2025年3月22日土曜日

検査の後、墓参り

来週、循環器科の診察があるので事前に血液検査と尿検査を受けてきました。
朝食抜きで受けたので会計の計算が終わるまでの間に病院内の喫茶室で朝食。
検査を待っている時間などに読んでいたのが
水凪トリさんの『しあわせは食べて寝て待て 第1巻
読みたくなったのは
4月1日から始まるドラマ10「しあわせは食べて寝て待て」の原作。
ちなみに朝ドラ「虎に翼」に出演されていたお二人が共演される(^_^)v
ドラマ10「しあわせは食べて寝て待て」 新たな出演者決定のお知らせ
帰宅後、母(左)と義弟、祖父、祖母(右)が眠る四天王寺さんの「納骨総祭塔」へ
22日は、太子会(聖徳太子忌)、四天王寺の縁日。

聖徳太子の命日は、
2月22日 推古30年(622.4.8) 
聖徳太子、斑鳩宮(いかるがのみや)で没(49、推古天皇の摂政皇太子)(法隆寺釈迦如来像光背銘・天寿国曼荼羅繍帳銘)(『日本書紀』では、前年2月5日とする)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

聖徳太子御廟所の叡福寺では4月11日(旧暦2月22日)に「大乘会法要(会式)」が執り行われます。

 会津 八一(あいづ やいち) 歌碑

うまやとの みこのみことは いつのよの
 いかなるひとか あふかさらめや
        会津朔敬 題

 昭和58年(1983)建立

今日、四天王寺を訪ねたかったのは「太子殿(聖霊院<しょうりょういん>」の奥にある「守屋祠」をお参りすることです(普段は、入れません)。

私の中学や高校の頃は、聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我入鹿が崇仏派で物部守屋が廃仏派と習った。
でも、現在は、発掘調査などで物部守屋への評価が変わっているようです。
 仏教公伝 
  「国神」と「蕃神」
 倭国朝廷の反応
 

 …前略…
 この記事(『日本書紀』巻19、欽明天皇13年10月条)については、古くからの通説理解がある。
崇仏(すうぶつ)派蘇我氏対廃仏(はいぶつ)派対物部氏の対立が、ここから始まったという理解である。
だがそれはもはや通用しない。
発掘調査で、物部氏も氏寺(大阪府八尾市渋川<しぶかわ>廃寺)を造営していたことが判明しているからである。
仏教を信仰・保護する蘇我氏と、在来神を重視して仏教不信心の物部氏らとが、それぞれの信仰を背負って対峙したとする伝統的理解は成立しないのである。
 …後略…
(『聖徳太子と飛鳥仏教』曾根正人 吉川弘文館 2007年)
 「国家」の祭祀 

 最大の問題は、物部氏が実際には氏寺を造営していながら、記事では仏教祭祀導入に反対している点である。
記事の根幹をなす物部氏の反対は、作者の創作と見るしかないのだろうか。
 そこで(物部大連<もののべおおむらじ>)尾輿(おこし)・(中臣連<なかとみのむらじ>)鎌子(かまこ)の返答を検証してみると、彼らが問題にしているのは、「国家(みかど)」レベルの「王」としての「拝みたまわむ」である。
私的祭祀は問題にしていない。
物部氏・中臣氏は、倭国祭祀としての大王が行う祭祀に関しての廃仏派なのである。
だから蘇我稲目の私的行為としての仏教祭祀を許すという結果にも、異論が出なかったのである。
私的には仏教祭祀を行いつつ、倭国祭祀としての導入には反対するというスタンスは決して矛盾ではない。
『日本書紀』の記事は発掘調査と整合するのである。
 もちろんその前提として、すでに大王祭祀が国家レベルのそれを含むものとして一般氏族祭祀と区別されていなくてはならない。
ただ少なくとも大王を首長と戴いた外交関係が続いているのである。
大王を倭国全体と重ね合わせる認識がないとは言えまい。
その意味で国際関係を配慮した蘇我稲目の賛成意見も、国家レベルの大王祭祀を前提としたものである。
反対論とは逆方向の論だが、外国を意識することは自らの国家意識の反映だからである。
つまり賛成論も反対論も、問題にしているのは国家祭祀への仏教の導入可否なのである。
 そもそも冒頭で見たように、私的仏教祭祀なら渡来人がすでに持ち込んでいる。
今さら問題にしても無意味である。
外交ルートで公的にもたらされた仏教祭祀を倭国(またその総祭祀長たる大王)として受容するか否かという問題だったから、欽明天皇もあえて群臣たちに問うたのである。
またそうした国家的問題だったから、蘇我氏側も物部・中臣氏側も強く「国家(みかど)」を意識した返答となったのである。
 この記事をはじめ仏教導入を巡る対立という筋立てになっている両者の抗争の本質は、すでに指摘があるように、次期大王選出を巡る権力闘争であろう。
そうした面に言及がないのは蘇我氏顕彰譚作者の作為という可能性もある。
だが国家祭祀という限定付きではあるが、仏教を受入れるか否かという祭祀問題での対立は両者の間にあってもおかしくない。
そしてこれはあくまで祭祀問題である。
畑違いの私的権力闘争にあえて言及する必要は感じなかったであろう。
両者の対立記事は安易に創作とは断じられないのである。
(『聖徳太子と飛鳥仏教』曾根正人 吉川弘文館 2007年)
  龍の井戸(りゅうのいど)

