今朝は、青空が広がっていました。とべら【海桐花】
トベラ科の常緑低木。
高さ1~3メートルで本州から海岸近くに生ずる。
密に分枝して、全体に円い樹形をなす。
葉は光沢がある。
初夏、白色五弁で筒形の花を開き芳香がある。
雌雄異株。果実は円く熟すと開裂。種子は赤褐色。
茎葉に一種の臭気があり、昔、除夜の扉に挟んで疫鬼(えきき)を防いだ。
公園樹や庭木として栽培。トビラノキ。
<[季]夏>。<日葡>
とべら・やき【海桐花焼】
節分の豆を炒る燃料にトベラの木を用いること。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)11月15日は
「京都・近江屋跡 坂本龍馬 非業の死に迫る」(NHK みちしる)
(坂本龍馬、中岡慎太郎の墓を訪ねた記事 リンク切れもあり)
「清子さん結婚 皇室を離れる」(NHK アーカイブス 2005年)
岸政彦さんのTwitterに
ほんと良かったね。がんばって、自由に生きていってほしい。
そしてメディアはもうくだらない報道をするのを一切やめてほしい……
「日本の元プリンセス・眞子さん、ニューヨーク到着 新生活へ」(BBCNEWS) 七五三
宮中・公家・武家の祝い
宮中や公家・武家のしきたりでは、子供の成長の祝いとして髪置(かみおき)・深曾木(ふかそぎ)・袴着(はかまぎ)・帯直(おびなお)しなどが行われていた。
髪置は子供の髪の毛を伸ばしはじめるときの儀式で、それまでは髪の毛を剃って頭を丸めていた。
平安時代には三歳の春に行われていたが、室町時代に公家は二歳、武家は三歳で11月15日の行事になった。
長寿や子宝に恵まれた人に儀式上の親になってもらい、苧(からむし)や藪柑子(やぶこうじ)などの飾りのついた真綿の帽子や米粉を子供の頭にかぶせ、その髪を櫛や笄(こうがい)でとかすのがこの儀式である。
深曾木はいったん伸ばした髪の毛を一度切って整える儀式で、かつては三~七歳に行われていた。
…後略…
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)第九章 女性の一生
着袴
幼児は三、四歳または六、七歳に達すると、男女の別なく着袴の式を行います。
着袴はチャッコともハカマギともいいました。
その年齢については、『貞丈雑記』一に三歳が本式であるが、人の好みによって五歳・七歳にしとこともあるといっています。
平安時代の文献では、『源氏物語』桐壺の巻に「このみこ三つになり給ふ年、御袴着のこと、一の宮に奉りしにおとらず……いみじうせさせ給ふ」として三歳とするほか、『日本紀略』その他の歴代天皇が三歳で御袴着を行なわせられた例が多く見えますが、また時に五歳・六歳、あるいは八歳・九歳・十二歳・十四歳の例も見えています。
女子の場合も、三歳で行わせられた内親王の例が多く見えますが、しかし五歳・六歳の例もないことはありません。
(『平安朝の生活と文学』池田亀鑑 ちくま学芸文庫 2012年)(「蟲めづる姫君」つづき)
相手の右馬の助はこの返事を受け取つて、
「ほう、これあ、また、珍らしい風変りな文句だ。」
と思つて、
「なんとかしてこの女を見たいものだ。」
と、中将としめし合せて、怪しげな女装に身をやつして、按察使の大納言の留守に出掛けて来て、姫の居間の北側の立蔀(たてじとみ)の蔭にひそんで、ぢつと様子を窺つてゐると、召使の童が、見たところなんの変哲もない庭の草や木などのなかを、あちこちときどき立ち止りながら歩いてゐたが、ふと或る植木の前に足を止めると、
「やあ、この木全体、うようよ這つてゐるぞ、こいつあ素晴しいなあ。お嬢様、そら御覧なさいませ。」
と簾(みす)を引き上げて、
「とても面白い毛蟲ですよ。」
(『川端康成全集第三十五巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和58年) すると、内から姫のはきはきした利口さうな声が、
