2026年4月22日水曜日

善福寺~真田山陸軍墓地~三光神社(4月19日)

門前に母子の姿(お弓とおつる)
どんどろ大師が舞台になっています。

傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると) 巡礼歌の段」(清和文楽館)

淡路人形浄瑠璃 3人が呼吸を合わせて操る人形芝居」(NHKアーカイブス 2006年)
 (日露戦争の病死者を慰霊する勝軍地蔵

どんどろ大師

 …前略…

 その空堀町の一画に建つ「善福寺」に、浄瑠璃の『傾城阿波鳴門』でも知られる《どんどろ大師》の祠がある。
〝どんどろ〟とは変わった名前だが、そのもとは「土井殿のお大師」。
空堀町の手前の清水谷町には、江戸時代に大坂城代の下屋敷が設けられ、〝清水谷屋敷〟と称された。
どんどろ大師は、天保5年(1834)から8年まで大坂城代を務めた土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)が清水谷の屋敷内に弘法大師を祀り、一般の人々の参詣も許した。
そこで〝土井殿のお大師〟と呼ばれたものが、いつしか〝どんどろ大師〟と訛って呼ばれるようになったという。
 昭和30年代まで門前の細い辻にあったが、現在は寺の境内の小ざっぱりした祠に祀られている。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)
 坂を上がっていくと

 真田山陸軍墓地 

 本墓地は、1869年(明治2年)から1870年にかけて我国陸軍の中枢機関が次々と大阪に創設されたことに伴って、1871年(明治4年)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、現在の面積は約15,090平方メートルあります。
このような陸軍墓地は戦前、全国で80箇所以上つくられましたが、それらの中で最も大きな規模を持つ真田山陸軍墓地は終戦当時の景観をよく残していると言われています。
 終戦に伴い1945年(昭和20年)12月陸軍省が廃止され、大蔵省の所管する国有財産となりましたが、1946年(昭和21年)8月に大蔵省との国有財産無償貸付契約により、貸付を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。
 墓地内には、1873年(明治6年)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、先の大戦終結後に設置された墓碑を含め、約5、100基の個人墓碑、日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬碑並びにアジア太平洋戦争の戦病没将兵約8,200人の遺骨等を納めた納骨堂があります。
また、軍役夫や日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の特徴となっています。
 これまで、二回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や納骨堂をはじめとする当墓地に関する学術調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。
 当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき公益財団法人真田山陸軍墓地維持会が、毎年10月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会による当墓地に関する調査・研究、史料の公開や見学者に対する案内等、多くのボランティアの皆様に支えられながら、墓地の除草・清掃を行い環境維持活動や傷んだ墓碑の修復・保存のための事業を行っています。
 ここに訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、そしてそこに刻まれた文字を読み取るとき、必ずや平和の尊さを実感されるものと存じます。

 2016年(平成28年)3月
   公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会
        理事長 
 第Ⅰ部 墓碑から見つめる日本の軍隊、そして戦争
 第四章 陸軍少将今井兼利の墓
 5 死去の状況
 『大阪朝日新聞』の記事


 明治23年(1890)9月16日付の『大阪朝日新聞』に1ページ目四段抜きの関連記事があった。
 見出しは「●今井少将拉病に罹る」である。
記事によると、9月8日に第七旅団長の今井少将は副官を連れて十日間の予定で第八聯隊各大隊の野外演習を視察した。
14日に大阪府の茨田郡、兵庫県の明石郡で視察を終え、汽車で泉郡(大阪府)に向かって移動しようとしていた。
 午後4時30分に神戸着。
休憩のため、海岸通三丁目の中居平次郎方に着いた時、コレラの症状が出た。
ただちに兵庫県の検疫官や県立病院長が今井少将の元にかけつけた。
劇症との診断が旅団司令部と家族に電報で知らされた。

