2021年11月29日月曜日

霜が降りていた

昨日からかなり冷え込んでいたので霜が降りていました。

近畿各地 今季いちばんの冷え込み 京都・奈良・彦根で初氷」(関西NHK)
今週の0655「たなくじ」(見逃し配信:12月6日まで)
<さがしもの>コートのポケットが怪しい
寒くなってきて着こむとポケット増えるよね…
今朝の「天声人語」でも取り上げていたのだけど

 「中国に配慮してオミクロン株に? WHOが2文字飛ばしの理由を説明」(朝日新聞 11月28日)

確かに中国の国家主席だとクレームをつけるだろなぁ
でも「オミクロン」という命名に尾身茂さんは苦笑いをしているだけだと思う。
天声人語によると

▼残されたギリシャ文字はあと九つ。
それらが尽きたら、次は星座名がが当てられる見通しと聞く。
オリオン株、ジェミニ株に人類がおびえる日が来るのだろうか。


星座名がついたらなんか星へのロマンが…
それに新型コロナへの警戒感が薄まるような気もする?
先日、頼んでいた絵本が届きました。
ハナはヘビがすき』(蟹江杏 福音館書店)
虫めづる姫君」でさえ、「ヘビ」が苦手!
という私も巳年なのにヘビは苦手なので
どんな絵本なんだろうと興味を持ちました。
面白かったですよ!
蟹江杏さんのことを初めて知ったのですが、
HPなどを見ると子どもたちのために
NPO法人3.11こども文庫」という活動をされている。
 福音館書店販売部のTwitterに(ハッシュタグをクリックする時は注意(^_-)-☆)

長年、アート活動を通して子どもたちと交流し続ける版画家 #蟹江杏 さんの
新刊
#ハナはへびがすき 』は、#ヘビ  #カエル  #トカゲ など
“ちょっと変わった生き物”が大好きなハナという女の子のお話です。
ハナは、自分が大好きな生きものを、みんなに見せてあげようと思い、連れていくことにします。

小さな荷車に、いろんな生きものをのせて……。
けれども、それを見たみんなは、びっくりぎょうてん。
大騒ぎして逃げだしてしまうのでした。

そんな中、ひとりの女の子が、ハナのところにやってきます。
ハルという子でした。ハルはハナと同じようにへびが大好きなのでした。

けなげなハナ、そしてハナが愛してやまない生きものたちの絵は、生き物好きの子ならば目を奪われ、
生き物が得意でない子でも、かわいらしくてつい見つめてしまうことでしょう。

