4月13日(木)
花が大好きだった母に春の花を飾ってもらいました。
母は派手なことが嫌いなので
家族と親族だけのささやかな告別式。
ただお坊さんの鳴らす鐘(磬子 けいす)の音に
母が目を覚ましてくれるのではと思ったほど…
花が大好きだった母に春の花を飾ってもらいました。
母は派手なことが嫌いなので
家族と親族だけのささやかな告別式。
ただお坊さんの鳴らす鐘(磬子 けいす)の音に
母が目を覚ましてくれるのではと思ったほど…
僕の時は密葬にしてくれと妹に頼んでいます。
(その時は、妹と姪の二人でしてもらうので)
花が好きな母のために桜が満開になって待ってくれていました。
今までの寒さは、母に桜を見せてあげようと
神様のはからいだったのだろうな…
母が空に上るまでの時間
母が亡くなったのは4月10日午後10時42分
延命処置はしないでくださいとお願いしていたので
父と妹と三人で母が息をひきとるまで付添うことができました。
(骨が脆くなっているので心臓マッサージなどをすると
肋骨が砕けてしまうでしょうし…
義弟が亡くなった時、いっぱいつなげられていた姿が目に浮んで…)
看護師をしている姪は夜勤で来ることができません。
モニターの画像をメールで送る(21:54)と姪も覚悟をしたそうです。
延命処置はしないでくださいとお願いしていたので
父と妹と三人で母が息をひきとるまで付添うことができました。
(骨が脆くなっているので心臓マッサージなどをすると
肋骨が砕けてしまうでしょうし…
義弟が亡くなった時、いっぱいつなげられていた姿が目に浮んで…)
看護師をしている姪は夜勤で来ることができません。
モニターの画像をメールで送る(21:54)と姪も覚悟をしたそうです。
母が亡くなった後、帰りたがっていた家に連れて帰ることにしました。
母を迎える準備をするために母を父に頼み妹と二人で家に向かいました。
外は冷たい雨と風が吹いていました。
家のエレベーターは狭く寝台のままでは無理なのですが
父が「背負ってでも家に連れて帰りたい」と言ったので
葬儀屋さんがエレベーターの中で寝台を立てるようにして持ちあげてくださったそうです。
本当は一晩眠らせてあげたかったけど
人目に晒されるのを嫌がる母なので短時間の帰宅になりましたが
お茶と父の作ったみそ豆(油味噌)を供えてあげました。
待ってもらっていた葬儀屋さんに頼んで母を会館に連れていきました。
(母が2月4日に病院に搬送された時も夜中の1時頃でした)
母を迎える準備をするために母を父に頼み妹と二人で家に向かいました。
外は冷たい雨と風が吹いていました。
家のエレベーターは狭く寝台のままでは無理なのですが
父が「背負ってでも家に連れて帰りたい」と言ったので
葬儀屋さんがエレベーターの中で寝台を立てるようにして持ちあげてくださったそうです。
本当は一晩眠らせてあげたかったけど
人目に晒されるのを嫌がる母なので短時間の帰宅になりましたが
お茶と父の作ったみそ豆(油味噌)を供えてあげました。
待ってもらっていた葬儀屋さんに頼んで母を会館に連れていきました。
(母が2月4日に病院に搬送された時も夜中の1時頃でした)
義弟が亡くなったのは9月30日で季節は違いますが
同じように雨の後に晴れたので
義弟が青空を呼んでくれたような気がしました。
同じように雨の後に晴れたので
義弟が青空を呼んでくれたような気がしました。
13日は「啄木忌」 |
四月十三日午前九時、石川啄木君死す 初夏の曇りの庭に櫻咲き居りおとろへはてて君死ににけり 午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり 君が娘(こ)は庭のかたへの八重櫻散りしを拾ひうつつとも無し (『若山牧水歌集』) 母が天国に旅立った10日は「鴻雁北(こうがんかえる)」 沖縄から伯父さんが来てくれていたので一泊していただき 母の遺骨と遺影の傍らに寝ていただいた。 次の朝、三人で朝ご飯を食べた後、薬を飲むのに 漢方薬の袋の中に他の錠剤を入れて飲んでおられた。 そのやり方は母と一緒だった。 伯父さんは伯母さんを6年間も看病しているそうです。 昼食と夕食の介助に毎日、老健に通っているそうです。 父と姪が伯父さんを空港まで送ってくれました。 これからいろいろと事務的な手続きなどをしないといけません。 しばらくは妹と一緒に父を支えて届けなどの手伝いをしますので 当分の間、リハビリ散歩はお休みします。 |