今朝は、青空が広がっていました。
気持ちいい風が吹き、歩くのには最適でしたが
草花を写すのには、揺れて困りました(@@;)
2011年から公園を歩いているのですが、年々、季節が速く進んでいるような気がします。歴史探偵「細川ガラシャとキリシタン」
発病する前、三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』(新潮文庫)を読み、
明智光秀の娘であることを知りました。
当時のブログはプロバイダのサービス終了でなくなってしまいましたが
長岡京市の勝龍寺城を訪ねたり
「勝竜寺城公園-明智光秀“最期の城”/細川ガラシャ“輿入れの城”」(長岡京市)
明智光秀への足跡を訪ねたくて
亀岡から明智越えを歩いたりしました。
「明智越」(亀岡市)
昔々、高校の文化祭が府立青少年会館(橋本知事の時、2009年6月30日廃止)で行われていました。
その文化祭の最中に抜け出して(^^ゞ
何も知らずに訪ねていていたのがカトリック玉造教会。
壁画に描かれていた武家の夫人の祈る姿がどなたか分からないまま記憶に残っていました。こころの時代~宗教・人生~「闇のかなたに光をさがして」
ウクライナ正教会の司祭ポール・コロルークさんが
悲しみや憎しみに自分を見失いそうになる人々をどう支えるのか。
その葛藤に光を与えてくれたのが
かつて原爆の惨禍を経験した長崎の宗教者との交流でした。「熊本地震本震から10年 犠牲大学生の家族が現場で追悼」(熊本NHK)
もう10年になるのですよね…
このような苦境に陥った人たちについつい「頑張って」と言ってしまいがちなのですが
Eテレ0655と2355の「おはようソング」、「道の終わりに」
歌詞の「Good luck to you!」を「がんば」と訳していますね。
レベル1(月・火曜日)とレベル2(水・木曜日)では、
目的地以外に変わっているところがありますよ(^_-)
「頑張れ」という言葉かけについて 「頑張れ」と「グッド・ラック」
「頑張れ」「頑張ってね」とは、私たちの決まり文句だ。
しかし、これが国際間の誤解になったこともあるという。
野球チームの話である。
外国選手に、監督が「頑張れ」と言い、通訳が「ドゥー・ユア・ベスト」と訳した。
選手は気色ばんだそうである。
「自分がベストを尽くしていないというのか」
私たちならわかっている。
そんな意味じゃない。
「しっかり」というのも、相手がしっかりしていないと非難しているのではない。
通訳はこれに懲りて「頑張れ」を「グッド・ラック」と訳するようにしたそうである。
これが正しい訳だと私も思う。
「幸運を祈る」というのは「ベストを尽くしているから後は好運を祈るのみだ」ということだ。
(『隣の病』中井久夫 ちくま学芸文庫 2010年) しかし、日本でも「頑張れ」が人を悲しませることがある。
柏木(哲夫)先生といえば淀川キリスト教病院で先駆的にホスピスの仕事をやっておいでになった方だが、御自分の体験を踏まえて、手おくれの癌患者さんが弱音を吐いた時「何を言っているの、頑張りなさい」と言っては決してならぬといわれる。
みのらないと本人がわかっているのに頑張れというのは酷である。
先生にははっと眼を開かれるような体験があったという。 身体の病気ばかりではない。
いや、目に見えないだけに心の病気のほうが辛かろう。
余力のない時、あるいはどう頑張っていいかわからない時には、「頑張れ」を軽く受け取られなくて当然である。
うつ病の患者さんをはげましてはいけないとう知識は内科の先生たちにも行き渡ったようである。
患者さんの家族に相談されてもいい知恵が浮ばないことが多い。
せめて「頑張って下さい」とはよほど考えてからでないと言わないことにしている。
家族も患者も、軽い「頑張れ」を重く取って傷ついた経験がきっとおありだろう。 人生は予定どおりに展開するものではない。
さまざまなハプニングがある。
これをよい方に何とか読み換えて生かすことを考えたいと思う。
また、待つことも大事である。
「待てれば半分治ったも同じ」とは恩師の言葉である。
しかし「待ちの政治」ならぬ「待ちの治療」というものがいちばん難しい。
