花も花なれ 人も人なれ
達筆なので辞世の句を他の本から転記しました(^^ゞ 史蹟 越中井由来
ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました
慶長5年(1600年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中
反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず
石田三成に取り囲まれぜひもなく
家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています
昭和9年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄り
ガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです
碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で
側面(左側)の由来の説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起こして下さい
牧村史陽識
越中町会
細川ガラシャ夫人顕彰
頌徳会
町名継承碑
『越中町』
当町は明治初頭、大坂三郷北組の越中町二丁目の全域と越中町三丁目の一部であったが、明治5年3月越中町となり、同6年11月東成郡西玉造村字越中町となった。
同30年4月大阪市に編入され東区玉造大字西玉造の一部となり、同33年4月もとの越中町となった。
昭和54年2月住居表示の実施にともない、越中町は法円坂一丁目・森ノ宮中央二丁目・玉造二丁目の各一部となった。
町名は、細川越中守忠興邸のあったことに由来する。
平成5年3月
(文字盤が薄かったので読み間違えているかもしれません)
青刻昆布発祥の地 町名継承碑
『越中町』
当町は明治初頭、大坂三郷北組の越中町二丁目の全域と越中町三丁目の一部であったが、明治5年3月越中町となり、同6年11月東成郡西玉造村字越中町となった。
同30年4月大阪市に編入され東区玉造大字西玉造の一部となり、同33年4月もとの越中町となった。
昭和54年2月住居表示の実施にともない、越中町は法円坂一丁目・森ノ宮中央二丁目・玉造二丁目の各一部となった。
町名は、細川越中守忠興邸のあったことに由来する。
平成5年3月
(文字盤が薄かったので読み間違えているかもしれません)
昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は1721年(享保6年)頃と伝えられる。
文化年間に清国(中国)に試売し、1820年頃から販路を拡張、専ら大阪上町台地において製造していた。
1900年(明治33年)には、大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定されている。
今日大阪の昆布加工品は、なにわ名物として広く認められ、大阪の食文化に大きく寄与しており、1998年(平成10年)には大阪特産物品として国により認証された。
大阪昆布商工同業会(起源は明治34年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は、平成13年に百周年を向かえたのを記念してこの碑を建之する
平成13年3月建立
大阪昆布商工同業会
(裏面)
当地は、中嶋豊吉が青刻昆布製造業を営んでいたが、
昭和23年事業告示の区画整理事業により現在の越中公園になっている
大阪市 大阪カテドラル聖マリア大聖堂
大阪聖マリア大聖堂は、カトリック大阪大司教区司教座聖堂です。
司教座聖堂(カテドラル)とは、ローマ教皇が直接任命し教区を統治する司教が、公式行事の祭に座る椅子(座)のある聖堂という意味です。
1963年3月21日献堂式が行われ、平和の元后である無原罪の聖マリアに奉献されました。
そのときに撮られた航空写真では右奥に大阪城の天守閣が見えます。
大聖堂に隣接して写っている高い鐘楼は、1995年の阪神淡路大震災のときに被災し、撤去されました。
カトリック大阪大司教区 義の人 ユスト高山右近(1552-1615)
大聖堂正面左に立つユスト高山右近(たかやまうこん)の像は彫刻家・安部政義(あべまさよし)氏の作です。
高山右近は1552年、摂津(せっつ)の国高山で出生。
父飛騨守は当時伝来間のないキリスト教に改宗、右近もともに受洗し、ユスト(義の人の意)の洗礼名を受けました。
飛騨守父子は、高槻城主和田惟長(わだこれなが)を破り飛騨守が城主となり、その後、それを引き継いだ右近は織田信長や豊臣秀吉に仕えました。
しかし、1587年突如、秀吉の伴天連(ばてれん)追放令で大名の地位を失い、金沢の前田利家(まえだとしいえ)に客将として迎えられました。
