男山(おとこやま)
標高142m。
京都の南方を扼(やく)する交通上・軍事上の要地。
一名牡山(おやま)・雄徳山(おとこやま)・丈夫山(おとこやま)、あるいは八幡山(はちまんやま)ともいう。
南北朝期には京都をめぐる攻防の拠点となった。
とくに1352(正平7)年には、世にいう男山合戦が行われ、
南朝の後村上(ごむらかみ)天皇がここに行宮(あんぐう)を定め、
北朝の足利義詮(あしかがよしあきら)と対峙(たいじ)。
激戦は60日にもおよび、ついに南軍が撤退し、以後南朝勢力の凋落(ちょうらく)が決定的となった。
信仰の対象として千有余年の間保護され、山域はよく自然が保たれている。
また歌枕(うたまくら)として多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)に愛され、洛南有数の名勝の地とされてきた。
1983(昭和58)年、京都府歴史的自然環境保全地区第1号に指定された。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
標高142m。
京都の南方を扼(やく)する交通上・軍事上の要地。
一名牡山(おやま)・雄徳山(おとこやま)・丈夫山(おとこやま)、あるいは八幡山(はちまんやま)ともいう。
南北朝期には京都をめぐる攻防の拠点となった。
とくに1352(正平7)年には、世にいう男山合戦が行われ、
南朝の後村上(ごむらかみ)天皇がここに行宮(あんぐう)を定め、
北朝の足利義詮(あしかがよしあきら)と対峙(たいじ)。
激戦は60日にもおよび、ついに南軍が撤退し、以後南朝勢力の凋落(ちょうらく)が決定的となった。
信仰の対象として千有余年の間保護され、山域はよく自然が保たれている。
また歌枕(うたまくら)として多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)に愛され、洛南有数の名勝の地とされてきた。
1983(昭和58)年、京都府歴史的自然環境保全地区第1号に指定された。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
山上駅にあった「男山ケーブルの歩み」から抜粋すると
大正15年 6月 男山索道株式会社により八幡口駅―男山駅間の営業を開始
昭和19年 2月 太平洋戦争による金属類の供出により営業を廃止
昭和30年12月 当社により、男山駅―八幡宮駅間を復活営業
乗車定員136人は当時日本一
昭和53年 9月 皇太子殿下ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)が
石清水八幡宮をご参拝に伴い、ご乗車
大正15年 6月 男山索道株式会社により八幡口駅―男山駅間の営業を開始
昭和19年 2月 太平洋戦争による金属類の供出により営業を廃止
昭和30年12月 当社により、男山駅―八幡宮駅間を復活営業
乗車定員136人は当時日本一
昭和53年 9月 皇太子殿下ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)が
石清水八幡宮をご参拝に伴い、ご乗車
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
石清水の名称は、東の中腹に湧出する清水にちなむ。
そこには摂社の石清水社がある。
859(貞観元)年、奈良大安寺(だいあんじ)の僧行教(ぎょうきょう)が社殿を創建し、
翌年九州より宇佐(うさ)八幡神を勧請(かんじょう)。
本来地方神の八幡神を、朝廷が応神(おうじん)天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと))と
認めたことにより二十二社のうち伊勢神宮につぐ第2位とされ、篤く尊崇された。
863年、古くから男山にあった石清水寺を、石清水八幡宮護国寺(ごこくじ)と改称。
八幡神は神仏習合の八幡大菩薩として信仰され、
神仏が完全に融合した、寺院でも神社でもない存在(これを宮寺(みやでら)という)であった。
ほかの2女神は、応神の母后神功(じんぐう)皇后およびその妃仲津姫(なかつひめ)に比定されている。
皇后の三韓(さんかん)遠征の伝承により八幡神は武神とされ、
清和源氏(せいわげんじ)以下武家諸氏の守護神となった。
各地の武士によって勧請され、その信仰は全国に普及した。
その後も、足利・豊臣・徳川諸氏の庇護下に社運は隆盛を迎えた。
現在も山上に残る本殿および周囲の摂社は、徳川幕府の援助でたてられたものである。
幕末・維新期に至り、鳥羽・伏見の戦いとそれに続く廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、
山内の堂塔の多くは焼失し、あるいは破却されて大打撃をうけた。
本殿の神像や仏像、そのほかの文化財は散逸し、その多くは失われたが、
周辺の寺院に保管・安置されているものも少なくない。
1868(慶応)年4月、神仏分離令により仏教色を払拭(ふっしょく)した神社となり、
八幡大菩薩は八幡大神(おおかみ)と改められ、現在に至っている。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
石清水の名称は、東の中腹に湧出する清水にちなむ。
そこには摂社の石清水社がある。
859(貞観元)年、奈良大安寺(だいあんじ)の僧行教(ぎょうきょう)が社殿を創建し、