逆風の時をじっと耐えて待つのが正解という時もあるのだが、いずれのためにも、本人と家族と治療者との呼吸が合っていることが大事で、この呼吸合わせが治療の一つのポイントであると思う。
そのための「待ち」が必要なこともあろうが――。
せめて「頑張れ」でなく「グッド・ラック」と言いあいたいものである。
(「北むつみ会・患者家族会会報」 1990年)
*神戸市北区の患者会報への寄稿である。
(『隣の病』中井久夫 ちくま学芸文庫 2010年)「魯山人のかまど」の北大路魯山人(藤竜也)と田ノ上ヨネ子(古川琴音)を見ていて
先日、読んでいた本を思い出しました。
井伏鱒二は温厚な方だと思いますが(^_-)
井伏さんとドリトル先生
私の書斎(というのも、少し大げさすぎるのだが)の本棚の一隅に、私が物を書きかけたころの、思いでは深いが、ほかの人には価値のない本を積み重ねておく場所がある。
その中に、幅十三センチ、縦二十センチ弱、厚さ一センチほどの、まことにスレンダーで可憐な、赤い表紙の、特別な本が一冊、はさまっている。
ほかの本は日に焼け、よごれているが、この本だけは表紙の色が褪せないように紙で包み、ビニールの袋に入れてある。
私は、時どき、この本を出しては眺めるのだが、その度に、もしこの本が井伏さんのお宅に残っていれば、別の話だけれど、もしそうでなければ、この本は日本にこれ一冊ということになるかもしれない。
そうなると、もっとだいじに補強して蔵(しま)っておかなければと考えつつ、何となく忙しさにまぎれて、またビニールの袋に入れて、元にもどしてしまっているのである。
(『石井桃子コレクション Ⅴ エッセイ集』岩波現代文庫 2015年) 奥付を見れば、すぐわかることだけれど、この本こそ、昭和十六年一月二十四日発行の井伏鱒二訳、『ドリトル先生「アフリカ行き」』の初版本(白林<はくりん>少年館出版部版)なのである。
この奥付のいく行もない活字にざっと視線を移していくだけでも、私の胸には、さまざまな思いがこみあげてくる。
まず昭和十六年といえば、この年の十二月八日には日米戦争がはじまっている。
井伏さんはじめ、日本語訳『ドリトル先生「アフリカ行き」』の誕生に関わった人たちのまわりには、この年の前後何年か、どうして生きていこうかという点で暗い雲がかかっていたはずである。
しかし、あるとき、井伏さんが、次のようなことをおっしゃったときのことは、はっきりおぼえている。
「太宰はね、こう思うことが書けなくなったら、思う存分のことを書いて、壺に入れて、地面に埋めとくっていってるんですがね。」
そのときの井伏さんの語気を、どきっとするような思いで聞いたので、この言葉だけは、ひとつづりになって私の心に残った。
それは同時に、そっくり、井伏さんのお気持ではないかと思って、私は聞いたのである。 私は私で、よく子どもの本の話を井伏さんにした。
私は、文藝春秋に勤めているころから、ある偶然の機会で、英米の子どもの文学に関心をもつようになり、アメリカの友人たちにも、大人、子どもという区別なく、広く両方に読者を持つ本を紹介してくれないかと頼んだりしていた。
こうして送ってもらった本の中に、「ドゥーリトル先生物語」のシリーズがあった。
こうして、日・英・米の国の関係は、昭和十六年に近づくにつれて険悪の度を増しながらつづいたのだったが、異国人同士、個人的に、かなり親しい友だち付合いをすることができていたのだなと、いまから考えるふしぎな気持がする。
後の井伏鱒二訳『ドリトル先生』が出るためには、その原本は、日米戦争勃発よりも、三年は前に私の手に届いていなければならなかったのだから、その意味では、アメリカの友人の友情をありがたく思いだすのである。 さて、私は、こうして友だちから送られた「ドゥーリトル先生のお話』をたいへんおもしろく思い、次に井伏さんをお訪ねすると、早速その粗筋(あらすじ)をお話しした。
井伏さんは、目をパチパチさせながら、その話を聞き終え、「いい話ですね。いい話ですね。日本の子どもの話って、糞リアリズムで厭味(いやみ)だ。こういうふうにいかないんだなぁ。」とおっしゃった。
