2021年11月17日水曜日

暖かい朝だけど…

朝夕と昼間の寒暖差が大きいけれど
歩いていると日差しがポカポカして気持よかったです。
でも、この冬は寒くなるとか…

大阪では1月10日の今宮神社の十日戎が有名だけど、関東地方では

とり・の・いち【酉の市】
11月の酉の日に鷲(おおとり)神社(大鳥神社)で行われる祭。
初酉の日を一の酉といい、順々に二の酉・三の酉と呼ぶ。
特に東京下谷の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺までにぎわう。
おとりさま。酉のまち。<[季]冬>
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
市日(いちび)
 市とは一定の場所に大勢の買手と売手が集まって商いをするもので、市立の時期からみると社寺の祭日・縁日(えんにち)に開かれる縁日市のほか、斎(さい)市・日市・大市には三・六・九斎市があり、たとえば二と七の日というように毎旬2回、月6回開かれるのが六斎市であり、日市とは毎日開かれるものである。
また大市は盆市・暮市・初市などをさし、今日のデパートにおける中元・歳末大売出しにその伝統の一端がうかがえる。
 一方、各地に見られる朝市は日市の一種で、漁村や農村の生産者が新鮮な生産物を直接交易する場である。
漁村と農村の境界に立つもので、秋田県本荘市・山形県温海(あつみ)町・新潟市・直江津市・輪島市・七尾市など日本海沿岸部に多く、このほか鹿児島市や高山市の朝市も名高い。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)
 市は日を追ってつぎつぎに開かれ、広い地域全体では毎日どこかで市が開かれているという仕組みになっている。
商人たちは市を渡り歩くことになるが、その手配や店に配置にはテキヤ(露天商組合)があたった。
また市で取引される品は種々雑多であるが、特定の品物しか取引しない場合も少なくなり。
ダルマ市・ボロ市・ベッタラ市・朝顔市など、取引される品物によって市の名がつけられている。

べったら市
毎年10月19日・20日の両日、東京日本橋の宝田神社の祭礼の折に大伝馬(おおでんま)町付近の路上にたつ市。
江戸時代からのもので、こうじ漬のダイコン(べったら漬)を売ったことから命名。
市神(いちがみ)
 市神は市の守護神で、交易にあたった人々にサチをもたらすものと信じられており、エビス神・大国主命(おおくにぬしのみこと)・市杵島姫(いちきじまひめ)・宗像(むなかた)神・弁財天(べんざいてん)などが祀られている。
しかし、路傍の自然石のままで市神と称せられているものも数多い。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)

市神の石碑(いちがみのせきひ)」(文化遺産オンライン)
 堤中納言物語
   五、文学的価値


 堤中納言物語は日本に於ける最初の短篇小説集である。
この物語は前述の如く近代になつて注目された作品であるが、それが在来あまり顧慮されなかつたのは、当時としては余りに作者に創意がありすぎて、言ひ換へれば当時の文学的形式とは不調和な破格が存してゐるからにもよらう。
 この物語ほど各種の形式を含んだ短篇小説集は此当時には見られなかつたといつてよい。
題材にヴアラエテイがあるといふよりその扱ひ方に非常な変化が発見出来るのである。
暫く各説話について極く簡単に構想其他の特徴を述べて見よう。
(『川端康成全集第三十二巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和57年)
 「蟲めづる姫君