翌年九州より宇佐(うさ)八幡神を勧請(かんじょう)。
本来地方神の八幡神を、朝廷が応神(おうじん)天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと))と
認めたことにより二十二社のうち伊勢神宮につぐ第2位とされ、篤く尊崇された。
863年、古くから男山にあった石清水寺を、石清水八幡宮護国寺(ごこくじ)と改称。
八幡神は神仏習合の八幡大菩薩として信仰され、
神仏が完全に融合した、寺院でも神社でもない存在(これを宮寺(みやでら)という)であった。
ほかの2女神は、応神の母后神功(じんぐう)皇后およびその妃仲津姫(なかつひめ)に比定されている。
皇后の三韓(さんかん)遠征の伝承により八幡神は武神とされ、
清和源氏(せいわげんじ)以下武家諸氏の守護神となった。
各地の武士によって勧請され、その信仰は全国に普及した。
その後も、足利・豊臣・徳川諸氏の庇護下に社運は隆盛を迎えた。
現在も山上に残る本殿および周囲の摂社は、徳川幕府の援助でたてられたものである。
幕末・維新期に至り、鳥羽・伏見の戦いとそれに続く廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、
山内の堂塔の多くは焼失し、あるいは破却されて大打撃をうけた。
本殿の神像や仏像、そのほかの文化財は散逸し、その多くは失われたが、
周辺の寺院に保管・安置されているものも少なくない。
1868(慶応)年4月、神仏分離令により仏教色を払拭(ふっしょく)した神社となり、
八幡大菩薩は八幡大神(おおかみ)と改められ、現在に至っている。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
カヤの木
南総門前東側に立つカヤ(榧)は樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30mの巨樹であり、
京都府下のカヤのなかでも有数の巨木といわれています。
春に開花し、果実は秋に成熟します。
その昔、カヤの実はカヤ油として灯油などに使われ、
大山崎油座でも有名なとおり当宮と油の関係から
御神木として今なおその名残を示しているのかもしれません。
現在このカヤの実は当宮の重儀である石清水祭の神饌として使われおり、
また茶道・裏千家の初釜式において「蓬莱山飾り」という新春のお飾りにも用いられています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
南総門前東側に立つカヤ(榧)は樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30mの巨樹であり、
京都府下のカヤのなかでも有数の巨木といわれています。
春に開花し、果実は秋に成熟します。
その昔、カヤの実はカヤ油として灯油などに使われ、
大山崎油座でも有名なとおり当宮と油の関係から
御神木として今なおその名残を示しているのかもしれません。
現在このカヤの実は当宮の重儀である石清水祭の神饌として使われおり、
また茶道・裏千家の初釜式において「蓬莱山飾り」という新春のお飾りにも用いられています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
父は石清水八幡宮を信仰していて、折々にお参りしています。
謡曲「弓八幡」と石清水八幡宮
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
この謡を「弓八幡」と名づける事は、八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓八幡と名付けたのである。とある。
直(すぐ)な御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。
作者世阿弥は平和論者である。
武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。
これが一能役者の見識である熱情であったのである。と謡曲大観は論じている。
本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡宮に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。
謡曲史跡保存会
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
この謡を「弓八幡」と名づける事は、八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓八幡と名付けたのである。とある。
直(すぐ)な御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。
作者世阿弥は平和論者である。
武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。
これが一能役者の見識である熱情であったのである。と謡曲大観は論じている。
本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡宮に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。
謡曲史跡保存会
楼門
