2021年11月21日日曜日

穏やかな天気が続き

穏やかな天気は今日までみたい…
夜になると寒冷前線の影響で雨が降り出すようです
沖縄や奄美に漂着している軽石
利用方法はないのかなと思っていました。

漂着した「軽石」は資源になる 沖縄県環境部が発表した軽石の分析結果〟(Yahoo!ニュース 森田正光 11月20日)

軽石の中に毒性のあるヒ素やカドミウム、水銀などが入っていては使うことはできません。
 そこで今回の分析結果ですが、結論から言うと沖縄県内三か所から採取したサンプルは、
いずれも“土壌環境基準を満たしている”というものでした。
 見方を変えると、今回の軽石は土木建築資材や農業用資材等としての活用が見込まれるということで、
厄介者から一転、資源になる可能性が出てきました。


漂着した軽石の成分分析について」(沖縄県 11月17日公表)

こんな取り組みもされている

「厄介者」を資源に 漂流軽石、土壌改良に活用 伊仙町の宮出珈琲園〟(南海日日新聞 11月5日)
昨夜のブラタモリ「フォッサマグナ~“日本”はどうできた?~
番組で登場した「諏訪解説

日本列島が大陸から分れる時に
ぐわっと真っ二つに割れてここに来たんです。

大きな溝ができて
そこに大量の土砂だとか
火山の噴出土がたまっていますけども
その西側の端がここに来ているの


を解説された人物は(^_-)
この「諏訪解説」を読み解きながら番組が進行します。
日本の国土は、自然から災害を受けてきましたが、同時に恩恵も受けています。
私もフォッサマグナについて誤解していたし、知らないことがいっぱいありました!
虫めづる姫君」を読むのに手に入りやすいのが『虫めづる姫君 堤中納言物語』。
現代語訳された蜂飼耳(はちかい みみ)さんの解説を転記します( ..)φ
 「あたしは虫が好き」を読むために

