歩いている時は、曇り空でしたが風がなくて蒸し暑かったです。
荒木健太郎さんのTwitter(7月24日)に
熱中症への備えまとめです。
気づかないうちになっているのが熱中症です。
熱中症は誰にでも起こりうることで、他人事ではありません。
いま一度、暑さ対策についてご確認ください。
(画像「適切な暑さ対策で熱中症を防ごう」、 「熱中症の応急処置をチェックしよう」
「高齢者と乳幼児は特に注意しよう」、「暑さの情報をチェックしよう」) ヒオウギが咲いていました。
祇園祭にかかせないのがヒオウギだそうです。
「祇園祭の名脇役は宮津の特産品だった!~魔除けの花・ヒオウギ~」(宮津市広報)厄除けの縁起物として「粽(ちまき)」が配られるのですが、
〝京都 祇園祭 厄よけ「ちまき」転売相次ぐ 関係者も問題視〟(NHK 7月24日)
転売する人、購入する人たちは牛頭天王(ごずてんのう)から
蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫でなく、
巨旦(こたん)将来の子孫だと見なされると思うな。祇園祭
四 御旅所祭礼とちまきの民俗的意味
大政所御旅所や少将井御旅所は洛中にあり、特に人々が住むエリアのすぐ近くに作られた。
平安京の人々は祇園社の祭神である牛頭天王という神を、毎年わざわざ自分たちの生活領域の近くに招いて祀っていたことになる。
ただでさえ疫病が蔓延(まんえん)しやすい季節に、あえて疫神の象徴ともいえる牛頭天王を招く理由は何か。
筆者は、それはおそらく牛頭天王の持つ巨大なパワーに頼って、疫病を撒きちらす種々の御霊たちを撃退しようとしたのではないかと考えている。
このような説を、筆者は「牛頭天王用心棒説」とよぶ。
その背後にあるのは、牛頭天王と蘇民将来(そみんしょうらい)をめぐる伝承だと思われる。
(『京のまつりと祈り――みやこの四季をめぐる民俗』八木透 昭和堂 2015年)
それは昔、牛頭天王が南海へ赴く途中に日が暮れ、ある村で一夜の宿を求めた。
裕福な巨旦(こたん)将来という者は牛頭たち一行を門前払いするが、貧しい蘇民将来という者は一行に宿を貸して丁重にもてなした。
やがて牛頭一行が凱旋(がいせん)する時、その村の住民たちを皆殺しにするが、心やさしい蘇民将来の家族とその子孫だけを助けた。
その時に牛頭が蘇民将来に授けた護符が茅の輪(ちのわ)であったという。
その茅の輪に「蘇民将来子孫」と記した護符を持っていれば、あらゆる厄から逃れられるという信仰がやがて日本にも伝わり、六月晦日(みそか)の夏越の祓(なごしのはら)いと結びついて、「茅の輪くぐり」の習俗が作られた。一方で厄除けのお守りとしての護符が、今日でも祇園祭に欠かすことのできない「ちまき」になったとされている。
ちまきは漢字では「粽(ちまき)」という文字をあてているが、本来の意味からすれば「茅巻(ちま)き」と表記すべきものだったのである。
現在でも八坂神社や今宮神社などの御霊信仰と関わりの深い神社では、六月末には境内に大きな茅の輪がしつらえられ、参拝した人々はその輪をくぐって厄を祓うという行事が行われている。 このように、祇園御霊会は平安時代の10世紀末から11世紀はじめ頃に始まり、その後形式は若干変化させながらも、21世紀の今日まで約千年間にわたって続けられてきたのである。
その意味では、祇園祭の有する伝統は非常に重い。
ただし誤解してはいけないのは、今日の祇園祭の主役とともいえる鉾や山は、平安時代には存在しないということである。
祇園祭といえば誰もが連想するような鉾や山が登場するのは14世紀から15世紀頃、すなわち南北朝時代から室町時代にかけてのことである。
では、鉾や山はいったいどのようにして創造されたのか。
またそれにはどんな意味があるのだろうか。
さらに応仁の乱を経て、近世から近代には、祇園祭はいかなる変遷をとげてきたのか。
(『京のまつりと祈り――みやこの四季をめぐる民俗』八木透 昭和堂 2015年)京都の時代祭は1985(明治28)年、平安遷都1100年を記念して始まりましたが、
室町時代は省かれていて2007年から室町時代列が加わるようになりました。
