昨日の雨も止んでくれて青空が見えていました。タイワンウチワヤンマに出会って、近づいていくと…逃げるどころか、次第に向きを変えて…ドキュメント72時間「大病院の屋上庭園で」を見て思い出した。
2011年7月31日に心筋梗塞で緊急搬送。
手術の後、集中治療室へ。
8月2日から肺炎で人工呼吸器につながり、外されたのが10日。
15日に一般病棟に移ることができました。
9月10日に9階の屋上に上がることを許されました。
「シャバ」の空気は格別でした。
アゲハが花に止まっている。
ツユクサも咲いているのを見て元気をもらいました。
住の江の岸に船をさし寄せて下さい。
忘れ草がほんとうにその名の通り、亡き児を忘れるというききめがあるかどうか、摘み取ってためしてゆきたいから。
(『土左日記』紀貫之著、鈴木知太郎校注 岩波文庫 1979年)「酒に就いて」つづき
酒飲み共の人生は、二重人格者としての人生である。
平常素面(しらふ)で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末に終へない好色家になり、卑猥な本能獣に変つたりする。
前の人格者はジーキル博士で、後の人格者はハイドである。
そしてこの二人の人物は憎み合つてる。
ジーキルはハイドを殺さうとし、ハイドはジーキルを殺さうとする。
醒めて酔中の自己を考へる時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。
私がもし醒めてゐる時、酔つてる時の自分と道に逢つたら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまふであらう。
この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年) この映画には二人の主役人物が登場する。
一人は金持ちの百万長者で、一人は乞食同様のルンペンである。
百万長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知つて怏々(あうあう)として居る。
そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探してゐる。
それは人間の最も深い悲哀を知つてるところの、憑(つ)かれた悪霊のやうな人物だつた。
そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔つて死場所を探してゐる不幸な紳士が、万松の薄暗い地下室で、チャップリンの扮してゐる乞食ルンペンと邂逅する。
ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがつた事情によつて、人生にすつかり絶望してゐる種類の人間である。
そこで二人はすつかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髯面をつけて接吻さへする。
酔つぱらつた紳士は、ルンペンを自宅は伴ひ、深夜に雇人を起して大酒宴をする。
タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出さうとするのである。
しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飲ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寝かせ、互いに抱擁して眠るのである。 朝が来て目が醒めた時、紳士はすつかり正気になる。
そして自分の側に寝てゐるルンペンを見て、不潔な憎悪から身ぶるひする。
彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴を戸外(おもて)へ掴み出せと怒鳴るのである。
彼は自殺用のピストルをいぢりながら、昨夜の馬鹿気た行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。
彼は自分に向つて「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。
そこでまたすつかり感激し「おお兄弟」と呼んで握手する。
それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りつたけの札束をすつかり相手にやつてしまふ。
だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰つた時、大金をもつてるルンペンを見て、この泥坊野郎奴と罵るのである。
そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。 宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によつて自己の半身(百万長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士とし紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによつて、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。
つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映つた一人二役の姿であつた。
しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のやうに嫌厭してゐる。
それでゐて彼の魂が詩を思ふ時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。 チャップリンの悲劇は深刻である。
だが天才でない平凡人でも、かうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知つてる。
特に就中、酒を飲む人たちはよく知つてる。
すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現はれて来る紳士である。
夜になつて泥酔し、女に大金をあたへて豪語する紳士は、朝になつて悔恨し、自分で金をあたへた女を、まるで泥坊かのやうに憎むのである。
酔つて見知らぬ男と友人になつたり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になつて百度も唾を吐いて嗽(うが)ひをする。
そして髪の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向つて痛感する。
…つづく…
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリが羽づくろいをしていました。
雨が止んでホッとしたのかな?
