訪ねて来ることもありません。
 隆房(たかふさ)・信隆(のぶたか)の北の方から、
 とぎれとぎれに申してよこす事がございます。
 その昔は、あの人々の世話を受けて生活しようとは、全然思いもよりませんでした」
といって、御涙を流されると、お付きの女房たちも、みな涙を流された。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 女院は御涙をこらえて申されるには、
「こういう悲しい身になる事は、一時の嘆きであるなる事は申すまでもありませんが、
 後生の成仏のためには、喜びと思われるのです。
 こうして仏に仕えてたちどころに釈迦(しゃか)の死後の弟子の一人となり、
 畏れ多くも阿弥陀の誓願に頼って、五障三従の苦しみをのがれ、
 昼三時・夜三時の勤行に六根の煩悩を清め、
 一途(いちず)に九品の浄土に往生する事を願っています。
 ひたすら平氏一門の後生安楽を祈り、
 常に阿弥陀・観音・勢至の三尊の来迎を期待しています。
 いつになっても忘れられないのは先帝の面影で、忘れられようとしても忘れられません、
 悲しみを忍ぼうとしても忍ぶことができません。
 ただ親子の情愛の道ほど悲しい事はありません。
 ですからその先帝の後生安楽のために、朝夕のお勤めを怠る事はありません。
 これも私の仏道にはいるためによい善知識と思われます」
と申されたところ、
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
法皇が言われるには、
「この国は粟粒(あわつぶ)ほどの辺鄙(へんぴ)な小国だが、
 畏れ多くも前世の十善の行を積んだそのおかげで、天子となり、
 身分相応に、一つとして心のままならぬという事はない。
 とりわけ仏法が流布している世に生まれて、仏道修行の志をもっているので、
 後世に善所に生まれることは疑いないと思う。
 人間界のはかなく空しいことは常のならいで、今更驚くべきではないが、
 女院のご様子を拝見すると、あまりに悲しくなんともしようのない気がします」
と言われると、
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
女院が重ねて申されるには、
「私は平相国の娘として、天子の国母となったので、天下はすべて思いのままでした。
 年賀の礼を行なう春の初めから、さまざまな色の衣に着替える四月・十月の衣がえ、
 仏名会の行われる行われる年末まで、
 一年中摂政関白以下の大臣・公卿に大切にかしずかれているように、
 文武百官がすべて敬い仰がぬ者はなかった。
 清涼殿・紫宸殿(ししんでん)の床の上、玉の簾(すだれ)の中で大切にされ、
 春は南殿の左近の桜に心を向けて日を暮らし、
 九夏三伏(きゅうかさんぷく)の暑い日は、泉の水を汲んで心を慰め、
 秋は雲の上の月をひとり見ることを許されず、月見の遊宴などに夜を過ごし、
 冬の白雪の降る寒い夜は、衣を重ねて暖かにする。
 長生不老の仙術を会得したいと願い、蓬莱(ほうらい)の不死の薬を尋ねても、
 ただ命の久しくある事ばかりを思っていた。
 毎夜毎夜、楽しみ栄えた生活を送った事は、
 天上の果報幸福もこれ以上ではあるまいと思われたのでした。
それなのに、寿永(じゅえい)の秋の初め、木曾義仲(よしなか)とかいう者を恐れて、
 一門の人々が住みなれた都を空のかなたに見やって、ゆかりのある故郷は焼き上げて、
 焼野の原にし、昔は名前ばかり聞いていた須磨から
 明石への海岸伝いに行くのはなんといっても哀れに思われた。
 その後、昼は広々とした海の波を分けて袖をぬらし、
 夜は洲崎(すさき)の千鳥の鳴き声を聞きながら泣き明かし、
 浦々島々を通り趣のある所を見たが、故郷の事は忘れなかった。
 こうして落ち着く所もなかったのは、天上の五衰、
 生者必滅の悲しみのようなものだと思われたのでした。
 人間界の事は、愛別離苦・怨憎会苦(おんぞえく)などの苦しみ、
 いずれもわが身に思い知らされたのです。
 四苦・八苦、一つとして残るものはありません。
 ところで筑前国大宰府という所で、
 緒方維義(これよし)とかいう者に九州の内も追い出され、
 山は野は広いが、立ち寄って休むべき所ない。
 その年の秋の末にもなったので、昔は内裏の御殿の上で見た月を、
 今ははるかに遠い海の上で眺めて、日を送っておりましたうちに、
 十月の頃、清経(きよつね)の中将が、
 『都の内を源氏のために攻め落とされ、九州を維義のために追い出される。
 網にかかった魚のようなものだ。
 どこへ行ってものがれることはできない。
 生きながらえることのできる身でもない』
 といって、海に沈みましたのが、悲しいことの初めでございました。
 波の上で日を暮らし、船の中で夜を明かし、
 国々からの献上品もなかったので、御食物をととのえる人もない。
 たまたま御食物を差し上げようとしても、水がないので差し上げられない。
