2021年11月7日日曜日

立冬

今朝は、風が冷たくて冬が近づいているなと思った。
今日は「立冬
 十一月(初冬)
 立冬から小雪のころ
  冬支度のしるし


 日本列島の北から南までを、猛暑、大雨、洪水、山崩れなどで苦しめた異常気象の夏や秋も去り、いつの間にか「立冬」「小雪」を迎えるまでになってしまいまいした。
思えば、季節の移り変わりははいつも「いつしか」「どことなく」という常套(じょうとう)語をまといながら確実に次の季節に移ってゆきます。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
  立冬と言葉も響き明けゆく空  高柳重信(たかやなぎじゅうしん)

 2020年の「立冬」は11月7日、それから15日のちの11月22日は「小雪」です。
立冬は文字どおりこの日から冬ですよという日なのですが、11月初旬の立冬のころはまださほど寒くもなく、むしろ秋たけなわといえるような好季節です。
田からは新米が、畑からは芋や豆が、野山からは果実や木の実などが届く稔(みの)りの秋の集大成のような季節です。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
 Eテレ0655で11月4日に放送された「今朝の1行目」(見逃し配信:11月11日まで)
紹介されていたのが寺田寅彦の随筆。
子ども達に読んでほしい本です。
  蛆(うじ)の効用