さてまた一方、私は、こうして井伏さんところに押しかけて勝手に子どもの本の話を聞かせたりしている間に、二、三の女の友だちと語らって、小さい、子どものための図書室を設けようとしていた。
それは、ある友人の厚意で一つの事務所を信濃町近くに無料で借りることができたため、そこを子どもの図書室にし、併せて子どもの本の出版をしようということだった。
「戦え、戦え」のその時代に、まず子どもたちに、どんな本を読んでもらいたいかということを考えたとき、私たちがまず思いついたのは、無謀かも知れないけれど、「ドゥーリトル先生のお話」だったのである。
紙の配給やお金ことは、ほかの友人が心配する、私の役目は、井伏さんに「ドゥーリトル先生のお話」を訳してくださいとお願いするというところに、私たちの間で事は勝手にきまってしまった。 さて、じっさいにどう井伏さんに交渉し、「よし」といっていただいたのか、そこのところが、私の記憶からまったく欠落している。
この文の初めに書いた、好ましい、赤い表紙の小さい本、『ドリトル先生「アフリカ行き」』の「あとがき」で、井伏さんは、「私はドリトル先生のさういふ風格に甚(はなはだし)く傾倒し、それで久しい以前からこの物語を翻訳してみたいと考へてをりました」と書いてくださっている。
井伏さんが「ドリトル先生」の訳をなさる間、創作の方の大きな支障になることを、私がひどく気にしていることを知っていらしって、井伏さんはそう書いてくださったのではないかと私は思っている。
『ドリトル先生「アフリカ行き」』は、戦争ちゅうにもかかわらず、日本の社会に迎えられ、戦後は、続篇が延々十二巻まで、井伏さんを文字通り煩わしつづけたから、私のいま言える本音は、「井伏さん、ごめんなさい。長らく創作のおじゃまをしました」なのである。 しかし、最初の巻だけをお手伝いした私から見ると、井伏さんは、あの本の翻訳ちゅう、かなりたのしまれたのでもあろうという気もしないではない。
「ドゥーリトル」名前は、下訳をもっていって、説明する私に、ずばり、「ドリトル先生にしましょう」とおっしゃっておきめになるし、「情況がおもわしくなく、好転するのを待つという意味の諺……」などと私が言い終わらないうちい、「待てば海路の日和(ひより)」と教えてくださるし、「頭が二つで胴体が一つの珍獣、押しっくらをしているけものの名」といえば、「オシツオサレツ」という言葉が井伏さんの唇から流れ出ていたのだった。
そのような質疑応答のあと、井伏さんは、原稿をかばんに入れ、旅行に出、それこそ徹夜で呻吟(しんぎん)してくださったようである。
そして、帰られると、そのたいへんさをしみじみ思いだしたというように、「ああ、この原稿は、きつかった。ああ、これには手を焼いた、はあ」というようなことを、ため息をついて呟(つぶや)かれるのであった。
――『井伏鱒二全集』月報 筑摩書房 1998年11月/abe
(『石井桃子コレクション Ⅴ エッセイ集』岩波現代文庫 2015年)
「児童文学者コーナー 石井桃子」(日本の子どもの文学 国際子ども図書館)今朝の父の一枚です(^^)/
藤の花が咲いていました。
タンポポの観察
家の近くに空き地があって、これまでにタンポポが咲いていたのを見かけたことがある人は、今年は、4月のはじめから、ちょっと注意して観察してみましょう。
4月になると、枯葉色の地面のあちこちに黄色いタンポポの花が顔を出します。
はじめは、点だった黄色は、みるみるうちに面となり、やがて空き地全体が黄色のじゅうたんでおおわれます。
そうして黄色のじゅうたんの間に点てんと白い綿毛帽子(わたげぼうし)が見られるようになると、1週間ほど、黄色いじゅうたんはすっかり消えて、空き地全体が綿毛帽子でおおわれます。
花のさかりのころ、タンポポ畑に入って一つの株をじっくり見てみましょう。
咲いている花はもちろん、しおれた花や株を手で分けると、地面に近い部分につぼみもみつかるはずです。
そのつぼみのあった株の場所をよくおぼえておきましょう。
そして毎日1回、5分ほど、1週間続けて観察すれば、今まで知らなかったいろいろなことに気づくはずです。
タンポポの花は、いつも野原一面に咲いているので、花の寿命はずいぶん長いような気もしますが、一つの花の咲いている期間は、わずか二日程度です。