そこには明治維新政府の歴史観が大きな影響を与えていたと思います。
日本文化の多くは室町時代に培われたと思います。
「東山文化」(小学6年)、「町衆」(小学6年)
「歴史教育への一抗議」つづき
これは足利氏についてばかり言ふのではない。
他のすべての歴史についても同様である。
例へば平将門は、今日の歴史教科書に於て、天位を略奪しようと欲した逆賊のやうに教へられてる。
しかも実際のことは、地方豪士の勢力争ひであり、親戚同士の血族争闘史にすぎないのである。
将門によつて領地を奪はれた一地主が、朝廷に上告して救ひを求めたことから、単に官軍に抵抗して、賊名を受けたにすぎないのである。
官軍に抵抗したことは悪であり、たしかに謀叛にちがひないが、これを草双紙的に誇張して、天位を覬覦(きゆ)する逆賊などと教へるのは、果して善い教育法であるだらうか。
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年) 人間を善玉と悪玉との二種に別ち、或は仁義忠孝奸獰邪悪などの種属に定義し、すべてのモラルを八犬伝式公式に分類して、両極の誇張した対立を示すことから、修身道教の手段とするのは、徳川氏が支那の儒教から輸入した教育だつた。
支那の二十四孝や忠臣伝には、自分の腹を裂いて主君の赤児を内臓に入れ、敵の手から救つたりするやうな、怪奇的にまで義烈な忠臣孝子が現はれてくる。
そしてこの一方には、鬼畜よりもひどい人非人や悪逆人が出て来るのである。
しかし今日の社会に於て、こんな支那式儒教道徳は無意味である。
歴史は人間性の自然理に立脚して、事実を正直に語れば好いのだ。
楠正成が忠臣であることはまちがひない。
しかしその善玉を立てるために、足利尊氏を中傷して、無理に悪玉にする必要はない。
かうした日本の歴史教育は、精神に於て正に徳川時代の古い遺風を伝統してゐる。
現代の日本文化の中に残留してゐる、この儒教主義的なもの、徳川時代的なものを洗腸し尽さない限りに於て、世紀の新しい更生は望めないのだ。 僕が小中学の課程を通じて、歴史の教師から教はつた一つのことは、開国以来、未だかつて一度も、外国との戦争に於て日本が負けなかつたといふ歴史であつた。
教師は、それを日本の光輝ある誇りだと言つた。
然るにその後、高等学校で歴史を教はり、日本がしばしば敗戦して居るのを知つて驚いた。
支那との戦ひでも、朝鮮との戦ひでも、上古以来幾度も日本が負けてるのだ。
特に海軍の方は、上古から秀吉の朝鮮征伐に至るまで、常に連戦連敗の連続史である。
日本の海軍が、初めて外国との戦争で勝つたのは、おそらく明治二十七年の日清戦争が最初だらう。 すべてこんな事実は、大学や高等学校で公然と教へるのである。
小学校と中学校だけで、それを隠して嘘の歴史を教へたところで、後ではすぐにばれてしまふ。
そしてそれがばれた方では、前に教はつたすべての歴史を、根本的に懐疑するやうになるのである。
こんな教育法が、果して国民教育上に善いだらうか。
かつての帝政露西亜では、国民の一部だけを学校に入れて教育し、多数の一般民衆を無智のままとし、彼等の真理を知ることを深く恐れた。
露西亜の兵士は、その無智のために勇敢だつた。
しかも彼等の軍隊は、世界のどの列強よりも劣等だつた。
…つづく…
(『日本現代文學全集60 萩原朔太郎集』伊藤整 他編集 講談社 増補改訂版 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)/
なんかムクドリの子どもたちが水遊びをしているのを大人たちが見守っているみたいです。
夏休みになり、子どもの水の事故がニュースになるのは辛いですね…
昨日、公園で立ち話をしていました。
その方は、天六ガス爆発事故の時、職場から煙が見えたそうです(1970<昭和45>年4月8日)。
花博でおきたウォーターライド追突・転落事故(1990<平成2>年4月2日)の前日に奥さんが乗ったそうです。
なぜそんな話になったかというと
大阪・関西万博で海外のパビリオンの建設に向けた準備が遅れていることで、
突貫工事になるような状況では、事故がおきかねないなぁと話していました。