 …後略…

(『陸軍墓地がかたる日本の戦争』小田康徳他編著 ミネルヴァ書房 2006年)
 6 幕末・明治のコレラ流行
 コレラの流行
 

 …前略…

 今井少将が死去した明治23年9月17日の『大阪毎日新聞』には、大阪府内のコレラ情報が寄せられている。
「●虎列刺(コレラ)新患者(一昨日)西区五拾人・西成郡四拾人・南区参拾二人・北区拾九人・南郡拾二人・東成郡九人・東区九人・茨田郡八人・堺市六人・住吉郡二人・豊島郡二人・渋川郡二人・嶋上郡二人・日根郡二人・大鳥郡二人・丹北郡二人・嶋下郡一人・八上郡一人(合計二百一人)。初発よりの患者を合計すれば四千七拾八人、死亡者は三千四百八拾二人、全治は四百五拾七人なり。」とあり、累計の死亡率は85パーセントに達している。
 記事のすぐ下には「コレラ病患家ニ注グ」という医者の広告や、「勝利丸」・「整腸丸」などの薬のほか「睡眠術で治す」・「熱湯で食塩を服用する」などの記事があり、交通遮断も行われた。
世間にパニックが広がっていた。
(『陸軍墓地がかたる日本の戦争』小田康徳他編著 ミネルヴァ書房 2006年)
登録番号019
 旧真田山陸軍墓地 大阪市
 戦いが生んだ無数の別れ
 木下直之

 墓参りばかりしている。
 昨年の冬も、金沢の野田山陸軍墓地、函館護国神社の「新政府軍の墓地」と巡ってきた。
 大阪の旧真田山陸軍墓地を訪れたのは大分前のことだが、住宅地を抜けて足を踏み入れたとたん、見渡すかぎりの墓碑に圧倒されたことを今もあざやかに思い出す。
国立歴史民俗博物館が8年前に行った調査では、実に5299基の墓碑を確認したという。
 金沢でも函館でも、そしてこの大阪でも、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争といった明治期半ばまでの戦争で死んだ兵卒の墓碑は小さく、1メートルに満たない。
しかし、小さくともそれは一人ひとりの墓であり、名前と階級はもちろん、出身地、没地、死亡年月日、行年などを丁寧に刻みつけている。
 丁寧に祀(まつ)らなければならない理由が、当時の明治政府にはあった。
徴兵制を設けたことで、国民の誰もが、武士の子ばかりでなく、農民の子や商人の子までもが戦う時代になったからだ。
彼らが命を落とせば、戦場へと駆り出した国には、遺体を手厚く埋葬し、その魂を祀り続ける責務が生じる。
(『勝手に関西世界遺産』桂小米朝他 朝日新聞出版 2006年)
 ところが、日露戦争からは、戦死者が途方もなく増えてしまった。
もはやそんな悠長な埋葬では追いつかず、合葬が多くなる。
忠魂碑や忠霊塔のような十把一絡げの慰霊碑が数多く登場するのも、そのころからだ。
 墓碑に刻まれた出身地は全国にわたり、「村」がやたらと目につく。
いうまでもなく、20歳代の若者が多い。
 墓地を訪れ、そうした身も知らずの死者の前に立ち止まり、「対話」だとか「交感」だとか気の利いたことはいわないが、石に刻まれた文字をゆっくりと目で追う時間を過ごしたいとしきりに思うのは、私自身が子どもを戦場へ送り出した親の年代に達したからだろう。
 最近、春風亭柳昇の『与太郎戦記』(ちくま文庫)を読んだ。
入営の前夜、父親が風呂で息子の背中を流す場面が忘れられない。
柳昇のそれは日中戦争へと出征する1941(昭和16)年の話だが、遠い明治の戦争でも、無数の親子の別れがあったに違いない。
 旧真田山陸軍墓地では、風化による墓碑の剥落(はくらく)が急速に進んでいるという。
刻まれた文字が読めなくなることは、近代日本の記憶を失うことでもあるだろう。
(『勝手に関西世界遺産』桂小米朝他 朝日新聞出版 2006年)
お墓を覗いているのではありません(^_-)
 「真田の抜け穴跡

大阪「真田の抜け穴」は庶民の誤解?  徳川方の塹壕説も〟(日経新聞 2023年12月7日)

の記事を読んでいて発病前2011年7月3日に九度山を訪ねた時に出会ったのが
 「真田古墳(真田の抜け穴伝説)
ネットで検索するといろいろと記事があります(^_-)
登録番号69
 真田伝説の里 和歌山県九度山町 
 いざ大阪!? 幸村の抜け穴
 旭堂南海