社殿の顔である楼門の正面には、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)があり、
よく見ると向かって右側の鳩は少し口を開けています。
神使である鳩が社殿の正面にて狛犬と同様に阿吽の呼吸で御神前をお守りしています。
また、その双鳩の少し上を見上げると、極彩色の壮麗な龍虎の欄間彫刻が施されています。
南に朱雀、東に青龍、西に白虎、北に玄武という四方を守護する四神(神獣)の関係から考えると、
当宮の龍虎の彫刻は東に虎、西に龍の彫刻が配置されており、
これは、御祭神を祀る位置と順番に合わせて逆に配置されているとも、
現在の社殿の修造した徳川家光公の生まれ年が辰年であり、
家光公が尊崇した徳川家康公は虎年生まれであるため、
自分の干支が尊敬する家康公の干支よりも
上位(=東、下位=西)の位置に配することのないよう家光公が配慮したともいわれています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
社殿の顔である楼門の正面には、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)があり、
よく見ると向かって右側の鳩は少し口を開けています。
神使である鳩が社殿の正面にて狛犬と同様に阿吽の呼吸で御神前をお守りしています。
また、その双鳩の少し上を見上げると、極彩色の壮麗な龍虎の欄間彫刻が施されています。
南に朱雀、東に青龍、西に白虎、北に玄武という四方を守護する四神(神獣)の関係から考えると、
当宮の龍虎の彫刻は東に虎、西に龍の彫刻が配置されており、
これは、御祭神を祀る位置と順番に合わせて逆に配置されているとも、
現在の社殿の修造した徳川家光公の生まれ年が辰年であり、
家光公が尊崇した徳川家康公は虎年生まれであるため、
自分の干支が尊敬する家康公の干支よりも
上位(=東、下位=西)の位置に配することのないよう家光公が配慮したともいわれています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
楠木正成公必勝祈願参拝の際奉納の大楠
北方系植物相と南方系植物相の境界に位置する男山には、
京都府指定天然記念物のクスノキの巨木があり、
最大のクスノキは根周り18m、樹高30m、樹冠40mあります。
『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあり、
楠木正成公が建武元(1334)年に必勝祈願参拝の折に奉納したとされる樹齢700年にせまる大木です。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
北方系植物相と南方系植物相の境界に位置する男山には、
京都府指定天然記念物のクスノキの巨木があり、
最大のクスノキは根周り18m、樹高30m、樹冠40mあります。
『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあり、
楠木正成公が建武元(1334)年に必勝祈願参拝の折に奉納したとされる樹齢700年にせまる大木です。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
築地塀
織田信長が天正8年(1580)に寄進した土塀。
通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。
塼(せん(瓦))と土を幾重にも重ねることにより、
当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」+境内掲示)
織田信長が天正8年(1580)に寄進した土塀。
通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。
塼(せん(瓦))と土を幾重にも重ねることにより、
当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」+境内掲示)
校倉
築地内北西隅に位置する校倉(宝蔵)は、建築年代が明確ではありませんが、
文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、
平成21年3月に石清水社・石清水井とともに京都府より文化財の指定をうけました。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
築地内北西隅に位置する校倉(宝蔵)は、建築年代が明確ではありませんが、
文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、
平成21年3月に石清水社・石清水井とともに京都府より文化財の指定をうけました。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
若宮社
御祭神 第十六代天皇 仁徳天皇
御神徳 男性の守護神 祈願成就 学業成就
御祭神 第十六代天皇 仁徳天皇
御神徳 男性の守護神 祈願成就 学業成就
若宮殿社
御祭神 応神天皇皇女
御神徳 女性の守護神 祈願成就 身心健康
御祭神 応神天皇皇女
御神徳 女性の守護神 祈願成就 身心健康
「摂社水若宮社」
おがたまの木
「招霊の木」とも書かれ、古くから霊力の宿る御神木として多くの神社に植えられています。
その実の形から「神楽鈴」が作られたとの説もあります。