次つぎとつぼみを出すので、いつも咲いているような気がするだけなのです。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)
「頑張れ」という言葉かけについて 「頑張れ」と「グッド・ラック」
「頑張れ」「頑張ってね」とは、私たちの決まり文句だ。
しかし、これが国際間の誤解になったこともあるという。
野球チームの話である。
外国選手に、監督が「頑張れ」と言い、通訳が「ドゥー・ユア・ベスト」と訳した。
選手は気色ばんだそうである。
「自分がベストを尽くしていないというのか」
私たちならわかっている。
そんな意味じゃない。
「しっかり」というのも、相手がしっかりしていないと非難しているのではない。
通訳はこれに懲りて「頑張れ」を「グッド・ラック」と訳するようにしたそうである。
これが正しい訳だと私も思う。
「幸運を祈る」というのは「ベストを尽くしているから後は好運を祈るのみだ」ということだ。
(『隣の病』中井久夫 ちくま学芸文庫 2010年) しかし、日本でも「頑張れ」が人を悲しませることがある。
柏木(哲夫)先生といえば淀川キリスト教病院で先駆的にホスピスの仕事をやっておいでになった方だが、御自分の体験を踏まえて、手おくれの癌患者さんが弱音を吐いた時「何を言っているの、頑張りなさい」と言っては決してならぬといわれる。
みのらないと本人がわかっているのに頑張れというのは酷である。
先生にははっと眼を開かれるような体験があったという。 身体の病気ばかりではない。
いや、目に見えないだけに心の病気のほうが辛かろう。
余力のない時、あるいはどう頑張っていいかわからない時には、「頑張れ」を軽く受け取られなくて当然である。
うつ病の患者さんをはげましてはいけないとう知識は内科の先生たちにも行き渡ったようである。
患者さんの家族に相談されてもいい知恵が浮ばないことが多い。
せめて「頑張って下さい」とはよほど考えてからでないと言わないことにしている。
家族も患者も、軽い「頑張れ」を重く取って傷ついた経験がきっとおありだろう。 人生は予定どおりに展開するものではない。
さまざまなハプニングがある。
これをよい方に何とか読み換えて生かすことを考えたいと思う。
また、待つことも大事である。
「待てれば半分治ったも同じ」とは恩師の言葉である。
しかし「待ちの政治」ならぬ「待ちの治療」というものがいちばん難しい。
逆風の時をじっと耐えて待つのが正解という時もあるのだが、いずれのためにも、本人と家族と治療者との呼吸が合っていることが大事で、この呼吸合わせが治療の一つのポイントであると思う。
そのための「待ち」が必要なこともあろうが――。
せめて「頑張れ」でなく「グッド・ラック」と言いあいたいものである。
(「北むつみ会・患者家族会会報」 1990年)
*神戸市北区の患者会報への寄稿である。
(『隣の病』中井久夫 ちくま学芸文庫 2010年)「魯山人のかまど」の北大路魯山人(藤竜也)と田ノ上ヨネ子(古川琴音)を見ていて
先日、読んでいた本を思い出しました。
井伏鱒二は温厚な方だと思いますが(^_-)
井伏さんとドリトル先生
私の書斎(というのも、少し大げさすぎるのだが)の本棚の一隅に、私が物を書きかけたころの、思いでは深いが、ほかの人には価値のない本を積み重ねておく場所がある。
その中に、幅十三センチ、縦二十センチ弱、厚さ一センチほどの、まことにスレンダーで可憐な、赤い表紙の、特別な本が一冊、はさまっている。
ほかの本は日に焼け、よごれているが、この本だけは表紙の色が褪せないように紙で包み、ビニールの袋に入れてある。
私は、時どき、この本を出しては眺めるのだが、その度に、もしこの本が井伏さんのお宅に残っていれば、別の話だけれど、もしそうでなければ、この本は日本にこれ一冊ということになるかもしれない。
そうなると、もっとだいじに補強して蔵(しま)っておかなければと考えつつ、何となく忙しさにまぎれて、またビニールの袋に入れて、元にもどしてしまっているのである。
