こんな天気を小春日和というのだろうなぁ
〝「小春日和」はいつ頃の天気か。〟(文化庁広報誌 ぶんかる)先日の
ブラタモリ「東京・目白~目白ブランドの正体とは?~」で
タモリさんが目白不動尊があった場所を探して
江戸川橋から目白坂を歩いていたときに永泉寺の側を通りました。
永泉寺には
松本侑子さんの投稿(2020年3月17日)
太宰治の墓、2019年12月31日に墓参、三鷹禅林寺。
山崎富栄の墓、2019年6月墓参、文京区永泉寺。
二人が亡くなった6月に、毎年、白百合を持って富栄さんの墓にお参りしています。
(画像: 太宰治の墓 山崎富栄の墓) 小雪(しょうせつ)
そろそろ北日本や山沿いから初雪の便りが届くころ。
晴れた日に風に運ばれて花弁のように舞う雪を「風花(かざはな)」と呼びます。
まだ雪が降るには早い平野部でも、ふと風花を見かけることがあるかもしれません。
小雪を含む旧暦十月には、「小春(こはる)」という異称も。
晩秋から初冬にかけ、移動性高気圧に覆われて春のように暖かくなる日があります。
そんな陽気が「小春日和」。
小春は冬の季語になります。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年)「小雪」を「こゆき」と読むと朝ドラ「ブギウギ」で村山トミの役を演じる小雪さん。
今週は、辛い場面が続きますね……
第8週「ワテのお母ちゃん」(36)で
羽鳥善一が「僕は メッテル先生のおかげで音楽の楽しさを知ったんですよ?」
と怒りをぶつけていました。
〝巨匠・メッテルとは 「ブギウギ」羽鳥善一のモデル・服部良一を育てた……〟(ステラnet)
ウクライナの亡命音楽人エマニュエル・メッテルについて書かれています。
朝比奈隆も、メッテルの愛弟子でした。
昭和の大横綱・大鵬の父は、サハリンへ移住したウクライナ人でした。
六郎の「ほな 行ってまいります!」
「行ってまいります」は、ごく普通の<挨拶語>で、日常の家庭生活では、なんの奇もないことばとされているが、戦争中は、その他に、もう一つ別の意味になる用途があったことを思い出してみたい。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
朝、子供が学校へ出かける。
「行ってまいります」と、その子供が、いつものように元気な声で言えば、家族の誰かが、かならず「行ってらっしゃい」とか、「行っておいで」とか言って送り出してやる。
そのとき、学校へ出かける子供にも、送り出す家族にも、格別の不安や危惧がないのは、学校へ行った子供が、午後のしかるべき時刻になれば、「ただいま」の声とともに帰ってくることを、当人たちをはじめ家族の誰もが知っているからである。
もっと年長の大学生のいる家族でも、また一定の勤め先をもつおとなのいる家族でも、おなじである。
「お父さん」も、「坊や」とおなじように、「行ってまいります」で出かけ、「ただいま」で帰宅する。 しかし、ここに別の「行ってまいります」がある。
大屋典一の『東京空襲』(河出書房新社、昭和37年)という本から一部を引いてみよう。
午前五時。二階の学生が出征する。六時ごろ品川駅で集合して、軍用列車で浜松へいくのだそうだ。五十歳近い母親と二人で私たちの真上の部屋に住んでいたが、どんな事情のある人たちなのか、親子二人ぐらしである。冗談好きな明るい学生だったが、よく顔を見ると痩せて、今にもべそをかきそうな下がり目をしていた。その目尻の悲しい色を見た日から、私には、彼がむりに冗談をいっているように思われてならなかった。学生服の足にゲートルを巻いて、暗い廊下で私にだけ挨拶した。「いってまいります」気の滅入りそうな声だった。すこしでも軍人らしく見せかけようとしているのか、両足の踵を揃えてまっすぐに立っているのが、廊下の白いセメントに浮かんで、ぼんやり見えた。……
