午後から寒くなりました。
「新年2日ごろから再び寒気強まる Uターン時期に大雪か 気象庁」(毎日新聞)
30日から元日にかけて寒気は緩みそうだけど、
強い寒気が1月2日ごろから流れ込むそうです。 「皇居でオオタカ・フクロウ繁殖 黒田清子さんらが確認」(NHK 12月24日)
東京都心の緑地で猛きん類の繁殖が、まとまって確認されるのは珍しく、
調査班は、猛きん類を群れで追いかけるカラスが、
行政に駆除されて減ったことが関係しているのではないかと分析しています。
こちらの公園では、
鷹(オオタカ?)をカラスが集団で攻撃していました。
σ(^^;)のレンズでは届かない…
12月27日 大宝元年(702.1.29) 〔忌〕大伯(おおく)皇女(41、天武天皇皇女)。(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
去年も同じ大伯皇女の歌を書いているのですが(^^ゞ
万葉集巻第二
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷(いた)んでよませる歌二首
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む(165)
歌意
現世の人である私は明日からは二上山をわが弟の君であると見てしのぶことであろう。
(『万葉秀歌(一)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年) 鑑賞
亡き弟君が二上山に移葬されたことの理由は前にのべたように種々考えられるが、その移葬された二上山を明日からは弟の君と見るといわれるのは、皇女の悲しみの心情がしみじみと表わされている。
この御歌も五句の第一字はう、ひ、あ、ふ、いであって、いずれもやわらかな音であり、それだけにしめやかな調べとなっている。
山上の御墓は今ある御墓のままではなかったであろうが、御墓の前に佇立して千三百年も前の皇女の悲しみを悲しんだことは忘れられない。
(『万葉秀歌(一)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)「独ビオンテック、中国滞在のドイツ国民向けにコロナワクチン供給」(ロイター 12月23日)
中国の感染爆発を見ているとドイツのように
滞在する日本人にワクチンを供給する必要がある思うけど、相変わらず腰が重いなぁ。
日本に帰国するときに感染しているか不安だと思うよ!
〝武漢の「成功」、とらわれた3年 新型コロナ〟(朝日新聞)
……
大規模なPCR検査で感染者をあぶり出し、濃厚接触者らも含め幅広く隔離して感染拡大を防ぐ「ゼロコロナ」政策は、初期には効果があり、国民の評価も高かった。
多くの死者が出た諸外国を尻目に、中国では本土の死者はこれまで5千人台に抑えたと主張。
習氏は「共産党の指導と社会主義制度の顕著な優位性を示す」と誇った。
しかし、看板政策は今、崩壊の淵に追い込まれている。
感染力が強いオミクロン株が主流となり、抑え込みが難しくなった。
長引く政策で経済は冷え込み、市民の我慢も限界に達した。
…… 「感染者をあぶり出し」という中国の政策にかつての日本の感染予防を思い出した。
この感染予防によって国民に不安を植え付け、感染者やその家族を差別する事態なった。
そして今回の新型コロナの治療に従事する医療従事者や
宅配、薬局などのエッセンシャルワーカーに対する差別などが起きたと思う。
第三章 病気と社会
第一節 「病マケ」――病気の社会的意味づけの一事例
差別の契機としての病気
…前略…
「病(やまい)マケ」と呼ばれて特別視されている家筋の存在が見られる。
マケはマキのなまつたもので、この地方では本来は同族団を指すが、時には「親類」くらいの、家筋、血筋のつながる家ないし人というあいまいな内容を示すこともある。
病マケとは、ある種の病気に罹った患者をかつて出したことのある家であると周囲の人々にみなされており、またその家筋に生れた人は、将来にわたって同様の病気に罹る可能性を持っていると考えられている。
重要なことは、それらの家が、病マケでない人々から通婚忌避の対象とされていることである。
通婚忌避が差別の最大の、また最終的な表現であることを考えれば、病マケの問題は差別の問題である。
しかし、ここでは論点を絞るために論議の中心に差別問題を置くことはしない。
…後略…
(『病気と治療の文化人類学』波平恵美子 ちくま学芸文庫 2022年) 時代を代表する病気
第1章で述べたスーザン・ソンタグが「隠喩としての病い」の中で論じているように、一定の社会はそれぞれの時代の顔とも言うべき病気を持っている。
ヨーロッパでは中世はハンセン病、19世紀には結核、20世紀は癌がそれぞれ時代の病気である。
それらはその病気自体が持っている病理学的性質から離れ、さまざまな意味が付与されたという。
ソンタグは主にそれを文学的表現を分析対象にして論じているが、社会的現象として見た場合にも、「社会的に意味づけされた」病気が存在する。 江戸時代には、初期と中期には痘瘡と麻疹が、末期から明治期にかけてはコレラが社会問題化された病気であった。
一つには、ある時代の状況によって特定の病気が猛威を振るうこともあるし、また、免疫のない所へ新しく持ち込まれて蔓延し、しかも激烈な症状を呈することもある。
そのために社会的混乱をひき起し大きな問題となる。
ハンセン病や結核については次のような状況があった。
ハンセン病は「悪疾」とか「天刑病」とか呼ばれ、特に鎌倉期以降は仏教の民衆教化の手段としてこの病気が神仏の罰が現われたものとして「文化的に意味づけられた」病気とみなされるようになった。
しかし、それは長い期間に徐々に形成されていったハンセン病観であった。 ところが、明治末から大正期にかけて、それまでの疾病観に大きな変化が生じたのではないかと信じさせる出来事が全国的規模で起った。
