2026年4月28日火曜日

命婦稲荷社・鉄輪井~松原橋(4月26日)

場所が分からず、この通りかなと行ったり来たりしても見つけられなかったので
地元の方にお聞きすると隣りの通りだと教えてもらいました。

民家に挟まれた路地に入っていきました。
写真を写そうとしたときに女性が出てこられて
しっかりした紙に印刷されたプリントをくださった。
書かれていた説明を転記します。
 鉄輪の伝説(鉄輪井・鉄輪塚・鉄輪社) 

 むかし、火鉢や囲炉裏に置いて、鍋や薬罐(やかん)をかける三本足の五徳(ごとく)のことを、鉄輪(かなわ)とよんでいました。
能にも『鉄輪』(伝・世阿弥作)の謡曲(ようきょく)があります。
下京(しもぎょう)に住む女が、自分を捨てて後妻をめとったことを恨み、貴船神社に、丑刻詣(うしのこくまいり)をしていますと、鉄輪を頭にのせ、三本の足に火をともし、怒りの心をかきたてると、鬼になれると、お告げがありました。
夫は、それ以来、悪夢に苦しみ、安倍晴明に占ってもらうと、今夜、命を失うということです。
それで、調伏(ちょうぶく)の祈祷(きとう)をうけていると、女の鬼が現われ、夫をつれていこうとしますが、三十番神(さんじゅうばんじん)に追われ、苦しみながら去っていきます。
 貴船川 鉄輪の火かや 飛ぶ蛍(俳諧『犬子集(えのこしゅう)』三・蛍)

 多くの文学や歌曲などに、影響を与えてきたのも、この鍛冶屋町(かじやちょう)の「鉄輪井(かなわのい)」です。
この鉄輪の女が、安倍晴明に調伏され、ついに、この鉄輪井のあたりで、息が絶えてしまったと言いつたえています。
それで、鉄輪とともに霊をとむらい、「鉄輪塚(かなわづか)」を築いたもののようです。
昭和10年、鉄輪井の横にまつられている町内の氏神、命婦稲荷社(みょうぶいなりしゃ)を再建(さいこん)するときに、鉄輪井も、「霊泉(れいせん)」として残すため、板の井戸枠を板石にあらため、屋根をかけました。
その地ならしのとき、土の中から「鉄輪塚」の石碑(いしぶみ)が発掘され、「鉄輪社(かなわしゃ)」の小祠(しょうし)をつくり、鉄輪大明神の御神体として納め、命婦稲荷のよこに、まつっています。
 むかしは、この鍛治屋町を、「鉄輪町」(『京雀(きょうすずめ)』寛文5年<1665>刊)とも呼ばれ、よく知られていたようです。
また「鉄輪井」を、「縁切井戸(えんぎりいど)」としても有名でした。
この井戸水を飲ますと、相手との縁が切れるといわれ、遠くからも、この井戸水を汲みにくる人がありました。
それで、井戸に、絵馬やお花が供えられていたと聞いています。
いまは、地下鉄工事などの影響で、水が涸れてしまいました。
それでも、ペットボトルに、水を入れてきて、「鉄輪井」に供えて祈り、もちかえる人もあるようです。
 この「鉄輪」の伝説は、この町の南の本塩釜町(もとしおがまちょう)にあったとする六条御息所邸(ろくじょうみやすどころてい)の生霊(いきりょう)、北にある夕顔町(ゆうがおちょう)など、『源氏物語』の影響もあったようです。
また、「ある公卿(くぎょう)の女(をんな)、余りに嫉妬ぶかくして、貴船の社に詣(まう)でつつ」(『平家物語』剣巻<つるぎのまき>)などのあらすじと重なり、謡曲の『鉄輪』が生まれ、鍛治屋町の「鉄輪」伝説ともなったようです。
  鉄輪塚(かなわづか)

  伝ヘ言フ。昔、嫉妬ノ女(をんな)アリ。ヒトヲ呪詛(のろ)ヒテ、夜毎(よごと)、丑ノ時、社参ス。終(つひ)ニ、此(こ)コニオイテ、気疲(きつか)レテ死ス。シカフシテ、ソノ霊荒ルルヲモッテ、戴クトコロノ鉄輪ヲモチテ、塚ヲ築きて、コレヲ祭ると言フ。
  『三州名跡志(さんしゅうめいせきし)』巻十七(沙門白慧<しゃもんはくえ>、元禄15年<1702>三月自序)

 …中略…

  平成16年(2004)改訂
 ―詩人・国文学者 相馬 大(そうま だい)氏監修―
   京都市下京区堺町通松原下る
    鍛冶屋町 敬神会
ぽたぽたと水音がするので井戸からかなと思いましたが、
振り向くと手水がありました。

