2021年11月28日日曜日

居眠りしそう…

ニュースを見ていると今シーズン一番の冷え込みだそうです。
公園を歩いていると風がなくて、日向で座っていると居眠りしそうなほど気持ちがよかった。

今シーズン一番の冷え込み 福島で初雪 静岡や名古屋などで初氷」(NHK)
弘長(こうちょう)2年(1263.1.9)に親鸞が亡くなりました(90歳)

僧侶が体を動かしながら念仏唱える「坂東曲(ばんどうぶし)」 京都 東本願寺〟(NHK京都)

2016年4月に放送された100分de名著『歎異抄』のテキストより一部転記します( ..)φ
 歎異抄
  第1回 人間の影を見つめて
  親鸞とその思想

『歎異抄』を読み解く前に、親鸞の人物像について簡単にご紹介します。
 親鸞は、承安(じょうあん)3年(1173)に下級貴族・日野有範(ありのり)の長男として京都に生まれました。
両親とは幼少期に死別したと伝えられてきましたが、最近の研究では後年まで生存したとされています。
9歳で仏門に入り、比叡山で20年間の修業を続けます。
建仁(けんにん)元年(1201)、29歳の親鸞は比叡山から京都の六角堂まで、百日間の参籠(さんろう)をします。
そして夢告(むこく)を受けて、法然(ほうねん)の門下に入るのです。
(「100分de名著『歎異抄』」釈徹宗 NHK出版 2016年)
 承元(じょうげん)元年(1207)、いわゆる「承元の法難」に遭って越後の国府(現・新潟県上越市)へ流されます。
その4年後に放免されるものの京都には戻らず、常陸国を中心に教化活動に専念。
主著『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい<教行信証>』の草稿をほぼ完成させたのもこの地です。
しかし60歳を過ぎて、親鸞は長きにわたり親しんだ常陸の地を離れて帰洛します。
 84歳で息子の善鸞(ぜんらん)を義絶したことも、その生涯を語るうえで欠かせない逸話です。
京都に帰った後の関東で、法然の教えとは異なる勝手な解釈が広まっていることを嘆いた親鸞は、かの地に息子を送りました。
ところがその地で善鸞は人々の歓心を買うためか、勝手な自説を展開したようです。
それを知った親鸞は善鸞と親子の縁を切ったのです。
その後も旺盛な著述活動を行った親鸞でしたが、弘長2年(1262)、90歳でこの世を去ります。
…後略…
夢告 親鸞の夢に救世観音菩薩姿の聖徳太子が現れ、「行者宿報設女犯」の偈(おまえが宿因の報いとして妻帯するときは、私が女となって一生添いとげ、臨終に引き続いて極楽に生まれさせる)を示したという。

承元の法難 承元元年(1207)、法然・親鸞ら専修念仏の僧が流刑、死刑となった弾圧。きっかけは風紀問題だが、背景には、政権・既成教学に依ることなく教勢を広げる専修念仏に対する既存仏教勢力(延暦寺・興福寺)の敵視・敵対があった。

