歩き始めは、薄い雲が太陽を覆っていましたが。
歩いているうちに晴れ間が見えるようになり暖かく感じました。
でも、寒さはこれから厳しくなる(^^;
「あすから日本海側を中心に再び大雪のおそれ 交通影響など警戒」(NHK)そうかその手があったか…
「中国 新型コロナ死者 “少なく見せかけている” SNSで批判の声」(NHK)
中国のやり方だと
大阪で12月20日に亡くなった方は17名なんだけど、中国式だと4名になり、重症は、0。
「中国 コロナ対策緩和後に感染拡大 病院の発熱外来に大勢の列」(NHK 12月20日)
対策緩和が感染拡大につながったような記事だけど
緩和する前から感染拡大が始まっていたと思う。
「中国の病院を襲う新型ウイルスの波 感染してもはたらく医療従事者も」(BBC 12月16日)
〝中国 医学生が死亡 「コロナ陽性の疑いも働かされた」との見方〟(NHK 12月18日)
武漢の惨状が再現されそう…ハートネットTV あがるアートの旅 ホスピタルアートを訪ねて
四国こどもとおとなの医療センターを映画監督の安藤桃子さんが訪ねていました。
素敵なアートに囲まれてこどもも大人も心を癒されると思いながら見ていました。
そして病院だと避けて通れないことがあります。
ここは大切な人を失った直後に通る地下通路。
以前は コンクリート打ちっ放しで殺風景なものでした。
そこに 職員やスタッフが総出で“鎮魂”の意味を込めた青い花を描いたのです。
その花には名前のイニシャルが書かれています。 †キリスト教とコロナ禍
それでも、肥大化して変質する資本主義を牽引してきた西洋が、新型コロナウイルスの「発祥地」とされた中国よりもはるかに激越な形で感染爆発に見舞われることになったのは、結果的に意味があることだった。
ローマ・カトリックのお膝元であるイタリアで、しかも復活祭の時期のそれが起ったことで、人々は、死や病に関して培われてきた宗教のレガシー(legacy)を脊髄反射的に活性化することになったからだ。
キリスト教は死と病にルーツを持つ宗教である。
ローマ帝国支配化のパレスチナで教えを説いたナザレのイエスは、当時形骸化していたユダヤ人の律法遵守主義に異を唱え、救いとは律法遵守によるものではなく、困難な状態にある隣人に手を差し伸べることにあると断言した。
(『疫病の精神史 ―ユダヤ・キリスト教の穢れと救い』竹下節子 ちくま新書 2021年) イエスは、各地で心身の病や障害を抱える人びとを癒してまわり、「奇跡の治療師」として名声を轟(とどろ)かせた。
彼が癒した者の中には、既に息絶え埋葬されてしまった人さえいた。
しかし、神の業を施すカリスマとして多くの信奉者に付き従われたにもかかわらず、彼の言動を快く思わない神殿の祭司たちに捕らえられて冒瀆(ぼうとく)罪に問われてしまう。
さらにイエスは、ローマ帝国の官憲に引き渡されて無抵抗で鞭打たれ、辱められ、反逆者として生きたまま手足を十字架に釘打たれて苦しみながら窒息死する。 そのイエスが復活したからこそ、キリスト教は死に打ち克つ宗教として広まった。
それまで、神とは全知全能の強い「父」のイメージであり、人間の生殺与奪(せいさつよだつ)をほしいままにするものだったのに対し、キリスト教は、創造者としての「父なる神」、人々を癒し続けたのに自分自身は苦しみ惨殺されることを人として受け入れた「子なる神(イエス)」、人々に働きかけて癒す「聖霊」とを「三位一体」の神とした。
こうして、人々に降りかかる様々な災厄からの救いを祈り、犠牲や供物(くもつ)を捧げて請い願うよな多神教や民間信仰とは、まったく別のタイプの宗教が誕生することになった。 人間社会で一番古く、普遍的に存在する信仰体系は、自然の災厄や疫病、生老病死といった実存的危機を前に、それらを引き起こしたり制御したりする「外側」の力に働きかけて、危機を避けたり緩和したりする装置を設定することから始まっている。
病や死はそれだけではネガティヴなものだから、共同体を無事に存続させるためにはそれらを浄化し、昇華する手続きが必要だった。
そこから「穢(けが)れ」や「禁忌(きんき<タブー>)」といった考え方が生れてくる。
したがって「穢れ」とは絶対的なものではなく、ある体系、秩序を維持するために相対的に不都合とされたものだ。
「穢れ」を浄化するために祈ったり、逆に聖なるものとして祀(まつ)り上げたりすることもある。
