歩き始め雲一つないなぁと思っていたら
薄い雲(巻雲)が広がってきました。
天気がいいと油断していると…
「西・東日本 今夜遅くから大気不安定に 落雷や竜巻など十分注意」(NHK)霜降(そうこう)
秋も終盤に近づき、露に代わって凍った霜が降りるころ。
高地の山間部や北部地方から「初霜」の便りが届くかもしれません。
初霜の平均は、札幌で10月25日前後、
東京で12月20日前後(1981年~2010年)。
温暖化の影響か、年々遅くなっているといわれます。
また、一面緑だった山も装いを変え、美しい紅葉に彩れていくとき。
春は「山笑う」、夏は「山滴(したた)る」、冬は「山眠る」、そして、秋は「山粧(よそお)う」。
いよいよ紅葉シーズンです。
(『イラストで楽しむ 日本の七十二候』アフロ 中経の文庫 2013年)昨夜の
グレーテルのかまど「源氏物語の亥の子餅」
亥の子餅の名前は知っているけど食べたことがないです。
というのも期間限定のお餅。源氏物語についてはこれまでにも紹介しているので
Ⅱ 江戸おりおりの食
3 将軍の儀礼食と食事
儀式と饗宴
…前略…
このほかに飲食に関わる儀礼として、6月16日の嘉定(かじょう)と10月の亥(い)の日に行われる玄猪(げんちょ)がある。
嘉定は嘉祥とも書くが、この日に疫を除くために、菓子や餅を食べるという風習がある。
天保4年の嘉定では、それぞれ二百膳前後の饅頭(まんじゅう)・羊羹(ようかん)・鶉(うずら)焼・阿古屋(あこや<餅>)・金飩(きんとん)・寄水・平麩・熨斗(のし<熨斗鮑>)が、嘉定菓子として用意されている。
(『江戸の食生活』原田信男 岩波現代文庫 2009年)
また玄猪も、新穀で搗(つ)いた亥の子餅を食べて豊作を祝う行事である。
これについて、『徳川制度史料』は、御三家ほか縦五位以上の譜代大名と当番の旗本、一部の外様大名が出仕し、白・赤・黄・胡麻・萌黄の五色の餅を、それぞれに色を代えて将軍手ずから銘々に下賜(かし)したと記している。
なお嘉定も玄猪も幕府にとって重要な儀式で、『徳川礼典録』には、新井白石のものとされる文章が引かれている。
嘉定は室町幕府以来、玄猪は家康三河時代からの旧例で、かつては家臣全員の参加で行われたという。
…後略…
(『江戸の食生活』原田信男 岩波現代文庫 2009年)浮世絵EDO-LIFE「山くじらって?!広重“名所江戸百景 びくにはし雪中”」
看板に大きく「山くじら」の文字
(「名所江戸百景 びくにはし雪中」江戸東京博物館)
第二章 四季五節の循環
(四)秋まつりと供えもの
米だけでない秋祝
南北3000キロにも及ぶこの日本列島での人びとの暮らしは、ひととおりではない。
とくに、古い時代にさかのぼってみると、それぞれの土地土地でそれぞれの収穫(獲)物の祝いを行事化させていたのである。
総じて秋まつりというものの、けっして一様ではなかった。
ところによっては、獣肉や根菜や山菜、あるいは魚介類や海藻類など、米以外の収穫(獲)物が、まつりの主座に収まる例も当然あった、はずなのである。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年) まつりの神饌(しんせん)は、まず第一にその年の豊作を奉告し、豊作の永続を祈願するために、その品ぞろえをする意味が強い。
とすれば、本来はその品々は、ところにより異なるのが当然なのである。
もとより、この国においては、神饌に何を供えてはいけないというとりきめはなかったのである。 それが、明治政府によって神社神道が国是とされ、稲作農本の思想が強く反映されることになった。
のちにいうところの明治祭式の統一をもって米とその加工品が神饌の上位を占めるようになったのだ。
そして、野菜や魚、木の実やマッタケなどは下位に加えられることになったが、獣肉や川魚の類はほとんどそこから落とされることになった。
とくに、前代にもまして獣肉を忌み嫌うようになったのである。 それでも、現在にまで伝わる旧慣もある。
明治祭式の規制も法律のように厳格なものではなかった。
これが「日本の信仰」のよいところである。
たとえば、日向山地(宮崎県)のまつりで獣肉。
シシトギリというその神事の呼称が示すとおり、山の神に対してイノシシの豊猟を謝し、イノシシの霊魂を慰める意義があるのはいうをまたない。
椎葉(しいば)村の神社の秋まつりでは、社殿とは別の拝所をつくり、そこにイノシシの頭を祀る。
また、神楽場に供えたシシ肉を串刺しにして松明の火で焼き、それを参拝者に配る事例も伝わる。 信州(長野県)の諏訪上社での御頭祭(おんとうさい)は、シカの頭を供えることでよく知られる。
現代は剝製のそれを供えるが、以前は七五頭のシカの生首が並べられた、という。
また香取神宮(千葉県)での大饗祭では、「鴨羽盛」が供えられる。
ダイコンの上に羽ごとぶつぎりにされた鴨肉が置かれたものである。 ほかにも、たとえば四国山地にはほとんど稲作をもたない集落もあり、そこでのまつりではサトイモとその料理が供される。
また、広島県下の農山村では、マンジュシャゲが主座に供えられる例もある。
それは、飢饉のときはその球根が食料になったという先祖の労苦をしのんでの伝承なのである。
そうしたまつりは、現在では奇祭として紹介されることが多い。
だが、米への偏食傾向が生じる以前にさかのぼってみれば、その土地土地でのあるべくして当然のかたちだったのである。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
「山くじら」(イノシシ)
「十三里」は「九里四里うまい十三里」で検索してみて下さい(^_-)
今朝の父の一枚です(^^)/昨日は、妹が7回目の新型コロナワクチンを受けるので送り迎えをしました。
そして車の車検でした。
妹は、初めの頃、38℃近い発熱がありましたが、次第に、軽くなってきました。
今日は、注射を打ったあとの軽い痛みだけのようで娘に会いに梅田へ出かけました。
「✤はやにえ」つづき
モズのつくった〝はやにえ〟は、その後、モズによって食べられるのだろうか。
私は、秋に発見した〝はやにえ〟に印をつけ、秋から翌春まで観察したことがある。
大部分は冬までに消失してしまった。
また、モズが捕らえた獲物を〝はやにえ〟につくり、これを数時間後に実際に食べるのを観察したこともある。
秋にたくさん〝はやにえ〟が目立ち、その後、モズがこれを食べることなどから、〝はやにえ〟は、エサ不足の冬にそなえた〝貯食〟のためであるとするのは、いささか早計のようだ。
〝はやにえ〟という行動は、人の目に触れにくく、目立たないだけで、春~夏の繁殖期でも観察されるからである。
捕らえたスズメを〝はやにえ〟として枝などに刺し、引きちぎってヒナに与えるのを観察したこともある。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)