善鸞 1210~92。親鸞の息子。父の信頼を得て関東に下ったが、そこから一転して、弥陀の本願はしぼんだ花だから捨てるようにと説き、異議を唱え、父母を中傷した。そのため親鸞は1256年、善鸞を義絶。その後善鸞は独自に布教にあたった。
(「100分de名著『歎異抄』」釈徹宗 NHK出版 2016年)
 「虫めづる姫君」を紹介してきましたが、『枕草子』の第50段(「春曙抄」)に「虫は」が出てきます。
これまでにも蓑虫の部分を紹介していますが、島内裕子さんの「」と「」を転記します( ..)φ
  訳
 虫、と言えば、秋に鳴く鈴虫、松虫、機織(はたおり)、蟋蟀(きりぎりす)が、まず思い浮かぶ。
春の季節では蝶。
そう言えば、海中の藻(も)に棲む割殻(われから)や、はかない命の蜉蝣(かげろう)や、夜光を放つ蛍も思い浮かぶが、これらは、和歌では好んで詠まれる。
これ以外の虫の中では、蓑虫(みのむし)がたいそう哀れ深い。
鬼が産んだと言われていて、大きくなったら鬼である母親に似て、きっとこの子も、恐ろしい心を持つだろうと、ぼろぼろの衣を着せて、父親が、「今から先、秋風が吹く頃になったらまた来るから、それまで、ここで待っていなさい」と言って、父親は、この子を置いて逃げて行った。
蓑虫はそうとも知らずに、風の音で、秋になったのを知って、八月になると、「父よ、父よ」と、はかなげに鳴くのである。
本当に可哀想でならない。
(『枕草子 上』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
 蜩(ひぐらし)は、秋の蟬。
叩頭虫(ぬかずきむし)も、心が揺るがされる虫である。
どういう心から、道心を起こして、こうも、しきりに額(ぬか)ずくようなしぐさをするのだろうか。
この虫が、思いがけず、暗がりなどに、ほとほとと鳴いているのを聞きつけると、はっとする。
 ところで、こういった哀れな虫と違って、蠅は本当に憎らしい物の中に入れなくてはならない。
可愛らしさなどかけらもなく、憎らしいものであるから、一人前の虫として論評して、ここに書かなくてもよいのだが、どんなところにも止まって、濡れたような感触のする足で、人の顔などにも止まるのが、我慢ならない。
それなのにどういうつもりなのか、人間の名前に「蠅」という字が使われることがある。
全く気が知れないことだ。
 夏の虫は、とても面白く、廊下の上を飛び回る様子と言ったら、とても可笑しい。
蟻は憎らしいけれど、とても軽く、水の上などでも平気で、すいすいと歩くのには、びっくりする。
 評
「虫のいろいろ」とでも言うべきコレクションであり、生態的に観察した「昆虫記」でもある。
その中にあって、説話的な背景を紹介している「蓑虫」が、とりわけ印象的である。
『春曙抄』は、寂蓮の「契りけむ親の心も知らずして秋風頼む蓑虫の声」を紹介している。
鎌倉時代初期における、貴重な『枕草子』受容の例としてよいのではないか。
また、この部分は、江戸時代の芭蕉や、彼の交友圏の文学者たちに愛好された。
芭蕉は「蓑虫の音(ね)を聞きに来(こ)よ草の庵(いほ)」という句を詠み、弟子の服部土芳は、この句によって、自分の草庵を「蓑虫庵」と名付けた。
芭蕉の友人である山口素堂は「蓑虫ノ説」という論説を書いた。
先にも触れたが、『枕草子』には、単語を配列する簡潔な表現力や、日常生活の中で出会うさまざまな虫や動物の生態観察、諧謔味を帯びた筆運びなど、俳諧の世界と通底する文学志向がある。
そのことを敏感に感じ取った俳人たちは、他の古典とは異なる新鮮な感興を、『枕草子』から受け取ったと思われる。
(『枕草子 上』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
なお、「人間の名前に『蠅』という字が使われることがある」とありますが、調べると古事記に

古事記 中つ巻

…前略…
師木津日子玉手見(しきつひこたまでみ<安寧(あんねい)天皇>)の命、
…中略…
この王(みこ)、二(ふた)はしらの女ありき。
(あね)の名は蠅伊呂泥(はへいろね)
亦の名は意富夜麻登久邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命。
(おと)の名は蠅伊呂杼(はへいろど)
…後略…
(『《新潮日本古典集成》古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
今朝の父の一枚です(^^)v
モズ♀に出会っていました。

折々の鳥  荒垣秀雄(あらがきひでお)

 モズ、ムクドリ

 鶯(うぐいす)は春告げ鳥だが、モズ(鵙、百舌鳥)は秋告げ鳥といってよかろう。
山から里におりたモズが、欅(けやき)の大木などの高い梢(こずえ)にとまって辺りを睥睨(へいげい)しキーキーキチキチと鋭い声で鳴き、蹴散らした黄葉がハラハラと舞い落ちると、秋が来たなと思う。
モズの高鳴きは「縄(なわ)張り宣言」だという。
この辺一帯はおれ様の領地だぞというデラクレーション・オブ・テリトリーである。
これは他種の鳥にではなくモズ仲間への宣言だそうな。
縄張りを侵したモズには激しい攻撃をかける。
私は戦時中、フィリピン国マニラ市の公園で、二羽のモズが取っ組み合いのまま目の前に落下したのを見たことがある。
なかなかの猛禽(もうきん)だ。
かつて中西悟堂翁につれられて軽井沢星野温泉(故星野嘉助氏)へ探鳥会にいった時、モズが叫ぶと他の小鳥たちがみんな逃げて姿を隠してしまうのを見たことがある。
小鳥の頭に嘴を突き立てることもあるそうだ。
縄張りがきまるとあとは優しい色っぽい声になり、雌への求愛が始まる。
…後略…
(『野鳥の歳時記4 秋の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)