2021年11月13日土曜日

青空が広がり

雲の姿をあまり見ることできないほどの青空でした。 
昨日は、東屋の温度計が9度だったけど、今朝は、6度でした。
寒さが一段と進みヒイラギも咲き出しました。
漢字で書くと「柊」
先日、寺田寅彦の「蛆の効用」と新美南吉の「二ひきの蛙」を転記しました。
蛆も蛙も「虫偏」。
虫偏の漢字は多く、「にじ(虹)」も含まれています。
辞典を見ると

【虫】[解字]
[一]【虫】象形。へびの形を描いたもので、まむしのこと。
[二]【蟲】会意。虫を三つあわせたもので、多くのうじむし。
転じて、いろいろな動物をあらわす。 
▽もと、虫と蟲(チュウ)は別の字であるが、のち、虫の字を蟲の略字として用いる。

】[解字]
会意兼形声。
「虫(へび)+(音符)工(つらぬく)」。
天空を貫く大蛇(ダイジャ)に見たてた呼び名。
(『新版 漢字源(改訂新版)』藤堂明保他編 学習研究社 1984年)
 最近、知った『堤中納言物語』を読んでビックリです。
特に「虫めづる姫君」は、作者未詳だけどすごいなぁ!

加藤周一さんの『日本文学史序説(上)』にも取り上げられています。
第三章 『源氏物語』と『今昔物語』の時代
 『源氏物語』以後

…前略…

『堤中納言物語』のなかにも、平安朝物語に決してみられなかった型の人物が登場している。
すなわち「虫めづる姫君」。
蝶は毛虫から生じるといので、毛虫を愛し、「人はすべてつくろふところあるはわろし」というので、化粧をしない女。
親が毛虫を面白がっていては世間態が悪いというと、彼女は、「くるしからず。よろづの事どもをたづねて、末をみればこそ事は故あれ」と答え、男が近づいてからかい半分に歌を贈るということがあって、女房が毛虫を集めているのは恥しいことだというと、「思ひとけば、ものなむはづかしからぬ。人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しき事をも見、よきをも見思ふべき」と答える。
「人は夢幻のやうなる世」は、むろん、仏教的立場を思わせる。
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
しかし「人はすべてつくろふところあるはわろし」といい、更に「かはむしの心ふかきさましたるこそ心にくけれ」というところは、直接に仏教的立場からは結論されない。
むしろこの人物の意見の要点は、ものごとの末ではなく本を見よ、ということであり、世間的な美醜・善悪の標準は相対的なものにすぎないということであろう。
物語の人物は、すべて、彼らの感情を生きるが、「虫めづる姫君」だけは、彼女の一貫した意見を生きる。
そういう型の人物は、平安朝物語のなかにあらわれないばかりでなく、そもそも日本文学史の全体を通じて極めて稀である。
けだし『堤中納言物語』が、流行の物語の「パロディー」を超えて、時に人間的現実の独特の局面を示すといわざるをえない所以である。
…後略…
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
幾つか本を探して現代語訳を読んでいます。
初めに、今は読むことが難しい川端康成の現代語訳を転記したいと思います(図書室で借りました)。
本が出た昭和12年は川端康成が38歳で、6月に初の単行本『雪国』を創元社から刊行しています。
全集の「解題」によると
解 題 竹取物語 堤中納言物語 とりかへばや物語

「現代語譯國文學全集」第三巻に「竹取物語他二篇」として昭和12年8月15日、非凡閣より刊行された。
同書の巻頭には、それぞれ三篇の作品に対する解説が収められている。
本全集では、これを第三十二巻に収録した。
なほ、昭和18年8月30日に、非凡閣より仮綴本として「現代語譯竹取物語」と題し、「堤中納言物語」と二篇を収め、刊行されたことがある。
「とりかへばや物語」は、昭和12年当時でさへ、伏字を余儀なくされてゐた。
それが昭和18年ともなると、世情の極端な右傾化が促進され、ために皇室の尊厳ををかすおそれありとされて、この一篇を削除したと思はれる。
また「竹取物語」はのちに「日本國民文學全集」第五巻「王朝物語集Ⅰ」(昭和31年6月25日、河出書房刊)、「日本文學全集」第三巻「竹取物語・伊勢物語・落窪物語・夜半の寝覚め」(昭和35年9月15日、河出書房新社刊)などにも収められたことがある。
 この現代語訳については、最近、川端家から発見された資料によって検討してみるに、石浜金作氏などが、一部に協力したのではないか、と推測される趣があることを、付け加へておく。
(『川端康成全集第三十五巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和58年)