 高野山の麓(ふもと)、和歌山県の九度山(くどやま)町には穴が開いている。
2メートル×1メートルほどの長方形の口がポッカリと。
深さは2メートルほどあり、穴は横へと続き、先は真っ暗でわからない。
パーマ屋とよろず屋の向かいの道路脇に、風景に溶け込んで開いている。
 町の古老たちは「眞田幸村公の抜け穴」と呼んでいた。
「大阪までつながっているんや」と、代々ひそかに教えられてきたらしい。
 ところが近年、「あれは短い穴で、どこへもつながっていない」という見方が主流となってきた。
学者がわざわざ穴に入って調査し、「横穴式古墳のなれの果てである」などと町の人々に知らしめた。
 嘆かわしいことである。あえて言う。
「穴はつながっているのであるッ!」しかも大阪へ。
この時点で「そんなアホな」と思う人は、真の大坂方ではない。
(『勝手に関西世界遺産』桂小米朝他 朝日新聞出版 2006年)
 でも、念のため、穴の歴史をお話ししよう。
憎きタヌキ親爺・徳川家康が大坂を攻めたのが大坂冬の陣・夏の陣。
これで豊臣家は亡び、徳川幕府が完全に成立した。
時に西暦1615(元和1)年と、学校の歴史の授業で習ったはずだ。
 それは表の歴史。徳川の、そう東京から見た歴史。
歴史には穴がある。穴にこそ真実がある。
関西人なら穴を見なければならない。
 豊臣家は不滅であった。
何しろ、軍師に眞田幸村公がついていたのだから。
幸村公は合戦前夜、九度山に蟄居(ちっきょ)させられていた。
が、ついに大坂のため、豊臣家のために立ち上がった。
「大坂城へ行こう」。
徳川方に見張られていたので表だっては入城できない。
そこで穴を掘った。
深く静かに速やかに大坂目指して。
「時来たれりッ」。穴へと飛び込んだ。
たちまち大坂城内に到着したはずである。
彼の後からは猿飛佐助(さるとびさすけ)・霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)を始めとする真田十勇士たちも出てきたに違いない。
入城後も、冷静な幸村公は万が一の時を考えて、すぐに大坂の地下一面に抜け穴を掘った。
 で、いよいよ落城となった時には、豊臣秀頼公の肩を抱いた幸村公は捲土重来(けんどちょうらい)を誓い、穴へと入り、落ち延びていったのである。
その跡を活用したのが、大阪市営地下鉄にJR東西線、キタやミナミの地下街なのだ。
他言は無用であるぞよ。
 現代の大阪の原点は九度山にあったのである。
我らは今こそ、定かではなくなっている大阪側の出口を探そう。
まずホームセンターでスコップを買おう。
それは大阪が「真の大坂の歴史とロマン」を手にする突破口になるはずだ。
(『勝手に関西世界遺産』桂小米朝他 朝日新聞出版 2006年)