※一円硬貨の表面に描かれています。
「招霊の木」とも書かれ、古くから霊力の宿る御神木として多くの神社に植えられています。
その実の形から「神楽鈴」が作られたとの説もあります。
※一円硬貨の表面に描かれています。
末社 三女神社
御祭神 宗像三女神 御神徳 運輸 流通 安全の神
御祭神 宗像三女神 御神徳 運輸 流通 安全の神
下山のケーブルカーの中で流れていたのが徒然草の一文です。
第五十二段
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水(いはしみづ)を拝(をが)まざりければ、心うく覚えて、
ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)より詣でけり。
極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得(こゝろえ)て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果(はた)し侍(はんべ)りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも、参(まゐ)りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほんい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。
(『新訂 徒然草』)
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水(いはしみづ)を拝(をが)まざりければ、心うく覚えて、
ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)より詣でけり。
極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得(こゝろえ)て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果(はた)し侍(はんべ)りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも、参(まゐ)りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほんい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。
(『新訂 徒然草』)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後から父と妹と三人で母の見舞いに行きました。
これまであまり意識がハッキリしていなくて
妹が「私たちのこと分かっているのかな?」と不安げでしたが
今日は、妹の名前と私の名前を言ってくれたそうです(私が談話室で荷物番をしていたときに)。
看護師さんにお聞きすると、鼻から栄養補給の管が胃まで入っていることと
食事をしていないのでおなかに力が入らないのが
はっきりと声が出せない原因かもしれないようです。
現在、ゼリーなどで摂食の練習をしているので
いつか食事が出来るようになり鼻の管が外されると
楽に会話ができるようなると思います。
これまであまり意識がハッキリしていなくて
妹が「私たちのこと分かっているのかな?」と不安げでしたが
今日は、妹の名前と私の名前を言ってくれたそうです(私が談話室で荷物番をしていたときに)。
看護師さんにお聞きすると、鼻から栄養補給の管が胃まで入っていることと
食事をしていないのでおなかに力が入らないのが
はっきりと声が出せない原因かもしれないようです。
現在、ゼリーなどで摂食の練習をしているので
いつか食事が出来るようになり鼻の管が外されると
楽に会話ができるようなると思います。
KAZEさん
返信削除こんばんは
今日は暖かかったですね
春めいて来ると気持ちも明るくなりますよね
お父様との外出や
お母様の回復ぶりに
ホッとなさったでしょう
お疲れ出ませんように
becoさんおはようございます(*^O^*)/
削除昨日は青空で春が来たような暖かさでしたね(o^^o)
>春めいて来ると気持ちも明るくなりますよね
青空を見ていると元気になりますp(^-^)q
母が入院して以来、父は八幡さんへのお参りをしたいと言っていました。
妹が父一人であの山を行かせるのを心配していたので
母の容態も少しよくなり、天気予報を見ていると
昨日が一番いい天気だったので一緒にお参りすることにしました。
お参りをすませて面会時間に母を見舞うと
意識がはっきりしていたので
父も大喜びでした(o^^o)
こんにちは~
返信削除いい日和にお参り出来てよかったです。
そのあとのお見舞いでは、お母様の良いご様子の嬉しいお話が待っていてくれて、岩清水八幡さんのご加護が感じられます。(^^)/
よかったです。
メジロ君の今にも飛び立とうするお顔、微笑ましいです。(^^♪
カイさんこんにちは(*^O^*)/
削除昨日は、今日と違って青空で暖かかったです♪
石清水八幡宮は、父が長い間、事あるごとにお参りをしています。
そのおかげで母の容態もいい方向に向いていると思います。
>メジロ君の今にも飛び立とうするお顔、微笑ましいです。(^^♪
男山のメジロは、なんかいつも散歩している公園のメジロよりも
イラチでした(^^ )
撮そうとしたらすぐに飛び立ってしまいました…