2021年11月23日火曜日

勤労感謝の日

昨日は冷たい雨だったけど、今朝は、風が冷たかったです。
近畿地方 冬型の気圧配置と寒気の影響 各地で冷え込む」(関西NHK)

今日は「勤労感謝の日」。
父の時代は「新嘗祭」でした。

新嘗祭(にいなめさい)

 その年の稲の収穫を神に感謝する重要な祭りで、音読みとしてシンジョウサイともいう。
 収穫後の祭りは古くから行われており、これをニヒナメノマツリとして、新嘗祭と記すようになった時期は不明であるが、嘗の字には秋の祭りや毒味役の意味がある。
記紀や『常陸国風土記』などには、新嘗をニヒナヘ・ニハナなどと読ませ、新たなる穀物を食べ試みる意味であった。
折口信夫は『万葉集』巻十四の東歌にニヘ・ニフナミの読みがあり、ニヘは食物で神や天子に捧げるものを意味し、ニフナミはニヘの物忌みを意味するという。
また、中部地方以東の各地に伝わる稲村・稲積みをあらわすニホ・ニョウ(ミュウ)がこの新嘗のニヒではないかと説いた。
本来は嘗一字でもってニヒナメなどと読むべきものであろう。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
新嘗の日が古くは十一月下の卯日(三卯あれば中の卯の日)が充てられた(大宝神祇令)のは、田の神の祭りや稲作に伴う種々の行事や正月の年神の去来について、特に卯の日を重視する風があることと関係があろう。
明治6(1873)年、新暦採用に伴い11月23日をもって新嘗祭を行うことが定められた。
民間では、十二支によって日を定めずに、霜月二十三夜に稲の収穫に伴う物忌みの祭りを行なう例も多いなど、民間の刈上げ祭りとも関係のある日であったためともいわれる。
…後略…
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
宝永4年(1707年)11月23日に

 宝永富士山大噴火

 宝永大地震から49日後の11月23日午前10時ごろ、富士山が噴火した。
宝永地震の翌日である10月5日午前6時ごろに富士山東麓でM6.5程度の大きな余震が起きており、大地震が噴火の引きがねになった可能性は高い。
当時の人びとも地震と噴火を関連付けて意識していた。
噴火は10日以上続き、麓(ふもと)には焼け石が降り、須走(すばしり)村では75戸のうち37戸が焼け、他の家もすべて倒壊した。
火山灰は西風に乗って房総地方にまで広く降り積もった。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
 この噴火で最も大きな被害を受けたのは小田原藩であった。
小田原藩は、元禄地震津波で壊滅的な打撃を受けた直後であったから、事態は深刻であった。
藩主は大久保忠増(ただます)
二年前の宝永2年(1705)に老中に就任していた。
幕府は拝借金1万5000両を許した。
ただし、藩では領内巡視を行なったものの、村々に対しては自力復興を促すのみであった。
やむなく領内のうち104か村は相談して江戸へ出訴することにした。
この動きに慌てた藩では、2万俵の御救米と2万7000両の砂除金(すなよけきん)を支給すると村々に告げた〔永原慶二『富士山宝永大爆発』2002年〕。
 しかし、翌年になっても復興は遅々として進まない。
そこで幕府は、思い切った手を打つことにした。
被災地を上地(あげち<知行地を返上すること>)させて、幕府の手で直接復興しようというのだ。
これにより、小田原藩領のうち半分を超える5万6384石余が幕府領とされ、かわりに美濃・三河・伊豆・播磨(はりま)の四か国で同量の替え地が大久保家に与えられた。
小田原藩支藩の荻野山中(おぎのやまなか)藩と旗本稲葉(いなば)紀伊守正辰(まさとき)の知行地も一部が上知されている。
 幕府で復興を担当したのは、関東代官頭(だいかんがしら<郡代>)伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)であった。
伊奈の方針は、耕地の復旧は村の自力で行わせて、「公儀」は治水などの大規模工事を行うというものであった。
これにもとづき、宝永5年閏1月に岡山藩・小倉(こくら)藩などに「相州川浚(かわざらえ)御手伝普請」が命じられた。
普請の内容は、酒匂(さかわ)川・金目(かなめ)川の川浚えと堤の修復で、実際の工事は町人が請け負うかたちで行われた。
請負額は8万5500両、これを御手伝を命じられた大名が知行高に応じて出金した。
人夫には被災地の人びとが一日銀2匁(もんめ)5分(ふん)で雇われた。
これには被災者援助の意味もあった。
工事は四か月ほどで終了する。
 ところが、同年6月下旬の大雨で酒匂川の大口(おおぐち)堤が決壊してしまう。
上流に溜(た)まった灰土が一挙に川へ流れ込み、土石流となって土手を打ち破ったのだ。
10月、幕府は直(じき)普請で当座の修復を行った。
そして翌6年8月に再び御手伝普請を、酒匂川は伊勢津藩藤堂(とうどう)氏に、金目川は遠江浜松播松平氏にそれぞれ命じた。
さらに宝永7年4月には相模川の御手伝普請を山形播堀田(ほった)氏らに命じている。
 これらの大河川の普請とは別に、中小河川や用水路の復旧は村々が組合として行った。
これらの普請に対して幕府は、村々からの訴願に応じて川浚人足扶持米(ふちまい)も薄く広く配布した〔古宮雅明「富士山宝永噴火被災地の川普請と幕府の対応」神奈川県立歴史博物館 2009年〕
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)

この記事をアップした後に気づいたのが
国立公文書館のTwitterに

宝永4年(1707)11月23日、富士山が噴火し、宝永山が誕生しました。
画像の『徳川実紀』同日の記事によると、江戸では地震が続き、近国の田畑は火山灰によって埋没したとのこと。
また、新井白石の随筆『折たく柴の記』によれば、江戸でも火山灰が雪のように降ったそうです。
今朝の父の一枚です(^^)v
今朝もジョウビタキ♀に会えて喜んでいました♪
私の場合は、マクロレンズで歩いているので野鳥を写しても(^^ゞ

 ジョウビタキ

 ジョウビタキは全国的に代表的な冬鳥のひとつとされる可憐な小鳥です。
雌雄で羽の色が異なり、雄は銀色の頭と橙色の下面がとても美しく、冬枯れの人里に彩りを添えてくれます。
雌はやや地味な色彩ながら、やはり橙色系の色彩が目を引きます。
冬の間、平野部に渡来し、疎林(そりん)や庭先、公園の植え込みのような、やや開けた場所に単独で現れます。
 ジョウビタキは漢字で「尉鶲」と書くのが一般的です。
「尉」は男性の老人の能面のことで、つまりは「翁」の意味です。
ジョウビタキの雄の銀色の頭を老人の白髪頭に見立てたネーミングです。
「翁」は年配者を敬い、親しみを込めて呼ぶ言葉であり、この鳥の頭部の品位ある白銀色の輝きにふさわしい名だと感心します。
 他にも、上等なヒタキ類という解釈では「上鶲」と書き、身近にいつも存在するもの、もしくは秋になれば毎年必ずやってくるものという意味で「常鶲」と表記します。
…後略…
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一 ナツメ社 2015年)