・『とりかへばや物語』について河合隼雄さんが『とりかへばや、男と女』で分析されています。
 堤中納言物語

 蟲めづる姫君


 蝶の好きな姫君の隣には、按察使(あぜち)の大納言のお嬢さんが住んでゐた。
 彼女のなみなみでない奥ゆかしさには、両親達はこの上もなく大切に侍づいてゐた。
 この姫君は、
「人々が花よ蝶よと、褒めはやすのを聞くと、ほんたうに便りなく思はれますわ。人には真理(まこと)を愛する気持と云ふものがあります。物の本体を究明(ただ)すことこそ、心がけの立派なことだと思はれますわ。」
 とつねづね云つて、沢山の蟲の恐ろしさうなのを採蒐して、その成長変化して行く状態を見ようと、さまざまな籠や箱などに入れさせた。
 中にも毛蟲の、いかにも深刻さうな様子をしたのが気に入つた、と云つて、朝夕頬に垂れさがる額髪を、うるささうに耳に挟んで、熱心に掌に這ひまはらせ見守つてゐる。
 若い女房達は恐ろしがつて騒ぐので、物怖ぢしない、身分の低い男の子を傭ひ入れて、箱の蟲どもを世話させ、そして蟲の名を訊ねたり、まだ見知らぬ蟲には、新しく名をつけたりして、うれしがつてゐる。
 彼女は何事によらず、外面を飾り繕ふといふことはよろしくないといふわけで、女性の風習に反して、眉毛も抜かず、お歯黒は煩はしいし、その上穢らしいと云つてつけず、真白な歯でほほゑんでは、いつもこの蟲どもを可愛がつてゐた。
 かうした様を側に仕へる女房達が怖れ、気味悪がれば、姫は、
「まあ、俗物!」
 と真黒な眉の下からぐつと睨みつけるので、人々は、どうしていいかわからなくなつて、まごまごした。
 両親は変なことをする娘だと思つたが、
「なにか考へあつてのことだらう。」とも思ひ、又、「それにしても変だ。」
 とも考へ、忠告すれば、姫は激しく口答へをするので、親達は、
「なんとも弱つたことだ。」
 と、ただ姫の行為(こと)を心の中で世間態悪く考へてゐた。
時には見るに見兼ねて、
「それはさうらうけれど、世間の聞えも悪いぢやないか。人は見ばの好いことを好くものですよ。あなたのやうに気味悪い毛蟲など面白がつておもちやにしてゐるなんて、人聞きの大変悪いことぢやありませんか。」
 けれども姫は、
「云ひたい人には云はせておけばいいぢやありませんか、そんなこと、平気だわ。ほんたうはあらゆる事象(こと)を究明(ただ)して、見極めることこそ意義があるのです。それを、あれこれ云ふなんてまつたく幼稚ですわ。毛蟲はね、あの美しい蝶になるんですよ。」
 こんなことを云つて、毛蟲から蝶になる状態(やうす)を親たちに示さうと、蟲の箱や籠を取り出して来て見せる。
そしてこんな理屈を云ふ。
「着物になる絹糸を造る蚕だつて、まだ翅の生えないうちのことですよ。蝶になつてしまへば、もうなんの役にもたたず死んでしまふぢやありませんか。」
 この調子で、両親も二の句がつげず、呆れ返つてしまふだけだつた。
 けれども姫はさすがに親たちと面と向ふことは気がひけて、
「鬼と女とは、人に逢はない方がいいんだわ。」
 と考へた。
 かう云ふわけで、彼女は母屋の簾(みす)を少し捲き上げ、几帳をへだてて、いろいろと賢さうに言ひ出すのであつた。
 姫の云ふことを常に聞かされてゐる若い女房連は蔭で、
「大層利口ぶつていらつしやるけれど、私達は見ただけでも気が変になるくらゐよ、このお嬢様の御遊び物つたら、おおいやだ。それにひきかへ、まあどんな運のいい人なんでせうね、蝶を可愛がつていらつしやるお姫様に仕へてゐる方は。」
 と兵衛といふ女房が愚痴を云ひつつ、つづけてこんな歌をよむ。

  いかでわれとがむかたなくいでしかも
   烏毛蟲(かはむし)ながら見るわざはせじ
(なんだつて私はこんな家にうつかりと調べもせずに仕えてしまつたんだらう。さうでなかつたら、こんな毛蟲なんか見なくてもすんだのに。)
 すると大輔といふ女が笑つて、

  うらやまし花や蝶やといふめれど
   烏毛蟲(かはむし)くさき世をも見るかな
(うらやましいこと! 世間では花よ蝶よと楽しんでゐるやうだのに、私達は毛蟲くさい世の中ばかり見るとは。ああ、いやなこと。)

「つらいこと。お嬢様の眉毛はまるで毛蟲のやうぢやないこと。それに歯の白いのは、きつと毛蟲のやうに皮が剝(む)けたのでせうよ。」
 と云ふのは左近と云ふ女。そして、

  冬くれば衣たのもし寒くとも
   かはむしおほく見ゆるあたりは
(寒い冬がきてもこころでは着物の心配はいらない。毛蟲が沢山ゐるので、その毛皮を着るから。)

「きつと、着物なんか着なくたつていいんでせうよ。」
 こんな蔭口をがやがやと云ひあつてゐる。
ところが、これを口うるさい老女が聞きとがめ、
「あんた方は、まあ、なんといふ事を云はつしやるのです。蝶を持て囃す人ばかりが結構だとは決して云はれませんぞ。それどころか、とんでもない間違ひです。そりやあ、毛蟲を指して、蝶といふ人がありやうないですけれどな。けれども蝶は毛蟲の蛻(もぬ)けたものなのですぞ。お嬢様はそこのところを研究していらつしやるのぢやありませんか。さうしたお心掛けこそ奥床しいのです。それに蝶を捕へれば、手に粉がついてほんとうにいやなものですぞい。また、あれを捕へるとを起こさせると云ふことです。蝶なぞ、おお厭ぢや。」
 と叱りつけるので、若い人々は一層反感を募らせて、いよいよ蔭口をききあつてゐた。
(『川端康成全集第三十五巻』山本健吉、井上靖、中村光夫編 新潮社 昭和58年)

つづく…
ほぼ毎日のように更新していたのは、
予告もなく更新が止ると、また、緊急に入院したのかと心配されるかな?
この頃は、新型コロナに感染したのではと思われるかな?と…
でも、更新をしていると本を読む時間がとられてしまって
読みたいなと思う本が積読状態になっています(^^;)

リハビリ散歩はほぼ毎日出かけていますが、これからは、予告なく更新をお休みすることがあると思います。
1週間以上休むことはないと思いますが…(^^ゞ