なんか怪しくなっているみたいですね…
それでも今朝は、晴れて歩いていると汗が出ました。
〝文化の日「晴れの特異日」に陰り さらに晴れの出現率の高い日は?〟(ウエザーニュース11月2日)私は、日差しを浴びて歩けるけれど、紫外線を浴びると皮膚ガンを起こす難病の子どもたちがいる。
確かNHK病院ラジオ「#2 子ども病院編」に出演してくれた男の子がいた。
難病「色素性乾皮症」の子どもたちに朗報。
「難病の子どもに外で遊ぶ機会を 紫外線遮断の防護服を開発」(NHK)
「株式会社ピーカブー 代表取締役 松成紀公子」今日は、「文化の日」ですが、父の時代は「明治節」(明治天皇が嘉永5年9月22日<新暦11月3日>に誕生された)。
そして、日本国憲法が公布された日です。
「日本国憲法の誕生 第4章 帝国議会における審議」(国立国会図書館)
憲法は、国民の権利を国の権力から守る役目をしています。
コロナ禍に乗じて憲法を改悪しようとしている人たちは
中国のように国民を国家権力で縛りつけるために憲法を改悪しようとしていると思います。
敵地攻撃能力なんて勇ましい言葉がでてきましたが、
日本を攻撃するのに基地を攻撃する必要はない。
在日米軍基地などは防衛システムが24時間稼働している。
一方、原子力発電所(「原子力発電所の現状」資源エネルギー庁)は、テロ対策が不備なところさえある。
核弾頭でなくても通常のミサイルが命中すれば日本は壊滅的な被害を被る。
日本が生き延びることができる外交をもっと真剣に考えるべきだと思います。
加藤陽子さんの『この国のかたちを見つめ直す』より「 9条の意義、見つめ直すべき時」を転記します( ..)φ第4章 戦争の記憶~歴史は戦争をどう捉えたか
9条の意義、見つめ直すべき時
(編集部注:戦後70年の終戦を日を迎えた2015年8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で、天皇陛下は「先の大戦に対する深い反省」に初めて言及した。改めて憲法第9条について著者が語った。)
戦後70年が50年、60年と異なるのは、「3.11」を経験したことにあります。
原発事故は、人間と核の関係を再考させました。
米国のある世論調査でも、原爆投下を正当化できるとする回答が若年層で5割を切っています。
今、国民に求められているのは、先の大戦での加害を胸に刻む一方で、受忍論では済まされない戦争の惨禍を正確に跡づけることでしょう。
(『この国のかたちを見つめ直す』加藤陽子 毎日新聞出版 2021年)
最近、「リットン報告書」(国際連盟理事会がリットンを委員長として組織した満州事変・上海事変に関する調査委員会による報告書)を再読し、日本に欠けていたのは実利主義の観点だったと思い至りました。
当時の日本は、中国政治の不統一と混乱を言い立てていました。
しかし報告書は、平和を維持し中国の統一と近代化を進める道こそが、隣国日本の経済を最も潤すはずだと説いていたのです。
外交評論家の清沢洌(きよさわきよし)も同じことを論じていました。満州で南満州鉄道の上げる利益が5000万円だとすれば、日中貿易全体の利益は10億円にも上る。
中国との妥協こそが必要だ、との主張でした。 日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎(いしいいたろう)も、回想録(『外交官の一生』中公文庫)の中の「結尾三題」で、こう述べています。
外交ほど実利主義なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。理念も何もない。外交の意義はそこに尽きる。
今こそ、味わうべき提言でしょう。 憲法第9条をめぐっては、最近、次のような批判が多くなされているようです。
日本人が平和憲法を守ってこられたのは、在日米軍の存在があったからであり、また米国の核の傘のおかげなのだ、といった論調です
ただ、9条には、国内的な存在意義がある点を忘れるべきではありません。
9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました。
戦前の軍部がなぜあれだけ力を持てたかといえば、国の安全と国民の生命を守ることを大義名分とした組織だったからです。
実際には、大義の名のもとに、国家が国民を存亡の機に陥れる事態にまで立ち至りました。9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました。
戦前の軍部がなぜあれだけ力を持てたかといえば、国の安全と国民の生命を守ることを大義名分とした組織だったからです。
軍部は、情報の統制、金融・資源のデータの秘匿、国民の監視など、安全に名を借りて行ったのです。
このような組織の出現を許さない、との痛切な反省の上に、現在の9条があるのだと思います。
(毎日新聞 2015年8月16日)
(『この国のかたちを見つめ直す』加藤陽子 毎日新聞出版 2021年)最近、楽しみにしているコーナーがあります。
Eテレ2355「ヨルガヤ(夜ケ谷)姉妹の今夜も眠れません」(見逃し配信:11月10日まで)
昨日のEテレ0655、読書週間(10月27日→1月9日)にちなんで「0655 今朝の1行目」(見逃し配信:11月9日まで)
宮沢賢治の『いちょうの実』が紹介されていて、転記したことがあるなぁと調べたら
何か所も転記間違いをしていました(^^;)
終了したブログに載せていたので改めて転記したいと思います( ..)φ
今回も転記ミスがあると思います…
いてふの実
そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼(や)きをかけた鋼(はがね)です。
そして星が一杯です。
けれども東の空はもう優しい桔梗(ききやう)の花びらのやうにあやしい底光りをはじめました。
(『新修 宮沢賢治全集 第八巻』宮沢清六、入沢康夫、天沢退二郎編集 筑摩書房 1979年)
その明け方の空の下、ひるの鳥でも行(ゆ)かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行(ゆ)きました。いてふの実
そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼(や)きをかけた鋼(はがね)です。
そして星が一杯です。
けれども東の空はもう優しい桔梗(ききやう)の花びらのやうにあやしい底光りをはじめました。
(『新修 宮沢賢治全集 第八巻』宮沢清六、入沢康夫、天沢退二郎編集 筑摩書房 1979年)
実はその微(かす)かな音が丘の上の一本いてふの木に聞える位澄み切った明け方です。
いてふの実はみんな一度に目をさましました。
そしてドキッとしたのです。
今日こそはたしかに旅立ちの日でした。
みんなも前からさう思ってゐましたし、昨日の夕方やって来た二羽の烏(からす)もさう云(い)ひました。
「僕(ぼく)なんか落ちる途中で眼がまはらないだらうか。」一つの実が云ひました。そしてドキッとしたのです。
今日こそはたしかに旅立ちの日でした。
みんなも前からさう思ってゐましたし、昨日の夕方やって来た二羽の烏(からす)もさう云(い)ひました。
「よく目をつぶって行けばいゝさ。」も一つが答へました。
「さうだ。忘れてゐた。僕水筒に水をつめて置くんだった。」
「僕はね,水筒の外に薄荷水(はくかすゐ)を用意したよ。少しやらうか。旅へ出てあんまり心持ちの悪い時は一寸(ちょつと)飲むといゝっておっかさんが云ったぜ。」
「なぜおっかさんは僕へは呉(く)れないんだらう。」
「だから、僕あげるよ。お母(つか)さんを悪く思っちゃすまないよ。」
さうです。この銀杏(いてふ)の木はお母(かあ)さんでした。
今年は千人の黄金(きん)色の子供が生まれたです。
(『新修 宮沢賢治全集 第八巻』宮沢清六、入沢康夫、天沢退二郎編集 筑摩書房 1979年)
つづく…