2022年12月7日水曜日

大雪

 朝、歩いているときは青空にスーッと薄い羽根のような雲が浮んでいました。

東北の方では雪が降っていて
冬の風物詩 南昌荘で「雪吊り」作業始まる〟(岩手NHK)
今日は二十四節気の「大雪(たいせつ)

十二月(仲冬)
 大雪から冬至のころ
「冬至、冬なか、冬はじめ」


 …前略…

「大雪」という二字を目にすれば、だれだって雪がたくさん降るのだ、寒さのピークだと思います。
ところが統計上からみて、列島全体がほんとうに寒くなるのは年が明けて「小寒」を迎えるころ、つまり年末からお正月過ぎたあたりからだとのこと。
太平洋側の暮らす私の知るかぎりにおいて、「大雪」のころにはまだ厳寒という日は少なく、晴天の日がつづき、雪を目にすることはめったにありません。
とはいうものの十二月の寒さにもそれなりの厳しさはあり、衣食住ははや完全なる冬仕様となります。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
12月7日 昭和19年(1944) 東海地方に大地震、死者約1000人、全壊2万6000戸余。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

報告書(1944東南海地震 1945三河地震)」(内閣府)

この東海地方の大地震は、国民に知らされていないと思う。と言うのも

1941(昭和16)年12月8日 日米開戦により、新聞・ラジオの天気予報、気象報道中止。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)

そしてこの情報は伝わっていたのかな?

1941(昭和16)年12月6日 独軍のモスクワ攻撃失敗
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)
第七話 「ニイタカヤマノボレ」への道――昭和十六年
 ●あとは陸海軍の番だ


