2023年7月6日木曜日

日差しがささるような

昨日、急に降り出した雨で少しは涼しいかなと思ったけど
強い日差しで昨日の雨が蒸発しているのかもやっとしていました。
クロアゲハ?の翅を日差しが突き抜けていました。

きょう各地猛暑日予想 熱中症に警戒 7日から西日本大雨おそれ」(NHK)
最近、「AI」についてのニュースが流れています。
ここまで来ると、一気に広がるのだろうけど
世界 2023年7月号」に載っていたナオミ・クラインさんのレポートは
これから到来するだろう未来について知る手がかりをくれると思います。
小見出しと一部を転記したいと思いますφ(.. )

(6月にEテレ100分de名著「ショック・ドクトリン」ナオミ・クラインが放送されました)
 「幻覚を見ている」のはAIの機械ではなく、その製作者たちだ
    ナオミ・クライン 訳=中村峻太郞

■幻覚と現実

……AIの推進者たちは自分たちの機械が誤りを含みうることを認めつつ、同時にその部門で最も愛用される神話に養分を与えてもいるのだ。……

■人類史上最大の盗み

■害悪の正当化

……事前の許可を求めるな、というのが破壊的革新者たちの口癖だ。……

■幻覚その1 「AIは気候危機を解決する」

■幻覚その2 「AIは賢明な統治をもたらす」

■幻覚その3 「テック・ジャイアンツが世界を壊すことはないと信じていい」
(『世界 2023年7月号』岩波書店)
■幻覚その4 「AIは私たちを面倒な仕事から解放する」

……サム・アルトマン(オープンAI――ChatGPTの制作元のCEO)は、シリコンバレーに生息する多くの人間たちと同様、彼自身も自衛主義者(プレッパー)だ。
2016年の時点で、彼は自慢気にこう語っていた。
「ぼくは銃と、金塊と、ヨウ化カリウムと、抗生物質と、蓄電池と、水と、イスラエル国防軍から取り寄せたガスマスクを常備しているし、ビッグサーにでかい土地を持っていて、そこへ飛んでいくこともできる」。
 アルトマンがいかに薔薇色の幻覚を報道インタビューで語りつづけようと、自分が解き放とうとしている未来について本当はどのように考えているのか、こうした事実のほうがはるかに多くを物語っていると私は確信している。
(『世界 2023年7月号』岩波書店)
明日は、7月7日で七夕ですね。

江戸の素麺
 七夕と素麺


 江戸時代には七夕は五節供の一つとして盛んに行われ、七夕には素麺を食べる風習がありました。
『日本歳時記』(1687)には、七夕に素麺を食べると、おこりの病にかからないという中国の故事によるとありますが、江戸時代初期『料理切形秘伝抄』には、素麺は織姫星の機織にかけた糸をかたどったものとあります。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)
 江戸では城中で七夕の御祝儀があり、貴賤の別なく将軍も庶民も七夕には素麺を食べました。
文政6年(1823)に書かれた11代将軍家斉(いえなり)の時代の将軍家の献立を記した『調理叢書』を見ると、7月7日の祝儀の献立は「御熨斗蚫、御本膳、御二の膳、御三の膳、御盃土器、御立御肴、御銚子、御加、御素麺、御湯、御菓子」とあります。
御素麺には「浅木御紋付御三の椀に盛つけ、御中蓋に付、山升粉紙包、御腰高に付、木地大御三方に居(すゑ)、耳土器(みみかはらけ)、御長はし付」と書き添えられています。
耳土器は耳のような形の素焼の箸置のことです。
 京都の公家社会でも七夕には素麺で祝いましたが、大和詞で素麺は「ぞろ」と呼んでいました。
 素麺の名産地