つまり、患者の強制措置入院制度の確立である。
その背後には、日本の社会の近代化政策の一つとして、いま一つは、軍国主義化に伴って、徴兵を徹底して行う場合を予測して、感染症であるハンセン病を共同生活の場である軍隊内へ持ち込ませないためであったと考えられる。
この制度を遂行するために、警察も介入しての徹底した「患者狩り」が行なわれた。
それは、次節で述べる明治初期のコレラ大流行の時期に警官が患者狩りをしたのと同じやり方であった。
警官や医者を通してそれとなく患者のいるらしいムラや家の目星を付けておいて、夜半や明け方に強制連行するというやり方さえ取った。
寺社の周辺で、参拝者の喜捨によって生活していた患者を「癩病(レプラ)ギャング」と呼んで、より徹底して強制的に療養所へ送り込むべきことを説く論文が医学雑誌の中にさえ見出すことができる。
この制度は、ハンセン病について存在していた伝統的な疾病観念を消滅させるどころか、内容はいく分変化しながらも差別感を強化するのに大きく貢献したであろうことは疑いもない。
連行されたが最後、死んでも生れた家やムラへ帰っては来ないということは人々にとって恐怖であった。
またそれが病気そのものへの恐怖をかき立て、さらに、病人や病気を出した家への忌避観念を強めた。 ハンセン病が遺伝病でも天刑病でもなく、感染症であることが人々に理解されたことも、かえって差別観を強化することになった。
先述の、1970年代の現在も存在するハンセン病をめぐる差別的状況は、この制度の執行のあり方を抜きにしては理解できない。 結核の家筋が通婚忌避の対象からはずされるようになった変化は、ハンセン病とは対照的に、この病気をめぐる社会的状況が変化したことを反映している。
つまり、①治療効果のあがる薬の開発や治療法の発達によって「不治の病い」ではなくなったこと。
②保健活動その他を通して、病気についての理解が一般の人々に普及したこと。
③結核がそれほど「珍しい」病気ではなくなったこと、などがあげられる。 ③については、いま少し説明を付け加えたい。
私が調査した福島県のあるムラで、結核患者を出した家がかならずしも「肺病マケ」とはみなされていない事実がある。
ある例として、戦地で悪性の結核にかかり、兄弟三人までが治療の方法もないまま、かなり悲惨な状態で死んだ家があるが、ムラの人々はその家を肺病マケとはみなしていない。
また、1970年代現在療養中の患者を出している二戸の家についても肺病マケとは考えられていない。
ほかの要因も推測できるが、少なくとも、ある時期までに患者が発生した家については肺病マケとみなされたのに、それ以降に患者を出した家については肺病マケの印づけが付けられていないのである。
その時期とは、大正期から昭和初期とだいたい推察され、その時代には、特に若い娘の間に肺結核の患者が多く見られ始めた。
小作人の娘は当時盛んになっていた織物工場に働くため、ムラを出て新潟へ出稼ぎに出て行った。
それらの娘の中に患者が多く発生したのである。 つまり、病マケとして特別視され、通婚忌避を含む差別の契機となる病気のいま一つの特徴として、発生件数の少ない「珍しい」病気であるといことで、これを先にあげた五つの特徴の六番目に付け加えたい。
言葉を換えて言えば、ある事柄をもって「印づけ」とするのには希少性がなければならないのである。
肺病が、誰もが罹る可能性を持つという状況になった時から、徐々に差別の契機となる病気としての性格を失ってきたのだろう。 癌と精神障害が新たに選び取られてきたことの背後には、日本の全体社会的状況が大きくあずかっていると考えられる。
ジャーナリズムの取り上げ方からしても、癌はまさに社会的にクローズアップされている病気である。
マスコミの発達によって、これらの地方も当然それに影響されている。
精神障害もまた同様である。
知的障害者はこのムラでは、かつては健常人と一緒に生活し、簡単な農作業や手伝いをして一緒に生活していた。
ところが昭和三十年代に入って、2家族から知的障害者が家族の希望で施設へ送られ、長期間ムラへは帰って来ないという状況が見られるようになった。
知的障害者を含む精神障害は、かつてはそうではなかったのに、マケとなる契機の病気と人々に認識されるようになったのには、長年家庭やムラの中で住むことがなくなったことが大きく影響していると考えられる。 ハンセン病ほどではないにしても、故郷のムラから長年離れて「特別な」場所で生活すること、その場所そのものがムラの人々にはまったくなじみがなく、理解の届かないような状況だと思われがちなこと。
まして、ムラに帰ることなく施設で死ぬようなことが重なると、そういう施設に「送り込まなければならない」病気という認識が人々の間に広がり、やがて固定化する。
このムラでは、かつて自作農や地主の家は奉公人を数人抱えていた。
戦後はすっかり姿を消したものの、かつての奉公人の息子で知的障害者が一人、1970年代現在でも「奉公人」と呼ばれてある大規模経営の農家で生活している。
一人で生計を立てるだけの力がないと親が判断したため奉公人として残してもらうよう、本人の親が頼んだということである。
彼に対してムラの人々は差別観を持っていず、施設の送られた他の2ケースとは対照的である。 癌という明確な病名が付けられて死亡した人は1970年代なかばまでで2家族3人である。
1家族は夫婦ともに癌と診断されたのち死亡しており、ともに五十歳代であった。
夫婦の発病と死亡があいついだことから、その家が「癌マケ」になるのではないかと噂されている。
(『病気と治療の文化人類学』波平恵美子 ちくま学芸文庫 2022年)
公園で話していたのは、みなさんの周りで新型コロナに感染する人が増えてきたこと。
友だちの職場でもクラスターが発生して、しばらくして友だちも感染しました。
5回ワクチン接種をしているおかげか喉の痛みだけですんだみたい。
2年ほど前だったら職場への誹謗中傷の電話が鳴り響いただろう。