「さう、面白いことね。此方へ持つておいで。」
と命ずる。
けれども男の子は、
「いろいろ取り別けることなんか、とてもできあしません。こちらへお出になつて御覧なさいまし。」
と云ふ。
すると、姫は荒つぽい足どりで出て来た。 簾を押しやり、枝を見詰めてゐる姿を、見ると、著物を被らむばかりに上に着上げて顔ばかりひよつこり出したやうに不恰好にきてゐる。
垂髪のさがつた工合はなかなかすつきりとして見えるが、櫛をよく入れず手入れもしないのであらう、髪には色艶がない。
しかし眉はとても黒く美しくくつきりとして、いかにも涼しさうに見えた。
口元も愛らしく清楚だけれど、お歯黒をつけてゐないので、どうも女らしくない。
化粧したら尚美しくなるだらう。
「惜しいことだ。」
右馬の助は思つた。
これほどまで、みすぼらしい様子をしてゐながらも、醜いどころか、非常に人と変つて、目立つた気品があり、立派な様子は、このままではまつたく惜しい気がした。
練色の綾の袿一襲を着て、その上に蟋蟀(こほろぎ)模様の小袿を重ねて、白い袴をわざとはいてゐる。 蟲をつらつら見ようと思つて、身体を差し出して、
「まあ、面白いこと。日に照りつけられるのが苦しいので、こつちへ這つてくるのよ。お前、それを一匹も墜さずにこつちへやつておくれ。」
と云へば、召使は蟲を追はうとして、木の枝を突くと、蟲ははらはらと落ちる。
姫は白い扇に黒々と漢字の手習したのを差出して、
「これに拾つておくれ。」
と云ふ。
子供はそれに蟲を拾ひはじめた。 若い公卿達は、
「まはりに蟲だらけで、あきれかへるほどいやになるが、御本尊はなかなか美しいなあ。」
と思ひながら見てゐる。
すると、ほかの召使の童が、この佇んでゐる公達を見とがめて、
「あの立蔀(たてじとみ)のところに身をつけて、綺麗な男が、変な様子で覗いてゐますよ。」
と大輔の君といふ女房に告げた。
女房は、
「あら、大変、お姫様はまたあの蟲を御覧にならうと、お姿をお見せになつていらつしやるに違ひない。お知らせしなくては……。」
と云つて、大いそぎで来て見れば、姫は先刻(さつき)の通り簾(みす)の外で、大声をあげて、毛蟲を払ひ墜させてゐる。
とても恐しくて、側へは寄れない。
遠くから、
「お這入りなさいませ。お嬢様、外から見えますよ。」
と諫めれば、姫は蟲いぢりを止めさせようと思つて言ふのだと勘違ひして、
「いいわよ、なにも恥しいことなんかありやしないわ。」
と、てんで受けつけない。「やれやれ、困つたこと。嘘とおぼしめすか。立蔀のすぐ傍に、御立派なお方がこちらを見てをられますよ。さあ早く。奥へお這入りになつて、御覧なさいませ。」
すると姫は傍の童に、
「では螻蛄男(けらを)、あそこへ行つて、本当かどうか見ておいで。」
子供は駆け出して行つたが、すぐ帰つて来て、
「ほんとうに居りました。」
この報告をきくと、姫は急にあわてて、ついと庭へ出ると、大いそぎで毛蟲を袖の中に拾ひ込んだと思ふと部屋の中へ後も見ず駆け込んでしまつた。
(『川端康成全集第三十五巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和58年)
つづく…今朝の父の一枚です(^^)v
オオバン〔大鷭〕
ツル目クイナ科。全長39センチ、体重730グラム位。
ユーラシア大陸に広く分布しているほか、ニューギニア、オーストラリア、インドにもすみ、冬にはアフリカにも渡る。
日本では全国的に見られるが、北日本では繁殖しており、西日本では少ない。
最近大分県での繁殖が知られている。
冬には凍結しない湖や池沼にすみ、水中に潜(もぐ)って水草を食べている。
脚趾(あしゆび)の水かきは小さいので、潜水はあまり上手ではない。
冬には数十羽から数百羽の群れで見られることも多い。
バンの仲間で大柄なのでこの名がある。
(『野鳥の歳時記6 真冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)