 江戸時代の素麺の名産地を『毛吹草(けふきぐさ)』(1645)で見ると、山城の大徳寺蒸素麺、大和の三輪、伊勢、武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(輪島)、備前岡山、長門長府、伊予松山があげられています。
『本朝食鑑』(1697)には、備州豊原、奥州三春の素麺は糸のように細長くて美しく、二荒(にっこう)山中で作られるうどんほどに太い素麺もよいとあり、太い素麺もあったようです。
 図1は『日本山海名物図会』(1754)の中の「大和三輪素麺」の図で、次の文章が添えられています。
「名物なり。細きこと糸のごとく白きこと雪のごとし。ゆでてふとらず余国より出るさうめんの及ぶ所にあらず。又阿波より出るもの名産なり。三輪さうめんにおとらず。それ三輪は大己貴(おゝあなむち)のみことの神社在。御神体は山にて鳥居ばかりにて社はなし。参詣の人おゝきゆえ、三輪の町繁昌也。旅人をとむるはたごやにも名物なりとてさうめんにてもてなす也」。
 大和の三輪素麺は、このように名産として知られ、現在も有名ですが、『和漢三才図会』(1712)では備州の三原、奥州の三春、予州(いよ)、阿州(あわ)の素麺を名産としてあげ、和州(やまと)の三輪のものは昔から有名ではあるがよくないとしています。
 素麺の作り方

 素麺は麺類の中で最も古くからあり、鎌倉時代に中国から伝来したものといわれ、室町時代には専門の職人や素麺売りがいました。
素麺の作り方は、小麦粉に水と塩を加えてこねてから、植物油を塗りながら縒(よ)って細くのばし、図1のように棒にかけて糸のように細く引きのばし、乾燥して作ります。
 うどんや蕎麦はこねたものを薄くのばして細く切って作るところが素麺と違っています。
現在の素麺は20センチくらいに切りそろえて、束にして売っているのが普通ですが、江戸時代には長いままの素麺が多かったらしく、図2(素麺を食べる図『北斎漫画』<省略>)のような素麺を食べる光景も描かれています。
切りそろえた素麺は江戸時代には上等品で、贈答用に使われていたようです。
 素麺の食べ方

 図3(素麺の献立『食物服用之巻』より)は永正元年(1504)成立と推定される『食物服用之巻』にある図です。
この書は食事作法について書かれたもので、その中に「むしむぎのこんだて」があります。
当時は素麺をむしむぎとも呼んでおり、ゆでたものを蒸して食べることもありました。
「冷汁(ひやじる)」とつけ汁で、室町時代は醤油の普及以前ですから、みそ味の冷たいつけ汁と考えられています。
「胡椒紙(こせうかみ)」は胡椒粉を入れた紙包です。
現在辛味として使われる唐辛子は、天文年間(1532~55)にポルトガル人によって伝えられたとも、文禄・慶長の役(1592~98)で、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったともいわれており、普及したのは江戸時代に入ってからです。
ただ江戸時代のなかばまでは、うどんの薬味は粉胡椒で、唐辛子は使われていません。
「酢和(すあ)へ」は酢の物、「青味(あをみ)」は刻み葱でしょうか。
「辛味(からみ)」は麺類の薬味によく使われる辛味のある大根おろしと考えられます。
 元禄5年(1692)刊の『女重宝記』には「女中万食(ぢよちゆうよろづく)ひ様の事」の中に、次のような素麺の食べ方があります。
「索麺(さうめん)くふ事、汁をおきながら、一箸二箸索麺を椀よりすくひ入て、さて汁を取あげくふべし。その後は汁を手にもちすくひ入(いれ)、食ひてもくるしからず。汁を替へ候はば、はじめはいくたびも汁を下に置き、すくひ入、とり上(あげ)くふべし。温飩(うどん)もくひ様おなじ事なり。蕎麦切(そばきり)など、男の様に汁をかけくふ事有べからず。索麺のごとくくふべし。辛味、臭味(くさみ)などかならず汁へ入(いる)べからず」。
項目名にある女中は、古い言葉で女性・婦人のことです。
 江戸時代の麺類のつけ汁は、『料理物語』(1643)ではまだみそ仕立です。
寛文8年(1668)成立の『料理塩梅(あんばい)集』には素麺の記述はありませんが、蕎麦のつけ汁は醤油仕立てになっていますから、この頃から素麺のつけ汁にも醤油が用いられたものと考えられます。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)

この時代の素麺の食べ方を検索すると面白いですよ(^_-)