 この作品は、堤中納言物語十篇中に於ける最も有名な作品の一つであつて、源氏物語の英訳者Arthur Waley が、The lady who loved Insects と題して、1929年ロンドンで発表してゐる。
 作者はこの物語を書くにあたつて、あくまで客観的な、皮肉と考へられる程の冷静な態度でのぞんでゐる。
先づ冒頭に於て、美しい蝶を愛づる姫君の住む隣に人のいやがる気味の悪い蟲を可愛がる美しい姫がゐると作者の意図を大胆に提示して読者の批評的精神を喚起していゐる。
 次に作者はこの作品のテエマを姫の次の如き言葉によつて明示する。
「人は実(まこと)あり、本地尋ねたるこそ心ばへをかしけれ。」
かうして姫は昆蟲の成長変化の状を観察しようと恐しい毛蟲を自ら飼育はじめる。
姫の真理追求に対する態度の描写に関して作者は抜目なく用意してゐる。
即ち昆蟲類のうちで姫の最も気に入つたものとして見ただけで厭悪の情を催す毛蟲を持ち出してきてゐる。
美しい蝶が醜い毛蟲から変化するといふ一つの自然現象をとらへ(構成の上から云つても冒頭の蝶めづる姫と蟲めづる姫の件に照応する巧妙さを発見するが)研究対象に対して、その美醜からくる主観的な感情を挿まず、客観的な科学者的態度を以て姫を臨ましめてゐる。
彼女の真理に対するひたむきな追求は日常の彼女の生活の末節にまで現れる点等描いて余すところがない。
即ち彼女は不自然なるものに反対するといふ立場から、当時の風習に反して眉毛も抜かず、おはぐろもつけない。
毛蟲の表面的な醜さを嫌ふ女房達、事象の表面にのみ幻惑されてその本質を認識しようとしない人間達を甚しき俗物だと罵る。
真理の前には両親の言葉も何の権威を持ち得ない。
非妥協的に自己の持論を主張し、世評を気にする両親に対して「苦しからず」と云つてゐる。
以上の如き旧来の風習、世間の俗流に対する反抗は更に発展し、召使ふ童の名も「例のやうなるは侘し」とて、「けらを。ひきまろ。」等蟲の名をつけるに至つてゐる。
しかも作者は彼女があくまでかよわき女性であることを忘れず、他の一面に於て充分な用意を働かせてゐる。
右馬の助が巧妙な蛇の偽物を彼女に送ると、彼女は念仏を唱へ、冷静を装ひながらも、「近くに引き寄せ給ふもさすがに恐ろしく覚え給ひければ、立処居処蝶の如く、せみ声に宣ふ声のいみじうをかしければ」と作者は姫の姿態を鮮やかに描いてゐる。
又彼女が庭で蟲いぢりをしてゐる姿を右馬の助等若き公達に眺められてゐると召使から聞いて、いきなりあたふたと家の中に飛んで逃げだすさまなど、理屈を抜きにした若き女性の男性に対する心理を巧みにとらへてゐる。
「蟲めづる姫君」の一篇に盛られた思想の哲学的基礎は「思ひ解けば物なむ恥かしからぬ。人は夢幻のやうなる世に誰かとまりて悪しき事をも見、善きをもみ思ふべき」といふ仏教的思想であるが、要するにこの作品の特徴は当時の仏教的思想から引き出し得る最大限の科学性にある。
蓋し、物の本体を追求しようとする精神、事物をその生成発展の過程に於て実証的に観察しようとする自然科学にまで通ずる方法、実に当時の情趣生活の対蹠的なものを表現しようとする意志などが、遙か古き時代に於いて取上げられた点、この作品が近代の共感を誘ふ所以である。
決して単に変態的性格の描写が中心主題であつたと認むべきではない。
但しこの作品の主題は直接には「今鏡」の京極宗輔が蜂を好み飼つた事蹟からヒントを得てゐるといはれてゐる。
 尚この物語の後に、このあとは「二の巻にあるべし」と附記されてゐる。
しかし現在その巻が無いので残闕本ではないかといふ説もあるが、この奇抜な構想をもつ作者のことであれば、この二の巻の附記も恐らく作者の技巧であらるといふ説も強く行はれてゐる。
   (昭和12年)
(『川端康成全集第三十二巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和57年)

次の準備ができるまで更新をお休みします。
今朝の父の一枚です(^^)v

 派手なのに、目を凝らさないと見つけられない鳥
…前略…

 非常にきれいで、写真を見る機会も多い鳥ですが、実際に見ると、思ったより小さいことに驚くかもしれません。
カワセミの全長は17センチほどありますが、クチバシが大きいことを考えれば、体そのものはせいぜいスズメ程度です。
また、スズメほど気楽に人の近くに来る鳥ではないので、野外で見つけるのもスズメほど楽ではありません。
派手な色とはいえ、「そこにいる」と思って目を凝らさないと、肉眼で確認するのは難しいでしょう(光線の具合によっては「枯れ草の中になんだか青く見える、あれは何だろう?」と気づくことも、ないわけではありませんが)。
 カワセミがいるのに気づくのは、たいてい目の前を飛ぶ姿か、鳴き声です。
カワセミは水の上を高速で一直線に飛ぶので、川面を横切る姿を目にすることがしばしばあります。
青いきらめきが見えたらほぼ間違いなくカワセミなので、見失わないように目で追いかけていれば、水面に張り出した枝の上にでもチョンと止るのがわかるでしょう。
たぶん、しばらくそこに止っているので、双眼鏡でも望遠鏡でも向けてじっくり観察できます。
…後略…
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)