 四天王寺では、中心伽藍金堂の地下深くに流れる荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護してくれていると信仰されています。
創建当初の事が記された『四天王寺御朱印縁起』にも「四天王寺の地には七宝が敷かれ、青龍が恒に守護しており、その麗水は東に流れている…」とあり、江戸時代には井戸屋形が造られ、境内図にも「龍の井」と明記されるほど、中心伽藍で外せない重要な建物と認識されていました。
 第二次大戦の大阪大空襲により焼失した井戸屋形は、戦後の復興事業に於いて現在の形となりました。
井戸枠は小豆島産花崗岩一石で造られ、見えがかりの高さ76cm、外側は八角形、中央に直径1メートル45cmの円孔がくり抜かれています。
 屋形の天井には、五重塔壁画も手掛けた日本画家の山下摩起画伯(明治23年<1890>~昭和48年<1973>)の筆による龍が描かれており、井戸を覗き込むと水面に龍の姿が浮かび上がるようになっています。
直接に井戸水の蒸気が当たる構造上、天井画の劣化が激しかったため、平成34年厳修の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向け、平成29年9月に当初の天井画を精確に複製し、防カビ加工を施した天井画が掲げられました。
境内は、参拝客や観光客で大賑わいなので退散することにしました。
天王寺のほうに向かっててくてく歩いていると、
昔、学生のころなどに通った路地に
時々、飲みに入った焼肉のお店(6人くらいで満席)が健在のようで嬉しかった(^_^)v
今は、アルコールがダメなので入れないけど……(T_T)
天王寺駅は人でごった返していたので京橋で昼食。
京橋に来るとよく入っていたカレー専門店でカツカレーをいただきました。
電車の中などで読んでいたのが白洲正子さんの『西行』(新潮文庫)。
発病する前は、西行の足跡を訪ねていろいろ歩いたときの記憶が蘇りましたし、
崇徳院(すとくいん)や待賢門院珠子(たいけんもんいんたまこ)との交流などが心に沁みました。
これまで西行について書かれた本を数冊読んでいますが、白洲さんの文章は、はぎれがよくて一番好きだな。
高校生のころから京橋に来ると、時々、入っていたお店。
ここは12人くらいで満席かな?
今は、いろんなカレーのお店があるけど、昔は、カレー専門店はあまりなかったと思う。

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    昨日も今日も春うららって言っていいようないいお天気でした~(#^.^#)

    2月22日が聖徳太子の命日だったのですね。
    22日のお墓参りの日が暖かな日で良かったです。

    いいお天気だと天王寺辺りを歩くのもいいですね。
    天王寺の路地にある昆布屋さんやお菓子やさんも好きです。
    京橋あたりも街歩きに良い感じです。(#^.^#)

    暖かな日にお父様とご一緒にお花さんぽできるといいですね。

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    1. カイさんコメントありがとうございます(^^)/
      一気に春を通り越して夏になったような…(^_^;

      前から22日の月命日にお参りしたいと思っていました。
      永代祠堂法要は19日あったのですが
      事前に回向料を送金して、昨日、墓参りに行きました。

      すぐに帰るつもりでしたが、あまりにいい天気だったので
      天王寺駅まで歩きたくなりました(^_^)v
      天王寺周辺は、人通りが多いのですが
      ちょっと路地に逸れると静かな町歩きができます。
      京橋あたりも昔歩いていたので懐かしくなりました。

      4月1日から山のエリアに入ることができるので
      その時に歩けるように心臓リハビリを頑張っています。

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