1614年に徳川家康の禁教令でマニラに追放され、そこで病死しました。
地位も名誉も祖国も失う中で、右近が歩み続けたのは、キリストに従う義の人の道でした。
カトリック大阪大司教区 細川ガラシャ(1563-1600)
大聖堂正面右に立つ細川ガラシャの像は彫刻家・安部政義氏の作です。
ガラシャは1563年、越前国で明智光秀の三女として生れ、玉子(たまこ)の名をうけました。
1578年に織田信長の媒酌で細川藤孝(ふじたか)の長男、忠興(ただおき)と16歳で結婚しました。
しかし、1582年に父明智光秀による本能寺の変により、細川家は、光秀の娘である玉子を離縁し丹後味土野(みどの)に幽閉、謹慎の意を表しました。
1587年の豊臣秀吉による伴天連追放令の直後、忠興から外出を禁じられていた玉子は自宅で侍女清原(きよはら)マリアから洗礼を受けてキリスト教徒になり、信仰に生きる人となりました。
ガラシャ(恩恵の意)は、その洗礼名です。
カトリック大阪大司教区
「細川ガラシャ隠棲(いんせい)の地 味土野」(聖パウロ女子修道会) 大阪カテドラル聖マリア大聖堂
大聖堂は、建築面積2、480㎡、延床面積3,700㎡。
正面には日本画の泰斗堂本印象(どうもといんしょう)画伯の筆による、聖母子に福者ユスト高山右近殉教者(じゅんきょうしゃ)と細川ガラシャを配した大壁画を掲げ、東西の窓にはキリストの生涯の主要場面を写したステンドグラスがあります。
設計は長谷部鋭吉(はせべえいきち)氏。
2階のグランドパイプオルガンはオランダのL.Verschueren(フェルシューレン)社製の2,400本のパイプで美しい音色を奏でます。
カトリック大阪大司教区 ファティマの聖母と羊飼い(アリギーニ:作)
1917年5月13日ポルトガルのファティマで、フランシスコ・マルト(9歳)とジャシンタ・マルト(7歳)は、従姉妹(いとこ)ルチア・ドス・サントス(10歳)と、羊の群れの世話をしていました。
そこに、ロザリオを手にした輝く婦人が現れ、罪人の回心のために祈るようにと告げました。
羊飼いたちはこの聖母マリアの出現を10月までの間、計6回にわたって受けました。
ここに展示されている場面は、聖母マリアが羊飼いたちにメッセージを伝えているところです。
2017年5月13日現地で、聖母出現100年を祝うと共に、フランシスコ・マルトとジャシンタ・マルトの2人の羊飼いが聖人の列に加えられました。
聖母マリアと心をあわせて祈りましょう。
カトリック大阪大司教区カトリック玉造教会から歩いていくと大阪明星学園の向かいにあるのが
鎌八幡(圓珠庵)
「境内全域撮影禁止」になっています。
願い事を書いた絵馬がたくさん下がっていましたが
他の社寺では、絵馬に書いた願いごとが見えたりしていたのですが
鎌八幡では、見えないようになっていました。
「契沖(けいちゅう)旧庵(円珠庵<えんじゅあん>)跡ならびに墓 史跡」(大阪市) 円珠庵(えんじゅあん)
契沖ゆかりの地 悪縁断ちの祈禱寺
…前略…
明星(めいせい)学園前の交差点に面して、円珠庵(契沖<けいちゅう>旧庵ならびに墓、国史跡)がある。
円珠庵の前を東西に延びる坂は三韓坂(さんかんざか)とよばれ、奈良時代玉造にあった三韓館(みつのからくにのむろつみ)に通じる道であった。
その脇に1本のエノキの霊木があり、人びとの信仰を集めていた。
大坂冬の陣(1614年)のとき、真田幸村が当地に陣所を構え、この信仰を伝え聞いて、エノキに鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩(かまはちまんだいぼさつ)と唱して祈念したところ、おおいに戦勝をあげたという。
1690(元禄3)年、この鎌八幡の境内に、和学者(わがくしゃ)として有名な高僧契沖阿闍梨(あじゃり)が居住し、円珠庵と称した。
そして、徳川光圀(みつくに)の命により、長年の師でもあり、友人でもあった下河辺長流(しもこうべながる)にかわって『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』を著すなど、古典・古歌の研究に専念したと伝えられる。
その研究態度は、客観的・実証的な文献学的方法によるもので、古典研究史上に新時代を画したといわれている。
約10年間にわたって、この庵で著述や「万葉集」の講義を行ったが、1701年に没した。
境内には契沖の墓のほか、下河辺長流の墓もある。
なお、契沖の墓所は、その菩提を弔う意味で、毎年1月25日にのみ墓参ができる。
また、契沖が深く鎌八幡を信仰したことから、祈禱(きとう)寺として人びとの信仰が広まり、山門入口の霊木エノキには、いくつもの鎌が打ち込まれて赤錆(さ)びている。
これらの鎌は、病気・対人、そのほかもろもろの悪縁を断つための願掛けだという。