 虫の中でも人間に評判のよくないものの随一(ずいいち)は蛆である。
「蛆虫めら」というのは最高度の軽侮(けいぶ)を意味するエピセット(呼び名)である。
これはかれらが腐肉(ふにく)や糞堆(ふんたい)をその定住の楽土(らくど)としているからであろう。
形態的には蜂(はち)の子やまた蚕(かいこ)とも、それほどひどくちがって特別に先験的(せんけんてき)に憎むべく、いやしむべき素質を具備(ぐび)しているわけではないのである。
それどころか、かれらが人間から軽蔑される生活そのものが、実は人間にとって意外な祝福をもたらす所以(ゆえん)になるのである。
(『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2000年)
 鳥や鼠(ねずみ)や猫の死骸(しがい)が、道ばたや縁(えん)の下にころがっていると、またたく間に蛆が繁殖(はんしょく)して腐肉(ふにく)の最後の一片(ぺん)まできれいにしゃぶりつくして白骨と羽毛のみを残す。
このような「市井(しせい)の清潔係」としての蛆の功労(こうろう)は古くから知られていた。
 戦場で負傷したきずに手当をする余裕がなくて打(う)っちゃらかしておくと、化膿(かのう)してそれに蛆が繁殖する。
その蛆がきれいに膿(うみ)をなめつくしてきずが癒(い)える。
そういう場合のあることは昔からも知られていたであろうが、それが欧州大戦(おうしゅうたいせん)以後、特に外科医の方で注意され問題にされ研究されて、今日(こんにち)では一つの新療法(しんりょうほう)として、特殊な外科的結核症(けっかくしょう)や真珠工病(オステオミエリチス)などというものの治療に使う人が出てきた。
こうなると今度は、それに使うための蛆を飼育繁殖させる必要が起こってくるので、その方法が研究されることになる。
現に、昨1934年の『ナツーアウィッセンシャフテン』(ドイツの学術雑誌名)第31号に、その飼育法に関する記事が掲載(けいさい)されていたくらいである。
 蛆ががきたないのではなくて、人間や自然の作ったきたないものを浄化(じょうか)するために蛆がその全力をつくすのである。
尊重(そんちょう)はしても軽侮(けいぶ)すべきなんらの理由もない道理である。
 蛆が成虫になって蠅(はえ)と改名すると、急にたちが悪くなるように見える。
昔は「五月蠅」と書いて「うるさい」と読み、昼寝の顔をせせるいたずらもの、ないしは臭(くさ)いものへの道しるべと考えられていた。
(は)ったばかりの天井(てんじょう)にふんの砂子(すなご)を散らしたり、馬の眼瞼(がんけん)をなめただらして盲目(もうもく)にする厄介(やっかい)ものとも見られていた。
近代になって、これが各種の伝染病菌の運搬者(うんぱんしゃ)、播布者(はんぷしゃ)として、その悪名を宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「蠅取りデー」の出現を見るにいたったわけである。
著名の学者の筆(ふで)になる「蠅を憎むの辞(じ)」が現代的科学的修辞(しゅうじ)に飾(かざ)られてて、しばしばジャーナリズムをにぎわした。
 しかし蠅を取りつくすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時に、蛆もこの世界から姿を消す、するとそこらの物陰(ものかげ)にいろいろの蛋白質(たんぱくしつ)が腐敗して、いろいろのばいきんを繁殖させ、そのばいきんはめぐりめぐって、やはりどこかで人間に仇(あだ)をするかもしれない。
 自然界の平衡状態(イクイリブリアム)は試験管内の化学的平衡のような簡単なものではない。
ただ一種の小動物だけでも、その影響の及ぶところははかり知られぬ無辺(むへん)の幅員(ふくいん)をもっているであろう。
その害の一端(いったん)のみを見てただちにそのものの無用を論ずるのは、あまりにあさはかな量見(りょうけん)であるかもしれない。
 蠅がばいきんをまきちらす、そうしてわれわれは知らずに、年中少しずつそれらのばいきんを吸い込みのみ込んでいるために、自然にそれらに対する抵抗力をわれわれの体中に養成(ようせい)しているのかもしれない。
そのおかげで、何かの機会に蠅以外の媒介(ばいかい)によって、多量のばいきんを取り込んだときでも、それにたえられるだけの資格がそなわっているのかもしれない。
換言(かんげん)すれば、蠅はわれわれの五体をワクチン製造所として奉職(ほうしょく)する技師技手(ぎしぎしゅ)の亜類(あるい)であるかもしれないのである。
 これはもちろん空想である。
しかしもし蠅を絶滅するというのなら、その目に自分のこの空想の誤謬(ごびゅう)を実証的(じっしょうてき)に確かめた上にしてもらいたいと思うのである。
 あえて蠅に限らず動植鉱物(どうしょくこうぶつ)に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣(しそうふうぞくしゅうかん)についても、やはり同じようなことがいわれはしないか。
 たとえば野獣(やじゅう)も盗賊(とうぞく)もない国で、安心して野天(のてん)や明け放(はな)しの家で寝ると、風邪を引いて腹(はら)をこわすかもしれない。
〇を押さえると△があばれだす。
天然(てんねん)の設計による平衡を乱す前には、よほどよく考えてかからないと危険なものである。
   (1935年2月「自由画稿」より)
(『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2000年)

こんな取り組みがあります
日本の「ウジ虫」が世界の食料危機を救う〟(吉岡陽 日経ビジネス 2019年1月16日)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワセミに出会って喜んでいました。

翡翠[かわせみ]
…前略…

 カワセミという言葉の語源は案外複雑で、奈良時代には「そに」または「そにとり」と呼ばれていました。
この「そに」が、時代とともに「そび」「せび」「せみ」へと徐々に変化し、室町時代には川にいる「せみ」を意味する「かわせみ」となったようです。
 奈良時代の「そにとり」という語は、じつはもうひとつの変遷を遂げます。
「そに」も「そにとり」も青緑色をした鳥という意味だったのですが、その色を指す「そにとりいろ」が転じて「みどりいろ」になったのです。
 緑色は日本語において、カワセミの色だったというわけです。
「みどり」は元来、瑞々(みずみず)しさを表す語で、それが新芽の意味に変わったというのが通説ですが、それでは「みどり」という音の説明にはなりません。
その点、「そにとり」が「みどり」に変化したという説には説得力があります。
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一  ナツメ社 2015年)

次の準備ができるまで更新をお休みします(^^ゞ