 大海に浮かんでいて水はあるのだが、塩水なので飲むこともない。
 これもまた餓鬼道の苦と思われたのでした。
 こうして室山・水島など、所々の戦いに勝ったので、
 人々も少し元気がもどったように見えましたが、
 やがて一谷という所で一門が多く滅びた後は、
 直衣(のうし)・束帯とは変わって、鉄の鎧(よろい)・甲(かぶと)を身につけ、
 明けても暮れても毎日、戦いの鬨(とき)の声が絶えなかったのは、
 阿修羅王と帝釈天の闘争も、こんなかと思われたことでした。
 一谷を攻め落とされた後、親は子に先に死なれ、妻は夫に別れ、
 沖に釣する船を敵の船かと肝をつぶし、
 遠方の松に群がる鷺(さぎ)を見て、源氏の白旗かと心をくだいた。
 そうして門司、赤間の関で、戦(いくさ)は今日が最後と見えたので、
 その時二位の尼が申し残した事がございました。
 『男が生き残るという事は千、万に一つもむずかしい。
 たとえまた遠い親類・縁者はたまたま生き残ったといっても、
 我我の後世の冥福を弔うという事もありえない事だ。
 昔から女は殺さないのが常だから、なんとしてでも生きながらえて、
 天皇の後世の冥福をお弔い申し上げ、我我の後生も助けてくだされ』
 とくどくどと申しましたが、 それを聞いて夢を見るような気持でおりましたうちに、
 風が急に吹きだし、空に浮かぶ雲が厚くたなびいて、兵士どもは心を乱し、
 天から与えられた運が尽きて、人の力で何ともできない。
 もはや今は最期と見えたので、二位の尼は、
 先帝をお抱き申して、船ばたへ出た時、
 帝はどうしてよいかわからないご様子で、
 『尼御前、私をどちらへ連れて行こうとするのだ』
 と仰せられましたので、
 幼い君をお向かい申して、涙をこらえて尼が申しましたのは、
 『君はまだご存じありませんか。
 前世で十善の戒を守り行った御力によって、
 今天子とはお生まれになりましたが、
 前世の悪行が原因となって、
 ご運はもはや尽きてしまわれました。
 まず東にお向かいになって、伊勢大神宮にお別れをお告げになり、
 その後西方浄土からの仏・菩薩のお向けにあずかろうと思いになり、
 西に向かわれて、お念仏をお唱えなさい。
 この日本国は辺鄙(へんぴ)な粟散辺土(そくさんへんど)といって、
 悲しいいやな所でございますから、
 極楽浄土といって結構な所へお連れ申し上げますよ』
 と、泣く泣く申しましたので、
 山鳩色(やまばといろ)の御衣に角髪(みずら)をお結いになって、
 御涙をはげしく流されながら、小さく美しい御手を合わせ、
 まず東を伏し拝み、その後西に向かわれて、お念仏を唱えられたので、
 すぐさま二位の尼がお抱き申して、海に沈みました時、目もまっ暗になり、
 正気もなくなってしまって、その時の先帝の御面影は忘れようとしても忘れられず、
 悲しみを忍ぼうとしても、忍ぶ事ができません。
 あの時残った人々のわめき叫んだ声は、
 叫喚地獄(きょうかんじごく)・大叫喚地獄の炎の底で苦しむ罪人の声も、
 これ以上ではあるまいと思われたことでした。
 そうして武士どもに捕らえれて、播磨(はりま)国明石浦に着いて、
 ちょっとうとうとした夢の中で、昔の内裏よりずっと所に、先帝をはじめとして、
 一門の公卿・殿上人がみな格別に礼儀を正して控えていたのを見て、
 都を出てから、こんな所はまだ見なかったので、
 『ここはどこです』と尋ねましたところ、
 二位の尼らしい人が、『龍宮城』と答えました時、
 『すばらしい所だな。こちらには苦はないのですか』
 と尋ねましたら、
 『龍宮城の苦は龍畜経という経の中に見えております。
 苦をなくすためによくよく後世を弔ってください』
 と申すと思うと、夢がさめた。
 その後は、いっそう経を読み、念仏を唱えて、
 亡くなった人たちのご菩提を弔い申している。
 これはみんな六道と同じだと思われます」
と申されると、法皇が仰せられるには、
「外国の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、インドに仏道修行の旅に出て、
 悟りを開く前に六道を見たといい、わが国の日蔵上人は、
 蔵王権現の御力で六道を見たと聞いている。
 女院がこれほど目の前に御覧になった御事は、まことに珍しいことです」
といって、御涙にむせばれると、お供の公卿・殿上人も、みな涙で袖をぬらされた。
女院も御涙を流されるので、お付きの女房たちも、みな袖をぬらされた。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
   市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父は、ジョウビタキのオスと出会っていました。
今朝の画像を見ながら、別の道を行くつもりだったが、
なんか導かれるように歩くと出会ったそうで、
「(母が)出あわせてくれるんだな」と話していました。