1922(大正11)年に、境内全域が大阪市では最初の国指定史跡となったが、境内の大部分は第二次世界大戦による戦災で損壊し、戦後に復興されたものである。
…後略…
(『大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊野・三島』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年) 浄土宗 大應寺
柵が閉まっていて入れなかったのですが
ここに眠っておられるのが 木村蒹葭堂(きむらけんかどう)
木村蒹葭堂は元文元年(1736年)、現在の西区北堀江に誕生。
大坂の陣で勇名を馳(は)せた後藤又兵衛(ごとうまたべえ)の子孫と伝わる。
幼少より大岡春卜(おおおかしゅんぼく)、柳沢淇園(やなぎざわきえん)、片山北海(かたやまほっかい)、池大雅(いけのたいが)、売茶翁(ばいさおう)、小野蘭山(おのらんざん)らに師事し、漢詩、書画、本草学、物産学、儒学、茶事などに精通。
優れた才能を発揮し、大坂を代表する博学者となった。
家業で酒造り(坪井屋<つぼいや>)を営む傍ら、本草学者、文人、出版家でもあり、更に古今の珍しい書籍や地図、貝、石、茶道具などのコレクターとしても名をとどろかせた。
博物館のようであった居宅には、知識人が絶えず訪れ、その様子は、約24年間に渡り綴られた「蒹葭堂日記(けんかどうにっき)」に記されている。
青木木米(あおきもくべい)、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、上田秋成(うえだあきなり)、太田南畝(おおたなんぽ)、司馬江漢(しばこうかん)、大典顕常(だいてんけんじょう)、頼山陽(らいさんよう)などもその一角である。
来訪者の記録は、彼が一大交流サロンの主(あるじ)であった証(あかし)であるとともに、現代でも様々な研究に欠かせない資料となっている。
享和(きょうわ)2年(1802年)正月25日(太陽暦2月27日)没。享年67才。当山に土葬。
戒名は、蒹葭堂巽齋孔恭世粛居士(けんかどうそんさいくくせしゅくこじ)。
墓碑は伊勢長島藩第五代藩主増山雪斎(ましやませっさい)の撰(せん)。
生涯を通し、極めて広い分野で博識を有するだけでなく、いつも和顔愛語(わげんあいご)で温厚な人柄も人を惹(ひ)きつけたと思われる。
当時には珍しい笑顔の肖像画がそれを物語り、多大なる業績より、現在「なにわの知(ち)の巨人」と称される。(山門左側)
【大阪市指定文化財 史跡】
「なにわ大坂をつくった100人 足跡を訪ねて 第18話 木村蒹葭堂」
「真田丸顕彰碑」
慶長5年(1600年)の関ケ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。
父昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。
これが「真田丸」で、幸村は慶長19年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。
「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年~1704年)に作成された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。
今はグランドになっているため、かつての面影は全く失われているが、眞田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。
平成28年1月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園
題字 脇田 龍峯大阪明星学園グランドの向かいにあるのが
「心願寺(しんがんじ)」(大阪観光局)
従五位下
真田左衛門佐豊臣信繁(さなださえもんのすけとよとみのぶしげ)之墓
慶長20年 5月7日
於 摂州大坂討死 49歳
墓碑銘 歴史地理史学者 中村武生(なかむらたけお)
書 松本笙絢(まつもとしょうけん)
真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸(まさゆき)の次男、通称は源次郎(げんじろう)、号は好白。
関ケ原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。
14年間、蟄居生活(ちっきょせいかつ)を送り、慶長19年(1614)豊臣方に参加した。
大坂冬の陣では、難攻不落(なんこうふらく)の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構(そうがまえ)の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を置く。