(『石井桃子コレクション Ⅴ エッセイ集』岩波現代文庫 2015年) 奥付を見れば、すぐわかることだけれど、この本こそ、昭和十六年一月二十四日発行の井伏鱒二訳、『ドリトル先生「アフリカ行き」』の初版本(白林<はくりん>少年館出版部版)なのである。
この奥付のいく行もない活字にざっと視線を移していくだけでも、私の胸には、さまざまな思いがこみあげてくる。
まず昭和十六年といえば、この年の十二月八日には日米戦争がはじまっている。
井伏さんはじめ、日本語訳『ドリトル先生「アフリカ行き」』の誕生に関わった人たちのまわりには、この年の前後何年か、どうして生きていこうかという点で暗い雲がかかっていたはずである。
私は、その年の二、三年前に出版社勤めをやめ、二年前に母を亡くし、生れた町に住む理由をなくして、井伏さんのお家のかなり近くの、杉並区荻窪へ引っこしてきていた。
私が一ばん度々、井伏さんをふらりとお訪ねしたのは、そのころのことではなかったろうか。
そもそも井伏さんを、井伏さんと親しげにお呼びしてお付合いしていたのは、私の前に勤めていた出版社が文藝春秋社で、井伏さんはそのころ、ほとんど毎日のように編集者の永井龍男さんに会いに文藝春秋に来ていらしっていて、私は永井さんの下で働いていたからである。
井伏さんと私は、長い年月を経た今から思い出して見ると、そのころ、どんな話をしたのか、話題の一つ一つを思いだすことはできないのだが、ほかにお客のいないときの話は、日本の古代のことにわたったり(井伏さんは私に、学校で教えるのとはちがった歴史の本を貸してくださった)、雑談的に時勢の話をしたりしたような気がする。私が一ばん度々、井伏さんをふらりとお訪ねしたのは、そのころのことではなかったろうか。
そもそも井伏さんを、井伏さんと親しげにお呼びしてお付合いしていたのは、私の前に勤めていた出版社が文藝春秋社で、井伏さんはそのころ、ほとんど毎日のように編集者の永井龍男さんに会いに文藝春秋に来ていらしっていて、私は永井さんの下で働いていたからである。
しかし、あるとき、井伏さんが、次のようなことをおっしゃったときのことは、はっきりおぼえている。
「太宰はね、こう思うことが書けなくなったら、思う存分のことを書いて、壺に入れて、地面に埋めとくっていってるんですがね。」
そのときの井伏さんの語気を、どきっとするような思いで聞いたので、この言葉だけは、ひとつづりになって私の心に残った。
それは同時に、そっくり、井伏さんのお気持ではないかと思って、私は聞いたのである。 私は私で、よく子どもの本の話を井伏さんにした。
私は、文藝春秋に勤めているころから、ある偶然の機会で、英米の子どもの文学に関心をもつようになり、アメリカの友人たちにも、大人、子どもという区別なく、広く両方に読者を持つ本を紹介してくれないかと頼んだりしていた。
こうして送ってもらった本の中に、「ドゥーリトル先生物語」のシリーズがあった。
こうして、日・英・米の国の関係は、昭和十六年に近づくにつれて険悪の度を増しながらつづいたのだったが、異国人同士、個人的に、かなり親しい友だち付合いをすることができていたのだなと、いまから考えるふしぎな気持がする。
後の井伏鱒二訳『ドリトル先生』が出るためには、その原本は、日米戦争勃発よりも、三年は前に私の手に届いていなければならなかったのだから、その意味では、アメリカの友人の友情をありがたく思いだすのである。 さて、私は、こうして友だちから送られた「ドゥーリトル先生のお話』をたいへんおもしろく思い、次に井伏さんをお訪ねすると、早速その粗筋(あらすじ)をお話しした。
井伏さんは、目をパチパチさせながら、その話を聞き終え、「いい話ですね。いい話ですね。日本の子どもの話って、糞リアリズムで厭味(いやみ)だ。こういうふうにいかないんだなぁ。」とおっしゃった。
さてまた一方、私は、こうして井伏さんところに押しかけて勝手に子どもの本の話を聞かせたりしている間に、二、三の女の友だちと語らって、小さい、子どものための図書室を設けようとしていた。
それは、ある友人の厚意で一つの事務所を信濃町近くに無料で借りることができたため、そこを子どもの図書室にし、併せて子どもの本の出版をしようということだった。