「気をつけていってらっしゃい」私はそれだけいった。母親は私の横に立っていた。遠い炎を見ているのでもない。彼の顔を見ているのでもない。もちろん私の声を聞いているのでもなさそうだ。防空頭巾の頭をすこしうつむけて、なんにもいわないで、身動きもしないで立っている。学生はそのまますっと歩きだした。さむざむとした靴音が、廊下を遠ざかっていく。母親が駆けていくかと思った。が、やはり突っ立ったきりだ。あの学生が毎晩一升びんで玄米をつくのがうるさくて、私は一度下からどなったことがあった。…… 文章中の母親の「防空ずきん」でもわかるように、これは空襲下の未明のことである。
どんなに烈しい空襲下でも、戦場へ行くものは、こうして行く。
そして、その<挨拶>は、「行ってまいります」である。
私もそうだった。 徴兵検査
国家が国民に兵役義務を課し、強制的に徴集して兵役に服させる「国民皆兵」の徴兵制が日本で採用されたのは、明治維新後のことである。
明治政府によって、軍備の整備が近代国家建設の基礎であり重要政策でもあるとされ、大村益次郎、山県有朋、西郷従道によって、「国民皆兵」の基礎がつくられた。 明治6(1873)年の1月、「徴兵令」が発布され、満20歳の男子を「徴兵検査」で選抜して常備軍に3年間服務させることにした。
はじめは、戸主、嗣子(あとつぎ)など「家父長制」維持の中心になるもの、また、官吏、官公立学校生徒や「代入料」として270円を上納したものは免除されたが、明治10年の改正で、免役の範囲は縮小された。
さらに明治16年には、一定以上の教育や資産をもつもののために「一年志願兵」(1年間の兵役だけが義務づけられる)が創設され、「徴兵制」は昭和2年「兵役法」とあらためられた。 しかし、その後も「徴兵」ということばは、長く日本国民のあいだにのこり、太平洋戦争中になっても、「徴兵検査」という呼び方は生きていた。
「兵役法」によると、兵役は常備兵役・補充兵役・国民兵役にわけ、その「常備兵役」を<現役>と<予備役>にわけた。
日常用語の「現役」は、ここから生まれたものである。 「補充兵役」には、第一補充兵役、第二補充兵役があったが、太平洋戦争中には第三補充兵役も設けられ、〝兵隊にとられる〟範囲は着々と拡げられた。
つまり、身長・体重がまずまず十人並みで、「不具(身体障害)廃疾(不治の病気)にあらざる」限り、一応「合格」とされ、戦場に立つ有資格者とされたわけだ。
私は大学在学中に「徴兵検査」を受け、性器・肛門まで調べられた上、「甲種合格」の判定をもらった。 検査の「査定」には、私のような「甲種」から「乙種」(「第一乙種」「第二乙種」「第三乙種」)「丙種」までが「合格」で、「丁種」になって、やっと「不合格」であった。
この下に「戊(ぼ)種」というものがあったらしいが、私はそこまで知らなかった。
いろいろの例の中には、それまではせいぜい第二乙種までの徴集だったものが、太平洋戦争中には、新設の第三乙種、さらには丙種まで<召集の対象>となる事例もあり、文字どおりの<根こそぎ>動員であった。
その「召集」の「令状」は、いわゆる一銭五厘の「赤紙」である。
「赤紙」とは別に<徴用>のための「白紙」もあった。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
今朝の父の一枚です(^^)/
第1章 ビル街の鳥――ハクセキレイ
✤繁殖分布の拡大
ハクセキレイは、1930年代までは北海道の海岸地方で繁殖し、冬季になると関東以南にもやってきて越冬する冬鳥であった。
ところが、1955年頃には東北地方に、そして、1970年代になると急速に繁殖地が南下して関東地方にまで進出、1980年代には本州中部に達し、今日では九州の一部でも繁殖が確認されている。
ハクセキレイの繁殖分布の拡大をみると、二つの傾向が見られる。
第一は、日本列島を南下してきたことであり、第二には、南下した後に海岸部からしだいに内陸部にまで広がり、ついには都市環境でも繁殖するようになってきたことである。
初めは冬鳥であった鳥が、春になってもとどまって繁殖するようになるというケースは、都市鳥化したヒヨドリのたどってきた道とよく似ている。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)