災厄は、天罰や神罰や前世の報いだけでなく、非業(ひごう)の死を遂げた者が怨霊(おんりょう)化して引き起こしたものかもしれない。
それを鎮めるためにその魂を「神」として祀る方法もまた世界各地にみられる。 一方で、まだ「魂」として慰霊(いれい)、鎮魂(ちんこん)ができていない状態にある「病んでいる人」や、共同体の一員としての役割を果たせない障害を病や事故で得たり、もって生れてきたりした人は、排除されたり、隠されたり、時として抹殺されたりしてきた。
疾患の種類が、視力、聴力などの感覚器官を奪うものや、手足を失うもの、皮膚に現れて外観を損なう皮膚病である場合は特に人々から恐れられ、感染性のものとなるとさらに忌み嫌われた。
また逆に、忌み嫌われるような心身の疾患が感染するかのように恐れられ、患者は、それが共同体に広がらないように、追放されたり隔離されたりした。 イエス・キリストの価値観はそれを転覆するものだった。
「強い者と弱い者」「共同体にとって敵と味方」「規範の追随者と違反者」「善と悪」などの二元論を、彼はことごとく無化した。
もちろんそのような過激さは、様々な上下関係を規定する支配者、秩序の維持者にとっては到底受け入れられないものだったために、イエスは殺されてしまったのだ。
それでもイエスの復活を信じる者たちによって、その教えは原始共産制の信仰共同体を生むことになった。
彼らはその社会における神々や、神格化した支配者を拝もうとしなかったために「神を崇(あが)めない反抗者」として迫害され、おびただしい殉教者が生れた。
にもかかわらず、そのキリスト教が後にローマ帝国の国教となり、大移動してきたゲルマン民族の首長たちに取り入れられることで、ギリシャ=ローマ文化とユダヤ=キリスト教文化、ゲルマン文化のハイブリッドとしての「ヨーロッパ文明」が形成されたのだ。
その後、ヨーロッパの歴史は、他の地域と同じように部族や血族の争いの繰り返しであり、国教の全体主義化や強者間の権謀術策(けんぼうじゅっさく)の渦巻く中で展開していった。
その中でキリスト教の説く教えも、歪曲されたり無視されたり侵害されたした。 けれども、病や死そのものを「穢れ」とは見なさず、病む人、苦しむ人、障害のある人の尊厳と切り離して考えることは、キリスト教のアイデンティティの根幹に生き残った。
それは疫病という危機的状況において最も表面化した。
ユダヤ教の律法の世界では、疫病にかかった者が共同体の誰かに近づくときは、「わたしは汚れた者です」と叫ばなければならないとされていた。
イエスによって重い皮膚病から癒されて清くされた人も、祭司のところへ行って、自分が癒されたことを証明し、社会に復帰をしてよいという許可をもらう必要があった。
そのような世界で、イエスは病者を「汚れた者」として排除しないばかりか、「病者を世話をする人は神の子である自分を世話しているのだ」とまで言ったのだ。
(『疫病の精神史 ―ユダヤ・キリスト教の穢れと救い』竹下節子 ちくま新書 2021年)今朝の父の一枚です(^^)/
この時期、ヤマガラを見つけると他の小鳥に出会えることが多いですよ!
他の種族との共同生活で厳しい冬を乗り切る
鳥類は基本的に春~夏はつがい単位で子育てをしまう(コロニーといって、集団で繁殖する種類もいます)。
繁殖が無事終わり、子どもたちが親離れすると、鳥たちの当面の仕事は次の繁殖期まで「生き残ること」だといえます。
そのためにシジュウカラなどのカラ類やエナガ、コゲラ、メジロなどは繁殖が終わると、それらの違う種類同士が混じり合って群れをつくります。
これを「混群(こんぐん)」といいます。
混群になると、エサを見つけやすかったり(ときには横取りしたり)、天敵に気づきやすかったり(ときには仲間を犠牲にしたり)と、様々な素晴らしいメリットがあります(デメリットもあるかもしれません)。
その年の気候条件やエサ事情が厳しくなるほど、混群をつくる傾向が強まるといいます。
鳥たちは生きるために必死です。
もしかしたら、気に入らない他種とも仕方なく付き合っているのかもしれません。
しかし、鳥見をする人としては、まとめていろんな可愛い小鳥がみられるので、冬の「混群」は、ありがたいシステムです。
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)