2023年7月4日火曜日

日差しが刺さるような

日差し刺さるような青空でした。
カタツムリが日差しを避けて朝寝をしています。
一方、九州地方では、激しい雨が降り続いている。
ハンゲショウを見ていると年配の女性が
「何を見ているのかと思いました」と声をかけてこられた。
池(ビオトープ)が完成するまで近寄って見ることができなかったことを話しました。
昨日は、別の場所だけど、年配の男性が「いい写真が撮れましたか?」と声をかけてくださった。
リハビリ散歩のメモとして写していると伝えると、
その方も膝関節が悪くてリハビリをかねて歩いていると仰ってしばらく立ち話をしました。

去年、母と子の二人連れに出会って、
シロバナタンポポが咲いていることを教えてあげようとすると「ケッコウデス」と断られました。
見知らぬ人から声をかけられて怖かったのだと思います。
新型コロナが5類になって公園で声を掛け合うことが少しずつ増えたように思います。
八木巌の歌

 花といふ束縛のかたち解かれきて風吹けば立ち上がる花片(かへん)

(『トビウオが飛ぶとき 「舞いあがれ!」アンソロジー』桑原亮子 KADOKAWA 2023年)
梅津貴司の歌 第一歌集『デラシネの日々』より

 食べられないものを運んで帰って叱られる蟻きっといるだろう

(『トビウオが飛ぶとき 「舞いあがれ!」アンソロジー』)
酒に就いて」つづき

 すべての酒飲みたちが願ふところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になつて記憶にとどめず、忘れてしまひたいといふ願望である。
即ちハイドがジーキルにしたやうに自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまひたいのだ。
しかしこのもつともな願望は、それが実現した場合を考へる時、非常に不安で気味わるく危険である。
現にかつて私自身が、それを経験した時のことを語らう。
或る朝、寝床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。
私はどこかで怪我をしたのだ。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思ひ出す原因がない。
後になつて友人に聞いたら、酔つて自動車に衝突し、鋪道に倒れたといふのである。
もつとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行つたら、女給が「昨夜遅くなつてお帰りが困つたでせう」といふ。
昨夜その店へ来た覚えがないので、私が妙に思つて反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だつて昨夜来たくせに」といふ。
不思議に思つてだんだん聞くと、たしかに昨夜来て居たことが、少しづつ記憶を回復して解つて来た。
それがはつきり解つた時、私は不思議な気味わるさから、真蒼になつて震へてしまつた。
今一つの例を話さう。
 或る朝三越呉服店から、大きな買物包みを配達して来た。
家人が出て何事か言ひ争つてる。
家人の方では、そんな買物をした覚えがなく、よその間ちがひだらうといふのである。
配達人の方では、頑として間ちがひでないことを主張してゐる。
そこで結局、僕が呼び出されることなつた。
だが僕も買物をした記憶がなく、家人と一緒に間ちがひ説を主張した。
しかもその買物は、代金先払ひになつてるのである。
尚さら以て受取るわけに行かないのである。
しかし配達人の方では、あくまで頑固に主張するので、私も少し懸念になり、だんだんよく昨夜の記憶をたぐつて見ると、わたしかに、やはり私がそれを買つたのだつた。
その晩私は酔つぱらつて、夜間営業の店へ這入つた。
すると平常欲しがつてゐた品々が、明るい電気の下に陳列され、夢のやうに魅惑的に見えた。
酒に酔つてゐた私は、酔人一流のパッションと無計算とで、皆それを買ひたく思ひ、代金先払ひにして自宅へ届けさせたのだつた。
そしてしかも、翌日すつかり忘れてゐたのだ。
 かうした記憶の喪失ほど、不安で気味のわるいものはない。
なぜなら或る時間内に於ける自己の行為が、一切不明に失喪して、神かくしになつてしまふからである。
昨夜の自己がどこで何をしてゐたか、どこを歩き廻り、何を行動してゐたかといふことが、自分で解らない時の気味のわるさは、言語にいへない種類のものだ。
夢遊病にかかつた人は、自己の行為に対して記憶を持たず、病気が治つたで、その過去の生活と、その半身の自己とをすつかり忘れてしまつてる。
ウイリアム・ジェームズの心理学書には、かうした夢遊病者と人格分裂者の実例がたくさん出てゐる。
或る患者等は、病気中の自己をB氏といふ他人名で呼び、自分とすつかり別の人物として語つてゐる。
しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客観的の見方をしてゐる。
すべての酒飲み人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。
 シャルル・ボードレエルは、酒と阿片とアシッシュとに就いて、その薬物学的比較観察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危険性がない上に、意志を強くするといつて推奨してゐる。
阿片やアシッシュに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有つたところの、自然の天与した飲物である。
猿のやうな動物でさへも、自らかもして酒を飲むのだ。
支那人が酒の精を猩々(しやうじやう)に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに譬へたのは、まことに支那人らしく老壮風の思想である。
この「酒の目出度さ」といふ思想が、キリスト教の西洋人には解らない。
そこで彼等のピューリタン等は、酒を悪魔のやうに憎悪するのだ。
酒の宗教的神聖の意味を知つてるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)

「1936(昭和11)年 50歳 『廊下と室房』刊行(第一書房)。」(前橋文学館
今朝の父の一枚です(^^)/
アオノリュウゼツランがもうじき咲きそうです。
母と一緒に散歩していた頃、咲いているのを初めて見ました。

新しいノートパソコンになって戸惑ったのが、散歩で写した画像を見ようとすると
10枚くらい過ぎると画像ソフトのアイコンになってしまった。
パソコン内のフォルダーに移したつもりが、OneDriveに保存されている。
サインアウトしてフォルダーを見ると、全部の画像を見ることができた。
解説書を見ると便利な機能でも現役を引退した私には必要のない機能だと思う。