徳川本隊と戦い、徳川家康に迫るも力尽き、越前兵に安居神社(やすいじんじゃ)付近で討ち取られたと伝えられる。 真田信繁は、一般に「幸村(ゆきむら)」として知られる。
しかし、現在最後とされる慶長20年3月19日付の書翰(しょかん)にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。
徳川時代中期にあたる18世紀のなかばごろには、「幸村」の呼称が流布していた。
本墓碑は、生前の確実な諱(いみな)である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始(そうし)したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次(ひでつぐ)ら親族のほか、毛利輝元(もうりてるもと)や徳川秀忠(とくがわひでただ<おそらく家康も>)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提(ぼだい)を弔っている。
信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。
平成26年(2014)10月吉日
真田山 心願寺龍馬ファンには……(^_-)
京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)
桂早之助(かつらはやのすけ)・渡辺吉太郎(わたなべきちたろう)・高橋安次郎(たかはしやすじろう)
桂早之助利義(としよし)は、天保12年(1841)4月、代々京都所司代組(しょしだいぐみ)の同心(どうしん)を務める家に生まれた、京都在住の幕臣(ばくしん)である。
剣術は西岡是心流(ぜしんりゅう)を修め、京都文武場(ぶんぶじょう)の剣術世話心得(こころえ)を務めている。
慶応3年(1867)2月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、7月には肝煎(きもいり<小隊長クラス>)に昇進した。
見廻組の主な任務は、新選組と同じく京都の治安を守ることにあるが、見廻組の方は、全て幕臣による組織である。
渡辺(邊)吉太郎は、天保14年(1843)に江戸で生まれた幕臣である。
直心影流(じきしんかげりゅう)を学び、神奈川奉行支配組同心となった。
その後、元治元年(1864)には見廻組に推挙され、京都に来た。
慶応年間の見廻組肝煎を列記した名簿に名が掲載されている。
高橋安次郎も、天保13年(1843)に江戸で生まれた幕臣である。
高橋の名は、元治元年の見廻組名簿に記され、伍長(ごちょう)を務めていた。
慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された。
箱館戦争終結後、新政府に捕らえられた元見廻組肝煎、今井伸郞(のぶお)の供述によると、見廻組与頭(くみがしら)佐々木只三郎(ささきたださぶろう)を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃した。
その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名がある。
慶応4年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦った。
桂は下鳥羽(したとば)で左股に銃創(じゅうそう)を受け、4日に戦死している。
遺体は戸板に乗せられて同僚の手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られた。
享年28歳。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」である。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、5日に戦死、本寺に葬られた。
享年26歳。墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しい。
高橋も5日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。
享年27歳。「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していたが、現在、墓石は残されていない。
裏面には「慶応四年戊辰夭(ぼしんよう)正月五日」と刻まれていたと伝わる。
<参考文献>
「坂本龍馬を切った男 見廻組・桂早之助の履歴」
「戊辰之役東軍戦死者及殉難者人名」「桂早之助と京都見廻組」
「京都見廻組史録」「実録 龍馬討殺」
平成25年4月 真田山 心願寺
…つづく…


















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