やっとブログを更新できるようになりました(^^ゞ
パソコンの動きが非常に遅くなり、修理工房に修理をお願いしたのが22日(木)。
何度も修理をしているので新しいノートパソコンを購入すことにしました。
1週間ほどして新しいパソコンが来て、セッティングにかかったのですが
高齢者なので脳が硬くなり戸惑うことばかり…
一番、アッと思ったのがLINEが使えない…
スマホを使わないとPCだけでは、ログインできない…
今まで携帯を使っていたのですが、もう限界かなとスマホに切り替えることに…
先週の日曜(25日)に販売店でスマホを購入。
電話番号などのデータも有料ですが、移してもらった。
携帯の時は、クリックだったけど、スマホはタップ。
これが難しい…
何度も何度もやり直し(^_^;
数日してネットに接続することができなくなる事態が起きて販売店に…
翌日、電話をかけたり受けたりしたときに相手の名前が表示されない
またもや販売店へ…
電話番号に「186」を付けていたことが原因だとわかり、帰宅後修正。
修理工房から電話があってリカバリーをすることに
そのときにメモリーに異常が見つかったので交換してくれました。
ツユクサも咲いているのを見て元気をもらいました。
外の空気を吸うと退院したいという意欲がわいてきます。
すみのえにふねさしよせよ忘れ草しるしありやと摘みてゆくべく住の江の岸に船をさし寄せて下さい。
忘れ草がほんとうにその名の通り、亡き児を忘れるというききめがあるかどうか、摘み取ってためしてゆきたいから。
(『土左日記』紀貫之著、鈴木知太郎校注 岩波文庫 1979年)「酒に就いて」つづき
酒飲み共の人生は、二重人格者としての人生である。
平常素面(しらふ)で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末に終へない好色家になり、卑猥な本能獣に変つたりする。
前の人格者はジーキル博士で、後の人格者はハイドである。
そしてこの二人の人物は憎み合つてる。
ジーキルはハイドを殺さうとし、ハイドはジーキルを殺さうとする。
醒めて酔中の自己を考へる時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。
私がもし醒めてゐる時、酔つてる時の自分と道に逢つたら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまふであらう。
この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年) この映画には二人の主役人物が登場する。
一人は金持ちの百万長者で、一人は乞食同様のルンペンである。
百万長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知つて怏々(あうあう)として居る。
そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探してゐる。
それは人間の最も深い悲哀を知つてるところの、憑(つ)かれた悪霊のやうな人物だつた。
そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔つて死場所を探してゐる不幸な紳士が、万松の薄暗い地下室で、チャップリンの扮してゐる乞食ルンペンと邂逅する。
ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがつた事情によつて、人生にすつかり絶望してゐる種類の人間である。
そこで二人はすつかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髯面をつけて接吻さへする。
酔つぱらつた紳士は、ルンペンを自宅は伴ひ、深夜に雇人を起して大酒宴をする。
タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出さうとするのである。
しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飲ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寝かせ、互いに抱擁して眠るのである。 朝が来て目が醒めた時、紳士はすつかり正気になる。
そして自分の側に寝てゐるルンペンを見て、不潔な憎悪から身ぶるひする。
彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴を戸外(おもて)へ掴み出せと怒鳴るのである。
彼は自殺用のピストルをいぢりながら、昨夜の馬鹿気た行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。
彼は自分に向つて「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。
そこでまたすつかり感激し「おお兄弟」と呼んで握手する。
それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りつたけの札束をすつかり相手にやつてしまふ。
だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰つた時、大金をもつてるルンペンを見て、この泥坊野郎奴と罵るのである。
そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。 宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によつて自己の半身(百万長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士とし紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによつて、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。
つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映つた一人二役の姿であつた。
しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のやうに嫌厭してゐる。
それでゐて彼の魂が詩を思ふ時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。 チャップリンの悲劇は深刻である。
だが天才でない平凡人でも、かうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知つてる。
特に就中、酒を飲む人たちはよく知つてる。
すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現はれて来る紳士である。
夜になつて泥酔し、女に大金をあたへて豪語する紳士は、朝になつて悔恨し、自分で金をあたへた女を、まるで泥坊かのやうに憎むのである。
酔つて見知らぬ男と友人になつたり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になつて百度も唾を吐いて嗽(うが)ひをする。
そして髪の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向つて痛感する。
…つづく…
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリが羽づくろいをしていました。
雨が止んでホッとしたのかな?
やっとブログを更新できるようになりました(^^ゞ
パソコンの動きが非常に遅くなり、修理工房に修理をお願いしたのが22日(木)。
何度も修理をしているので新しいノートパソコンを購入すことにしました。
1週間ほどして新しいパソコンが来て、セッティングにかかったのですが
高齢者なので脳が硬くなり戸惑うことばかり…
一番、アッと思ったのがLINEが使えない…
スマホを使わないとPCだけでは、ログインできない…
今まで携帯を使っていたのですが、もう限界かなとスマホに切り替えることに…
先週の日曜(25日)に販売店でスマホを購入。
電話番号などのデータも有料ですが、移してもらった。
携帯の時は、クリックだったけど、スマホはタップ。
これが難しい…
何度も何度もやり直し(^_^;
数日してネットに接続することができなくなる事態が起きて販売店に…
翌日、電話をかけたり受けたりしたときに相手の名前が表示されない
またもや販売店へ…
電話番号に「186」を付けていたことが原因だとわかり、帰宅後修正。
修理工房から電話があってリカバリーをすることに
そのときにメモリーに異常が見つかったので交換してくれました。
そういえば、購入して1年過ぎた頃からカタカタと異音。
修理工房でHDDをSSDに交換してもらった。
今度は、メモリーを交換してもらったので当分使えると思う。
金曜日にPCが帰ってきました。
昨日は、ソフトのインストールをしたり、設定をしたりしていました。
金曜日にPCが帰ってきました。
昨日は、ソフトのインストールをしたり、設定をしたりしていました。