 「鉄輪ノ井」由来 

 謡曲「鉄輪」は、男に捨てられた市井の女が、貴船へ〝丑ノ刻詣り〟をして、相手の男と、その後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は〝鉄輪の女〟が住んでいたところのものだといゝ、一説には身投げをした井戸ともいわれています。
このような伝説から「縁切り井戸」として、井水を汲んで相手にのませると、悪縁が切れるなどの俗信がありました。
昭和10年には「霊井」となっています。
 なお、かっては鉄輪できずかれた塚があったということです。

            謡曲史跡保存会

演目事典:鉄輪(かなわ)」(the能.com)
命婦稲荷・鉄輪井への入口は、閉まっていますが鍵はかかっていません。
ここに来る途中や先に進んでいたら伏見稲荷大社の旗が掲げられていたのですが
プリントを下さった方が命婦稲荷などは伏見稲荷大社から勧請してお祀りしていると教えてくださった。
伏見稲荷大社の神幸祭(しんこうさい)は、
京都駅周辺~松原通まで拡がる氏子区域を巡幸して還御するそうです。
入口にある石標「鉄輪跡
ここから貴船神社まで毎夜毎夜、丑刻詣りをするには、鬼にでもならないとできないでしょうね……
朝ドラ「ばけばけ」の第1話を見て、思い出したのが、この「鉄輪」でした(^_-)
通りへの 曲がり角に小祠がありました。

「鉄輪」のことを知ったのは、馬場あき子さんの『鬼の研究』(ちくま文庫 1988年)
私の持っている本は1997年の第11刷です。
何度か読み返す内にカバーがなくなり、ページが離れ離れになりそうなんだけど
読み返す度に新鮮な気持ちになります。
当時は、馬場あき子さんのことを歴史研究家だと思っていました。
歌人でもあり様々な分野で活躍されているのを知ったのはだいぶ後のことです(^^ゞ
酉歳一生の守本尊」とあったのが

 明王院不動寺(みょうおういんふどうじ) 

 青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で、俗に「松原不動」という。
 持統天皇5年(691年)に、道観大徳(どうかんだいとく)が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の「石不動明王」を安置してから現宗に改まったといわれている。
平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の四つの磐座(いわくら<石蔵>)に経巻を収めたが、明王院はその四岩倉の一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。
 天暦年間(947~957年)、賀茂川氾濫に遭い、堂舎はことごとく流没し、一時比叡山の苔莚法師(たいえんほうし)によって再興されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋れてしまった。
 天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王を得て、聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので、霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し、これを再び奉安したという。
   京都市
 2 鴨川・河原町通に沿って
 
 …前略…

平安末期、この付近から太郎焼亡・次郎焼亡とよばれる大火災が発生している。

◎太郎焼亡(たろうしょうぼう)と次郎焼亡

 太郎焼亡は1177(安元3)年4月28日のことで、「五条大橋のやや南西の樋口富小路(ひぐちとみのこうじ)には病人を収容した小屋があり、ここから28日夜8時頃火を発し、折りからの烈風に火の手は扇をひろげたように西にひろがり、遠くの人々は煙のために進退を失い、近くの人々は迫りくる火におののいた。灰は舞い上がり、紅の炎が前後左右に上がった。その結果、京の3分の1が焼けて内裏(だいり)の大部分と多くの公家(くげ)の邸宅、宝物の多くを焼失した。民家の焼失はその数を知らず、死者数千人、牛馬のたぐいは際限もなかった」。
(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
鴨長明(かものちょうめい)は時に25歳、後年『方丈記』にくわしく書きとどめている。
大極(だいごく)殿は再建されることなく、律令政治の終末を暗示し、8月、治承と改元された。
次郎焼亡は1178(治承2)年4月24日のことで、太郎焼亡から1年もたたないうちに、やや南の七条東洞院(ひがしのとういん)から火を発し、西に延焼して朱雀(すざく)大路に及んだ。
(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)

『方丈記』にみる三つの災害」(フィール・ミュージアム京都)

4月29日(水)午前10時5分から再放送がある
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「なぜ“神さま 仏さま”なのか
その中で磯田道史さんが『方丈記』を解説されていました。
 松原橋(まつばらばし) 

 松原通は平安時代の五条大路であり、当初は嵯峨天皇の勅命により橋が架けられたともいわれる。
清水寺の参詣道でもあったことから、人の往来が多く、大変賑わった都の目抜き通りであった。
 元来、この地に架かっていた橋が五条橋であり、通りの両側に見事な松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれていた。
 安土桃山時代、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり、この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え、五条橋と称した。
そのため、この地の橋の名前からは「五条」が外れ、以後、松原橋と呼ばれるようになった。
 この通りは、歴史的・伝承的に話題が豊富である。
伝説に謳われる牛若丸と弁慶の決闘、「京の五条の橋の上」は、当地のことを指す。
 また、この橋を東へ進むと清水寺に行き着くが、途中、冥界へ通じると言われる井戸で有名な六道珍皇寺がある。
 現在架かる橋は、昭和10年(1935年)鴨川の大洪水のよる東海流出後に架け替えられたものである。
    京都市

昭和10年の鴨川大洪水とその後の治水対策について」(京都府)

 …つづく…

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