「戦え、戦え」のその時代に、まず子どもたちに、どんな本を読んでもらいたいかということを考えたとき、私たちがまず思いついたのは、無謀かも知れないけれど、「ドゥーリトル先生のお話」だったのである。
紙の配給やお金ことは、ほかの友人が心配する、私の役目は、井伏さんに「ドゥーリトル先生のお話」を訳してくださいとお願いするというところに、私たちの間で事は勝手にきまってしまった。 さて、じっさいにどう井伏さんに交渉し、「よし」といっていただいたのか、そこのところが、私の記憶からまったく欠落している。
この文の初めに書いた、好ましい、赤い表紙の小さい本、『ドリトル先生「アフリカ行き」』の「あとがき」で、井伏さんは、「私はドリトル先生のさういふ風格に甚(はなはだし)く傾倒し、それで久しい以前からこの物語を翻訳してみたいと考へてをりました」と書いてくださっている。
井伏さんが「ドリトル先生」の訳をなさる間、創作の方の大きな支障になることを、私がひどく気にしていることを知っていらしって、井伏さんはそう書いてくださったのではないかと私は思っている。
『ドリトル先生「アフリカ行き」』は、戦争ちゅうにもかかわらず、日本の社会に迎えられ、戦後は、続篇が延々十二巻まで、井伏さんを文字通り煩わしつづけたから、私のいま言える本音は、「井伏さん、ごめんなさい。長らく創作のおじゃまをしました」なのである。 しかし、最初の巻だけをお手伝いした私から見ると、井伏さんは、あの本の翻訳ちゅう、かなりたのしまれたのでもあろうという気もしないではない。
「ドゥーリトル」名前は、下訳をもっていって、説明する私に、ずばり、「ドリトル先生にしましょう」とおっしゃっておきめになるし、「情況がおもわしくなく、好転するのを待つという意味の諺……」などと私が言い終わらないうちい、「待てば海路の日和(ひより)」と教えてくださるし、「頭が二つで胴体が一つの珍獣、押しっくらをしているけものの名」といえば、「オシツオサレツ」という言葉が井伏さんの唇から流れ出ていたのだった。
そのような質疑応答のあと、井伏さんは、原稿をかばんに入れ、旅行に出、それこそ徹夜で呻吟(しんぎん)してくださったようである。
そして、帰られると、そのたいへんさをしみじみ思いだしたというように、「ああ、この原稿は、きつかった。ああ、これには手を焼いた、はあ」というようなことを、ため息をついて呟(つぶや)かれるのであった。
――『井伏鱒二全集』月報 筑摩書房 1998年11月/abe
(『石井桃子コレクション Ⅴ エッセイ集』岩波現代文庫 2015年)
「児童文学者コーナー 石井桃子」(日本の子どもの文学 国際子ども図書館)今朝の父の一枚です(^^)/
藤の花が咲いていました。
タンポポの観察
家の近くに空き地があって、これまでにタンポポが咲いていたのを見かけたことがある人は、今年は、4月のはじめから、ちょっと注意して観察してみましょう。
4月になると、枯葉色の地面のあちこちに黄色いタンポポの花が顔を出します。
はじめは、点だった黄色は、みるみるうちに面となり、やがて空き地全体が黄色のじゅうたんでおおわれます。
そうして黄色のじゅうたんの間に点てんと白い綿毛帽子(わたげぼうし)が見られるようになると、1週間ほど、黄色いじゅうたんはすっかり消えて、空き地全体が綿毛帽子でおおわれます。
花のさかりのころ、タンポポ畑に入って一つの株をじっくり見てみましょう。
咲いている花はもちろん、しおれた花や株を手で分けると、地面に近い部分につぼみもみつかるはずです。
そのつぼみのあった株の場所をよくおぼえておきましょう。
そして毎日1回、5分ほど、1週間続けて観察すれば、今まで知らなかったいろいろなことに気づくはずです。
タンポポの花は、いつも野原一面に咲いているので、花の寿命はずいぶん長いような気もしますが、一つの花の咲いている期間は、わずか二日程度です。
次つぎとつぼみを出すので、いつも咲いているような気がするだけなのです。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)
