人形劇 真田十勇士」(NHKアーカイブス 1975~1976年度)
 三柱神社(三光神社) 中風封じの神様 

 天王寺区の宰相山公園にあり、一般には三光神社の名称で知られている。
 仁徳天皇、天照大神、月読命、素盞嗚命を祀る。
社伝によれば、寛文元(1661)年に南東方向にある鎌八幡の隣りに遷り、その後宝永3(1706)年に再び現在地に戻ったという。
古くは日月山神社とも、現社地が姫山であったことから姫山神社とも言ったらしい。
(『森琴石と歩く大阪 明治の市内名所案内』熊田司・伊藤純編 東方出版 2009年)
 三光神社の名称についていくつかの辞書は次のように説明している。
明治41(1908)年に陸奥国青麻の三光宮の分霊を勧請・合祀した。
三光宮は俗に中風封じの神として有名だったので、多くの老人が参拝し、三光さんと呼ばれているうちに三光神社となったとある(『大阪史蹟辞典』)。
 しかし、この『大阪名所独案内』(明治15年)には「三柱神社……世は三光宮と称す。当社は陸前国宮城郡青麻に在せる神を遷し祀る處にて、此神を崇信なせば中風の病難を免ずると言い伝えて、歩を運ぶもの多し」とあり、明治の初めにすでに三柱、あるいは三光神社と言われていたことが分かる。
 以下は、三柱あるいは三光神社についての私の憶説。
古くは日月山神社とよばれていたことがカギになる。
日と月と山の三つの神さまで三柱神社。
三柱の神が日と月と星の三つの光に転じて三光神社とも呼ばれたのではなかろうか。
明治15年以前に陸奥国の三光宮が勧請されており、これが中風除けの神であることから、参拝者が増加していったのだろう。
 日月星、「ひー・つき・ほし」これが「ホーホケキョ」に通じ、三光鳥が鶯の意となる。
鶯といえば良き鳴き声の筆頭。
三光神社の境内に浄瑠璃連中から寄進された石鳥居がある。
良き声の三光鳥=鶯にあやかり浄瑠璃の上達を願ったのだろうか。
 というような根拠の薄い話は別にしても、三光神社は良い所。
玉造駅から歩いて数分、木々が茂り環状線の内側と思えない静けさがある。
とくに桜の頃は最高。
何も持たず身ひとつ、通り抜ける商店街でお花見に必要なものを準備しながら神社へ向かうことができる。
たぶん次の春も三光神社の桜の下で、良い心持ちの私がいることだろう。
         (伊藤純)
(『森琴石と歩く大阪 明治の市内名所案内』熊田司・伊藤純編 東方出版 2009年)

石碑に
 子狐のかくれ貌なる野菊哉 蕪村
さきほどの寿老人の隣りにあった石碑には

遠く生駒金剛の連山をみはるかす景勝のこの地に永くその由緒ある三光神社の御門として誇っていた鳥居も過ぐる第二次世界大戰の戰火を被りその片柱のみをとゞめた
われわれはこれに世界の平和と國家の安泰を祈願して残すことゝする
さらに今般有志が相寄り新たにこの鳥居を奉納し由緒ある三光の大宮の御門とする次第である
  昭和四十七年七月
  三光神社奉賛會


三光神社境内図
 国家安泰平和祈願

(裏面)
 昭和二十年六月戰災を蒙り倒壊その片柱をここに留む
       三光神社奉賛会 
 

 第三章 六月空襲の激烈性
  2 白昼の暗黒と炎
  6・1大空襲の被害


 六月は空襲がことのほか激しかった。
「空襲の期間を通じ、大阪市に住んでいた人びとは、1945年3月13~14日、6月の1日、7日、15日の空襲を、〝大阪の四大空襲〟と称している」とは、米国戦略爆撃調査団の「大阪における空襲防ぎょ、その関連事項に関する現地報告」に記されている言葉である。
当時大阪に住んでいた私にとって、この四大空襲の記憶はきわだった鮮烈である。
しかも、そのうち三つまでが6月前半に集中していた。
そして、大阪は壊滅した。

 …後略…

(『改訂 大阪大空襲 大阪が壊滅した日』小山仁示 東方出版 2018年)
玉造から環状線で京橋へ
京阪京橋駅にあるお店で甘いものをいただいてホッとしたました(^_^)v
電車の中などで読んでいたのは『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院
この本を読んだきっかけは

神田錦町更科さんの投稿(4月17日)

大手町の平将門公の首塚がバズっていますが、遊び半分や心霊情報を流したらバチが当たる程の霊力を持った場所です。

 …後略…
  (画 像
アクセスして、投稿の続きを読んでみてください(^^)/

平将門の首塚 不思議な畏怖がわくパワースポット」(NHKアーカイブス 2015年)

朝ドラ「ばけばけ」でも明治になり「文明開化」のなのもとに、伝説や言い伝えを、俗信と否定されていましたが
これまで長らく伝えられてきたことに意味や背景があると思います。
また、日本人の多くが宗教について曖昧であることの良さもありますが
霊感商法に簡単に騙されるというのも
宗教の果たす役割をちゃんと考えていないからかもしれません。
澤田瞳子さんが『京都はんなり暮し』で
夏――納涼・甘味噺(ばなし)」に紹介していたのは文の助茶屋本店です。
ここのかき氷は氷が細かくておいしい」と仰っているのが「かき氷

こちらは京橋モールの店です。
町歩きで暑かったので冷たい物がほしくなるのですが
熱い「白玉ぜんざい」(858円)をフウフウ息を吹きかけながらいただきました(^。^)

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m