 あとのやや錯雑した歴史の流れをくわしく追うことは省筆しますが、こうして11月26日、アメリカは日本からの交渉妥結案を拒否して、いわゆるハル・ノートを突きつける日がやってきたのです。
いまその文飾を洗い流してしまえば、ハル・ノートが日本に提示しているのはつぎの四条件ということになります。
 (一)中国およびインドからの日本軍および警察の完全撤退。
 (二)日米両国政府は中国において重慶(蒋介石)政権以外の政権を認めない。
 (三)日米両国政府は中国におけるいっさいの治外法権を放棄する。
 (四)第三国と締結した協定を、太平洋地域の平和保持に衝突する方向に発動しない。
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年)
 わかりやすくすれば、(一)は中国や仏印など日本占領地放棄を、(二)汪兆銘(おうちょうめい)政権の否定、満州国の解消を、(四)は日独伊三国同盟の有名無実化を要求するものと、日本に解釈されるほど強硬なものでありました。
つまり大日本帝国は1931年の満州事変以前の線に戻れといわれたことになるのです。
ですから、これはアメリカの対日交渉断絶、宣戦布告だとの判断を、政府や軍部が抱いてしまったのは当然かもしれません。
前後合すれば営々一年近く話し合いをつづけてきた意味はすべて水泡と帰したことになるからです。
 ハル・ノートの前日、南方軍総司令官寺内寿一大将はすでに征途につき東京を発(た)っています。
真珠湾の米太平洋艦隊を攻撃する任務をもつ南雲(なぐも)忠一中将指揮の海軍機動部隊は、ハル・ノート到着の日の午後6時、千島の単冠湾(ひとかっぷわん)から勇躍出撃しています。
ハル・ノートがあろうがなかろうがすべては予定どおり。
12月1日午前零時までに交渉が成立しなければ、対米宣戦布告が発せられる。
外交交渉には、はや残された時間はなくなっていたのです。
 29日、宮中御学問所で、天皇と重臣(首相経験者)たちの懇談会がひらかれました。
重臣たちはこもごも自分の意見をのべましたが、政府の開戦決意にやや疑問を呈したのは、岡田啓介、近衛、若槻礼次郎、米内光政、広田弘毅(こうき)であったとされていますが、『昭和天皇実録』はそのことを明確にしています。
 これを知らされた軍部は憤然とします。
『機密戦争日誌』にはその怒りが記されています。
「国家興亡の歴史を見るに国を興すものは青年、国を亡ぼすものは老年なり。重臣連の事勿(なか)れ心理も已(や)むなし。若槻、平沼連の老衰者に皇国永遠の生命を托する能わず。吾人は孫子(まごこ)の代まで戦い抜かんのみ」
 すべての手続きは終りました。
あとは12月1日の御前会議で、形式的に開戦を決定すればいいだけです。
戦闘開始の準備はすべてととのっていると考えられました。
矢は弦につがえられ、弓は満月のように引きしぼられているのです。
 アメリカでも、野村にハル・ノートを手交したあと、スティムソン陸軍長官から電話をうけたハルは、まことに意味深(しん)なことをいっています。
 「 I have washed my hands of it,it is in the hands of You and Knox,the Army and Navy 」
(私はそれから手を洗ったよ。あとは君とノックス〔海軍長官〕の手中に、つまり陸軍と海軍の手中にある)
 スティムソンは「こんどはお前の番だ」といわれてがぜん動きを活潑にしだします。
もともと対日強硬論者のかれは、日本とうまくやっていくには、ヨーロッパの国々と違い、手荒く、強引に扱うことだという信念の持ち主でありました。
午前9時半、参謀本部作戦部長ゼロ―准将、海軍作戦部長スターク大将、そしてノックス長官をよぶと、てきぱきと指示を下しました。
 こうして陸軍参謀総長マーシャル大将の名のもとに、マッカーサーやハワイ方面陸軍司令官ショート中将に送られた「極秘・優先扱」戦争警告はつぎのものでした。
 「対日交渉はすべて事実上終了したものとみる。ただし日本政府が思い直し、階段継続を提案してくればこのかぎりではない。日本の今後の行動は予想しがたい。いつ敵対行動に出るかもしれない。もし敵対行動が避けられないものとすれば、アメリカは、日本が最初の歴然たる行動をするのを欲する」
 「日本が最初の歴然たる行動を敢行」すなわち「第一撃を日本やらせよ」、それを欲している、これは間違いなくルーズベルトの意思でありました。
 ルーズベルトは世論の支持のもとの戦争ということを必死に願っていたのです。
感情的な孤立主義者たちがひっくり返って、逆に感情的な好戦主義になる、そんな状態をつくって戦争に突入することをはじめから意図していました。
かれの政策はその点で一貫していたといえます。
どんなことをしても〝大統領の戦争〟になることは避けねばならない。
そのためにも、「ヒトラーからの一撃」が必要でした。
なのに、ヒトラーは忍の一字をとおしている。
それならば、「日本軍の第一撃」が必要ということになる。
それなくして、世論の支持なしに戦争に巻きこまれれば、かれの政策、いや、かれ自身の地位が危うくなることは明白です。
その目論見と工作が図に当たって、日本が間違いなく攻撃をしかけてくる。
それゆえに、スターク海軍作戦部長が麾下(きか)の極東艦隊司令官ハート大将(在フィリピン)と太平洋艦隊司令長官キンメル大将(在ハワイ)などに発した命令に、ルーズベルトはすこぶる満足したのです。
 「日本の侵略行動がここ数日中に予期される。日本陸軍部隊の兵力装備および海軍作戦部隊の編成は、フィリピン、タイまたはクラ地峡(タイ南部)もしくはボルネオにたいする上陸作戦を示唆している。……」
 これでもわかるように、日本軍は南方方面で作戦行動を開始する。
第一撃は南方方面において、として、南アジア各方面は所要の措置をとるよう強く指示しています。
しかし、ここに明らかなことは、この警告に「真珠湾」はふくまれていない、といことです。

…つづく…
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年)

島の子どもたちが見た 開戦前の真珠湾攻撃部隊」(NHK 2021年12月10日)