そして絵本を読み終わるころには、「好き」という気もちをもっと大切にしたいと感じる、そんなあたたかい絵本です。
 『蛇――日本の蛇信仰』を本棚から取り出した。

吉野裕子さんの著書は、数冊持っていますが、読むたびに新しい発見があります(一読だけでは理解できていない(^^ゞ)
  あとがき

 日本民族が縄文時代から蛇を信仰していたことは明白な事実である。
原初において蛇は絶対の信仰対象であったが、知能が進むにつれ、日本民族の蛇信仰の中には、この絶対性、つまり畏敬とは別に、強度の嫌悪が含まれてくるようになる。
 日本神話の中に描かれている蛇は、すでにこの種の絶対の信仰対象であった原初の蛇ではなく、畏敬と嫌悪の矛盾を内在せている蛇であり、しかもどちらかといえば、嫌悪の要素の方がむしろ勝っている蛇である。
(『蛇――日本の蛇信仰』吉野裕子 講談社学術文庫 1999年)
 畏敬と嫌悪、この二要素を内在させているため、蛇信仰はこれを口にすることも、筆に上せることも避けられて、多少の例外はあるにせよ、蛇信仰はもっぱら象徴につぐ象徴の中にその跡を隠して存続をつづけることになる。
 その象徴の物実は、鏡・剣をはじめ、鏡餅・扇・箒・蓑・笠などのほか、外見からはほとんど蛇となんの縁もゆかりもなさそうなものが、「蛇」として信仰されたのである。
 それら、夥(おびただ)しい蛇象徴物の出現は、日本における蛇信仰の衰退を意味するものではない。
 強烈な畏敬と物凄い嫌悪、内在するこの矛盾が蛇の多様な象徴物を生み出す母胎であり、基盤である。
 蛇がもし祖神として畏敬される一方の信仰対象であったなら、日本民族はなにを好んで蛇の象徴化をはかったろう。
 同様に、もし蛇が愛されるというより、少なくとも嫌悪されるものでなかったら、なにを苦労して象徴物を創り出したろう。
 蛇象徴物は、日本民族の蛇に対する畏敬と嫌悪という二元の強度の緊張の上に出現したものであって、この二者の相克(そうこく)なしには到底生まれ出るはずのものではなかったのである。
 このような緊張・矛盾・相克を祖神としての蛇に持たなかった台湾の高砂族(たかさごぞく)は、現代に至るまで蛇そのものを露(あら)わに木に彫刻し、衣服に刺繍して、その信仰を隠そうともしない。
 物事の常として、洗練は洗練をよび、象徴化はその度合いをますます深めるものである。
そうなれば、ついにはそれが一体、なんの象徴化であったのか、肝腎(かんじん)の本体は忘れ去られてしまう。
本体が忘れ去られたとき蛇信仰は当然、衰退する。
蛇信仰の衰退は仏教、陰陽五行思想の導入により必然的なことであるが、それ自体の中にもその要因はひそんでいたわけである。
 中国地方の荒神神楽における蛇託宣、出雲の竜蛇様、日本各地に残る蛇縄神事など、祭りの表面に現われて、明確に残存している蛇も今日なお多いが、高度の象徴化の中に蛇としての生命を消滅させられている蛇はそれ以上に多いのである。
 たとえば、鏡は鏡としてそれ自体、聖なるものとされ、鏡餅は神への供饌(きょうせん)としてのみ扱われることが多く、扇は神の招(お)ぎ代(しろ)として認識されている。
 本書は、その鏡とか鏡餅など、象徴化の中にその本体が忘れ去られ、埋没させられてしまった蛇の発掘を主要テーマとして、併せて、多くの謎につつまれているミシャグチ信仰の考察も行っている。
 なお、日本に祭事・民俗事象に多出する三角・菱形等についての本書の扱いは、従前の拙著中におけるそれとは多少異なっているところもある。
この考えは蛇を考察の主対象としているうちに、自然に到り着いたもので、その点ご了承いただければ幸いである。
 また、鏡は来(きた)るものを映(うつ)し、去るものは留(とど)めず、寂然として、しかも明るい。
鏡のもつこの性質から、中国では鏡に哲学的な意味を求めようとする思想があった。
一方、剣(つるぎ)は帝王の権威の象徴として捉えられ、鏡剣は単なる実用品としてではなく、特別に霊物視されていた。
日本においても神器としての鏡剣がこうした中国思想に呼応するものであったことは当然考えられるが、「鏡(きょう)」にカガミの訓(よ)みを与えた当時の日本人が、このような中国思想に影響されていたとは到底考えられない。
本書は、中国渡来の「鏡(きょう)」を蛇の目として熱狂的に信仰対象とした日本古代蛇信仰の解明を目的とし、中国のそれとは切り離して考察したものである。
このたびは割愛した資料を生かし、今後、さらに問題を掘り下げ考察したいと願っている。
(『蛇――日本の蛇信仰』吉野裕子 講談社学術文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
今朝の画像を見ながら、母が「うらをみせ おもてをみせ」とよく言っていたと話していました。

  うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

(紅葉が、裏を見せ表を見せしてひらひらと散るように、私も喜びと悲しみ、長所や短所など人生の裏も表もさらけ出しながら、死んでいくことだ。)

「うらを見せ」は季語「もみぢ」で秋。
出所は貞心尼(ていしんに)『はちすの露(つゆ)』で良寛の末期の一句。
同書は「こは御(おん)みづからのにはあらねど時にとりあひのたまふいといとたふとし」
(この発句は御自身の作ではないけれど、そのとおりにかなって口ずさまれ、たいそうご立派である)とする。
(『良寛 旅と人生 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』松本市壽編 角川文庫 2009年)