 『堤中納言物語』のなかで、もっともよく知られている一編は、いうまでもなく「虫めづる姫君」だ。
爽快なユーモアと、ずしりと響く人生へのまなざしが重なって、何度読み返してもあきない作品になっている。
現代に生きる一読者の目から見てそう感じるのだけれど、この作品と同時代の読者あるいは聞き手には、どんなふうに映っただろう。
やはり、受け手の胸には、おかしさとせつなさが届けられただろうか。
虫の好きな姫君だけでなく、周囲の登場人物たちの描写もとてもいきいきとしていて、楽しく読める。
(『虫めづる姫君 堤中納言物語』作者未詳、訳者 蜂飼耳 光文社古典新訳文庫 2015年)
 虫の好きな姫君のために、虫を捕ってくるのは男の子たち。
姫君の侍女たちは、こわがるばかりだ。
姫君は男の子たちに虫の名前を訊ねる。
はじめて目にする虫には、名前をつけて面白がる。
自由に研究しているような日々。
姫君はこういう。
「人はすべて、つくろう所あるはわらし」。
人間というものは、何事についてもよく見せようとして取り繕うのはよくない、というのだ。
 年ごろの女性なら抜くのが身だしなみとされた眉を、自然の状態のままにして、歯にはお歯黒をつけることもしない。
白い歯を見せてほほえむ、一日中、虫と遊んでいる。
侍女たちがこわがって逃げると、それをたしなめる。
 取り繕うのはよくない。
姫君のこの台詞こそ、この物語のなかでも、ひときわ印象的で心に焼きつく言葉だ。
いくら自然のままがいいといっても、身だしなみに関する慣習を、若い女性が正面から否定するのは容易ではないだろう。
勇気のある反逆者。
我が道を行く変わり者だ。
 周りは手こずるが、とくに親は困らせられる。
まったく、うちの娘は変わっている。
とはいえ、あんな態度を取るのは、なにか悟っていることがあるのかもしれない。
親たちはそんなふうに考えてみるものの、娘の反抗的な態度を恥しく思う。
世間体が悪いとか、だれでも見た目がきれいなのが好きなものだよ、などと忠告するけれど、姫君は聞き入れない。
「よろづの事どもを尋ねて末を見ればこそ、事はゆへあれ」。
すべてのことは元を探求し結果を見てこそ、因果関係がわかるもの。
世間体を気にするより、そっちのほうがよほど大事だという。
 毛虫を観察し、やがて蝶になるところを見届ける姫君にとっては、世間の人々による評判などつまらないものなのだ。
すべては移り変わる。
浅薄な評判、人目を気にしての言動など、心に懸けるまでもないという価値観。
変わり者に見えても、姫君の考え方にも一理ある。
だから親も、頭ごなしに叱りはしなのだろう。
若い侍女たちが姫君の悪口をいっても、年配の侍女のなかには肩を持つ者もいる。
どちらの側にも、それなりの言い分があることを、作者は見事に描き出している。
 この姫君は、どうしてそのような性格になったのだろうか。
物語のなかに、それは書かれていない。
偶然、虫を観察するようになって、虫の生態から教えられたのだろうか。
物語だけから判断するなら、この姫君の先生は、やはり虫たちということになる。
同時に、虫を捕ってきてくれる男の子たちもまた姫君の先生だろう。
自然界への窓を開いてくれる存在が、この姫君の先生なのだ。
それに対して、虫をこわがる侍女たちや世間体を気にする親たちは、人間の世界や日常に縛られる生き方から離れられない存在。
限られた視野のもとで生きる者たち、ということだろう。
 さて、ある日のこと。
この姫君のもとに、おかしな贈り物が届けられる。
布で作られた蛇だ。
姫君も侍女たちも、本物の蛇だと勘違いして驚き、慌てふためく。
姫君は、これは前世の親だったかもしれないんだから騒がないで、と侍女たちをたしなめる。
だれかが虫の好きな姫君の噂を聞いてこんないたずらをしたんだろう、と姫君の父は推測する。
贈り物と手紙の主に対して返事を書くことになるのだけれど、それがまた変わっている。
ふつは仮名で書くべきところなのに、片仮名で書く。
「契りあらばよき極楽に行き遭はむまつはれにくし虫のすがたは 福地の園に」。
蛇のあなたと縁があるなら、生まれ変わったとき極楽でお会いしましょう。
蛇のすがたで近くにいるのが難しいので。
そんな内容の返信だ。
 蛇の贈り物をしたのは、右馬佐(うまのすけ)という貴公子。
眉も剃らないし、お歯黒もつけないし、赤ではなく白い男物みたいな袴をつけて、毛虫を喜んでいる姫君は、それでも魅力ある人だと、右馬佐の名は映る。
化粧すればきっときれいなのに、と思うのだ。
みっともないところを見られてしまったと、邸の人々は嘆く。
侍女が姫君に代って歌を返す。
右馬佐は、あなたにかなうような人はいないだろう、という歌を詠み、笑って帰っていく
 この「笑ひて」という言葉が気になる。
結局、姫君は変わり者として右馬佐にからかわれたに過ぎないのだろうか。
その直後に、原文では「二の巻にあるべし」とある。
これは、まるで続編があるかのように思わせる趣向の、結びの言葉。
身だしなみや格好はちょっとおかしいけれど、きれいな人だ、と右馬佐は思ったのだ。
ということは、もしかすると、風変わりな恋愛に発展するかもしれない。
笑って帰りはしたけれど。
そんな期待も少しは誘い出して、この物語は閉じられる。
 もし、「二の巻にあるべし」という一行がなかったら、どうだろう。
その場合、姫君は笑いものにされて終わるようにも見える。
でも、そうではない可能性もあることを婉曲(えんきょく)に伝えて幕切れとなる結末に、この物語の度量の大きさが感じられる。
 世間の慣習に逆らって生きることへの憧れと、その難しさ。
衝突する価値観と、そこから生まれる多様なものの見方。
この物語は、生きている限りつきまとう矛盾を、引き受けようとする。
姫君を一つの固定観念に閉じこめず「二の巻にあるべし」という方向へ脱出させる終わり方は、とてもすてきだと思う。
読み返すたびに、人々があざやかに動きはじめる物語だ。
(『虫めづる姫君 堤中納言物語』作者未詳、訳者 蜂飼耳 光文社古典新訳文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)v
帰ろうとしたとき、公園でイベントがあるみたいで人出が多いので、
それを避けて歩いているとジョウビタキ(雌)に出会ったそうです。

ジョウビタキ〔尉鶲〕
 スズメ目ヒタキ科。全長14.5センチ、体重16.5グラム位。
バイカル地方以東のシベリア南部、モンゴル、中国、朝鮮半島などで繁殖し、冬にはアジア南部へ渡る。
日本では冬鳥で、全国で見られる。
平地から低山地の、人家と林と農耕地が組み合さっている所や、川沿いなど開けた場所にすんでいる。
頭が翁(おきな)のように灰色をしているので尉(じょう)
体を振ってカタッ、カタッという音を出し、これを火石を打つ音に聞いて火焚(ひたき)、鶲(ひたき)である。
昆虫類を主食にしているので、冬でもなわばりを持つ必要があり、渡りの時以外は単独で過ごす。
冬には木の実も食べるので、庭でもよく見られる。
(『野鳥の歳時記5 冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)